それは終わりではなく始まりの音  




意識が浮上する感覚にしたがってまぶたを開く。
視界に飛び込んできたのは今にも泣き出しそうな顔のヴァイス。空と同じ色の瞳が涙でいっぱいになっていて、今にも溺れてしまいそうだ。
なんでお前がそんな顔をしているんだい、と言おうとしたけれど声が掠れて出なかった。
重たい腕をなんとか持ち上げてその手に触れる。固くて暖かい彼の手はエンシオディスの手とは違う。
「……お目覚めになられたのですね」
「ぼくは……たすかった、の?」
掠れた声は自分のものじゃないみたいだ。それでも彼はこくこくと何度も頷いている。僕はどうやら本当に助かったらしい。
視界を巡らせると見たことのない空間にいることがわかった。何やら音を立てる機械に繋がれている。
ここがどこなのかは分からない。エンシオディスもマッターホルンも姿が見当たらなく、この部屋にいるのはヴァイスだけ。
何はともあれ、僕は助かったらしい。
けれど、すぐにそのヴァイスもどこかへ行ってしまい、僕はベッドの上で横になっているしかできない。身体が思うように動かせない以上、おとなしくしていることしかできない。
「……エンシオディス」
おそらく僕をここに運んだのは双子の弟エンシオディスだろう。
強くて優しい僕の魂の半身。彼も忙しいはずなのに僕のことを優先してくれたのだ。それが嬉しかった。
嗅ぎ慣れない薬品の匂い、聞き慣れない音、たくさんの人の気配。そのどれもが僕の神経を昂らせる。
早く会いに行きたかった。会って話がしたかった。でも今は身体を動かすことすらままならない。
こんな時に限って自分の体が憎らしくなる。もう少し丈夫だったならエンシオディスに会いに行くことができたのに。そうすれば彼を悲しませることもなかったはずだ。
せめて声だけでも届けることができたらと口を開いてみるけれど、喉からはひゅうという音が漏れるばかり。まるで息をするだけの人形になった気分だ。
「若君、調子はどうですか?」
「……ぁ」
僕の様子を見に来たのは心配そうな顔をしたマッターホルンで、今にも泣きそうな声をしていた。きっと彼には僕の声なんて聞こえていないだろうけど、少しでも安心させたくて笑みを浮かべようとする。上手くできたかどうかはわからない。そもそも笑顔というもの自体久々すぎて表情筋を動かせるかどうかすら怪しいところがある。
「目が覚めて本当に良かった……あなたにもしものことがあれば俺は……」
「…………」
首を縦に振ろうとして止めた。まだ満足に動かすことのできない体では首を振ることすら難しい。だから代わりにゆっくりと瞬きをして意思を伝えた。
それを理解してくれたのかマッターホルンは小さく微笑んでくれる。それだけで少し心が落ち着く気がするから不思議だ。
エンシオディスのことが好きだけれど、マッターホルンだって大切な人なのだ。いつも優しくしてくれる彼のことを嫌いになれるわけがない。むしろ大好きと言ってもいいくらいだ。
小さい頃から僕達双子のことを守ってくれた。
「俺は旦那様を呼んできます。若君が目覚めるのをずっと待っておいででしたから」
「……ぅん」
返事をしたつもりだったけれどちゃんと伝わっただろうか?
彼の背中を見送っていると、入れ替わるようにしてエンシアが飛び込んで来た。こちらも泣きそうな顔をしていたけれど、僕の顔を見るなり大粒の涙を流し始める。
「──お兄ちゃん!」
彼女の手にはピッケルがあって、急いで来たであろうことがわかった。
「エン、シア……ごめんね」
なんとか絞り出した声はやっぱり掠れていて、自分で聞いていても聞き取りづらいものだった。それでも彼女は首を左右にぶんぶんと振る。
彼女が泣く姿を見ると胸の奥がきゅっと痛くなる。どうして泣いているんだい、と問いかけたくてもうまく言葉が出なくて歯痒い思いをしてしまう。
「目が覚めたのか……!」
エンシアに続いて聞こえてきた声を耳にした途端、僕は涙が溢れた。止められるわけがない、この声は聞き間違えるわけがないのだから。
マッターホルン、ヴァイス、妹のエンシアさえ押し退けて僕の前に来たのはエンシオディスだった。
あぁ、なんて顔をしているんだいお前は。
シルバーアッシュ家の当主やカランド貿易の社長というのを除いたとしても彼は情けなく今にも泣き出しそうな子どものような顔をしていた。
「エンシオ」
「……良かった」
僕の手を握り締めて彼は俯く。
そんな顔は似合わないよ。僕はお前の幸せそうな顔が好きなんだ。
「……僕はどのくらい眠っていたんだい?」
「二ヶ月だ」
思ったよりも時間が経っていて驚いた。
僕が眠っている間もエンシオディスは忙しい毎日を送っていただろうに、時間を作って会いに来てくれていたらしい。申し訳なさ過ぎてどうしようもできなくなる。
少し話をした後、医療オペレーターの診察を受けるからとエンシオディス達は追い出されてしまった。
僕はまだ絶対安静が必要でしばらくはベッドから降りることもままならないようだ。
ケルシーと名乗ったフェリーンの女性は神経質そうな顔を僕に向けた。
「助けてくれてありがとう……僕を救ってくれたのは、君?」
「そうだ。……自分の状況は分かっているのか、もう」
「分かっているんだ。何も言わないで、ただ最期の時をここで過ごさせて欲しいだけなんだ。……エンシオディスと、少しだけ」
「いいだろう。だが、わたしの許可が出てからだ。今の状態では許可は出せない」
「……ありがとう」
少しだけ呆れた顔をしていたけれど、彼女の腕は本物だ。死の淵にいた僕を救い、少しだけ伸ばされた人生を穏やかに過ごす場所まで提供してくれた。
彼女のおかげで僕はエンシオディスに再会することができた。それはとても嬉しいことだけれど、僕は彼女に感謝してもしきれない。
「まだ休んでいたほうがいい。体調が悪くなったり、発作が起きたらコールを押して呼んで欲しい。すぐに駆けつける」
「ありがとう」
素直に従うと彼女はまた一つため息を吐いて病室から出て行った。
一人きりになった部屋は広く感じる。イェラグの屋敷では二人だったのに今は僕一人で、たった数年で僕達は変わってしまった。
エンシオディスは随分と大人びてしまったし、僕も寝込むことが多くなった。こうしてベッドの上で過ごす時間はどんどん増えていくばかりだ。
このままではいけないことはわかっている。けれど、今の僕にはどうすることもできない。
身体の自由が利かない以上、ベッドの上での生活を余儀なくされている。エンシオディスは仕事が忙しく、ロドスでの仕事も兼ねているようだ。
「診察は終わったようだな」
「……エンシオディス」
僕が名前を呼べば震える唇で名前を呼ばれた。もう一度お前の声で名前を呼ばれるとは思わなかったから、本当に嬉しかった。
僕の身体は日に日に弱っていくばかりで、最近では起き上がることさえも難しくなってきた。
エンシオディスは僕のことを抱きしめて何度も何度も名前を呼ぶ。
僕も応えるように彼の名前を呼んだ。
彼は僕のことを愛してくれている。兄弟だとか、家族だとかそういうことを抜きにして彼は僕のことを守ってくれるのだ。
それが申し訳なくも嬉しくて、僕も彼を心の底から愛するようになっていた。
彼の愛情を疑ったことはない。僕だってエンシオディスのことを心から愛している。
「ごめん、迷惑をかけた……」
「謝らないでくれ、お前は悪くない」
「違う、僕のせいだよ……」
僕の身体が弱いから、こんなことになってしまったのだ。
僕の身体がもう少し丈夫だったら、こんなことにはならなかったはずだ。
エンシオディスは何も悪くない。僕がもっと強ければよかったのだ。そうすればこんなことにはならないはずだった。
「エンシオディス……」
「……私は、お前のいない世界など考えられない」
「お前はそう言うけれど、きっと大丈夫。……お前は強いから」
エンシオディスの瞳から流れる雫が僕の頬を濡らす。彼の手を握る力すら残っていないのが悔しくて、無性に悲しくなった。
僕は彼のことが好きで、彼だって僕を愛してくれる。これ以上の幸福があるだろうか。
でも、だからこそ僕が死んだ後のことを考えてしまうのだ。彼はこれから先、ずっと生きていかなければならない。
「私を置いて逝くのか」
「……ごめん」
「許さない、絶対にだ。私のそばから離れることなど私が認めない」
「……エンシオディス」
「嫌だ」
エンシオディスの腕に力がこもり、骨が軋む。まるでこれでは駄々っ子だ。
いつもの凛としたエンシオディスは影を潜めてしまって、小さい子どものようになっている。
僕よりずっとたくましくなった広い背中は両腕ではちゃんと抱きしめられない。でも、それが心地よくて、エンシオディスの匂いに包まれると安心する。
「お前の匂い、落ち着く」
「……お前も同じことを言うんだな」
エンシオディスはそう言って僕の首筋に鼻を埋めた。
僕達は同じ匂いがするらしい。そう言われると僕達はとても似ているのかもしれない。双子だから当たり前なのだけれど、それだけではなくて僕達自身が似た者同士なのだと思う。
同じ場所で、同じように生まれ、一緒に育ってきた。
エンシオディスは僕の半身で、僕の全て。僕が生きる意味そのもの。
「疲れたか」
「……うん、休みたい」
素直に頷けば僕の身体はエンシオディスの手によってベッドに横たえられる。最近はもう自分で動くことも億劫で仕方がない。エンシオディスにされるがままになっている。
僕はもうすぐ彼の人生からいなくなる。その事実は変わらないけれど、心は穏やかなままだった。
「おやすみ、エンシオディス……」
「あぁ、ゆっくり休め」
エンシオディスは僕の額に口づけを落としてから部屋の外へ出て行く。
本当はずっと側にいて欲しいけれど、彼には彼の役目があり、僕のためにそれを放棄させるわけにはいかない。
僕は彼の背中を見送った後、ゆっくりとまぶたを閉じる。

***

目を覚ます。静かな電子音だけが響く個室に人の気配はない。いつものように手を伸ばしてみるけれど、そこにあるはずの温かさはなくて、少しだけ寂しさを覚える。
エンシオディスは朝早くから仕事に出かけたらしい。彼がここに来るのもあとどれくらいだろうか。
「……おはよう」
僕が呟いた言葉に返事をする人はいない。
ベッドサイドに置かれた水差しからコップに水を注いで喉の渇きを満たすそうと身体を起こした、つもりだった。バランスを崩した身体はそのまま床に落ちてしまう。
受け身を取ろうとした腕は動かず、そのまま鈍い音がして激痛が走った。
「……っ」
痛みは全身を駆け巡り、思わず顔をしかめる。
僕はもう自分で立ち上がることすらできないのか。情けなくなって涙が溢れてくる。
どれくらい経っただろうか。僕は朝の診察に来たケルシー先生に助けられ、再びベッドの上に戻ることができた。
「何があったんだ」
「水が飲みたかったんだ、喉が渇いていたから」
嘘ではない。
けれど、僕の言葉を聞いたケルシー先生は険しい顔をしていた。
彼女は何かを考えるように黙り込んでしまう。
僕はただ静かに彼女の言葉を待った。
ケルシーはしばらく考え込んでいたようだったが、やがて諦めたかのように小さく息を吐いただけだった。
「今度飲み物が欲しくなったらクーリエかマッターホルンに言ってくれ。床から落ちて発作が起きたらわたしも助けられない」
「……ごめんなさい」
僕が動けなくなったのは突然のことだった。
今まではなんとか自力で歩けたのに、あの発作が起きた日を境に歩くどころか立つこともできなくなってしまった。
原因はわからないらしい。
僕はただ漠然とこれが自分の死期だということを理解していた。
この身体が限界を迎えようとしている。それだけはわかった。
エンシオディスは毎日会いに来てくれている。
彼は仕事の合間に顔を見せに来てくれる。そして、僕と話をすると満足そうな顔をして部屋に戻っていく。イェラグに戻るそぶりはない。
僕を一人にはしないつもりらしい。
「お前に聞きたいことがある」
そう言ってエンシオディスは僕の手を握る。彼の体温は僕を落ち着かせてくれる。まるで子どものように温かい。その手を出来る限りの力で握り返しながら、どうしたのかと問いかける。
「なんだい?」
「マッターホルンに何を渡した?」
エンシオディスの言葉に僕は言葉に詰まった。
もうあの手紙のことを知られてしまったのだろうか。あれは僕がいなくなってからでないと意味をなさないのに。
まだ知られるわけにはいかないのだ。
「手紙だよ、彼宛の……ほら、ずっと一緒にいてくれたからさ」
「そうか」
咄嗟についた嘘は彼を納得させるには十分なものだったようでそうか、と目線を逸らした。
少しだけ気まずくなった空気を振り払うように口を開く。
「水を飲むか?喉が渇いてベッドから落ちたんだろう?」
「うん、飲みたい」
僕がそういえばエンシオディスはピッチャーからグラスへ水を注いでくれる。それを受け取ってゆっくりと口に含む。冷たい水が食道を通って胃の中へと入っていく感覚がわかるほどだ。
ああ、生きている。
「ありがとう」
今ある命を再確認するかのように僕は目を閉じた。
まぶたの裏に浮かぶのはあの日のことばかりだ。
僕たちはあの時だけは二人で生きていた。
二人だけの世界で生きていた。
けれど、そんな世界は長く続かなかった。いや、続いてはいけなかったんだ。
「……エンシオディス、エンシアの状況はどうなんだい」
「治療を受けて落ち着いている。大丈夫だ、お前は少しでも良くなることだけを考えてくれ」
「僕はもういいんだよ。エンシアの方が心配だから」
エンシオディスは僕の手を握ってくれた。その手のひらは暖かくて、僕は嬉しくて、泣きそうになる。
あと何回この手に触れられるだろう。あと何回エンシオディスの顔を見れるだろう。
僕の身体は既に言うことを聞かなくなっていた。
もう、僕に残された時間はほんのわずかしかない。
「お前は本当に優しいね」
ベッドの上で上半身を起こすだけで息が切れるようになった。咳き込む回数も多くなり、肺が悲鳴を上げているのがわかるほど呼吸が苦しい時もある。
そんな時は決まって僕の手を握り締める人がいるのだ。彼は泣きそうな顔をしながら僕を見つめるのだ。
「そんなことはないさ」
エンシオディスはそう言いながら僕を抱きしめてくれた。大きな身体に包み込まれる感覚はとても心地がいい。彼の背中に腕を回して抱き着くような形になれば、彼もまた僕を強く抱きしめてくれるのだ。
「……お前がいるから私はどんな仕打ちにも耐えられる」
「それはよかった」
僕が笑うと彼は少し拗ねたような表情をする。それが可愛くてつい笑ってしまうと今度は拗ねてしまったようだ。そんなところも可愛いと言ったら更に機嫌を損ねてしまうだろうから黙っておくことにする。
「……お前の笑顔が好きだ」
「僕もお前の笑顔が好きだよ」
お互いに笑い合って額を合わせる。触れ合った場所から伝わる熱で心が満たされていくような気がする。この瞬間が一番幸せだと感じる瞬間だった。
「ねぇ、エンシオディス。……時間が取れる時でいいからエンシアやヴァイス、マッターホルンと食事がしたい」
「そうだな、みんなで食事をしよう」
「……うん」
きっと、これが最後のわがままだ。
本当はもっといろんなことがしたかったけれど、僕の身体では無理だというのはわかっている。だから、せめて家族と最期まで過ごしたいと思った。
僕はエンシオディスと離れたくない。エンシオディスだってそう思ってくれているはずだ。
僕は彼の胸に耳を押し当てた。心臓の音を聞くと落ち着く。彼の鼓動を聞きながらまぶたを閉じる。
僕はこれから先もずっと彼のことを忘れないだろう。
僕がいなくなった後でも、彼が生きてさえいればそれでいい。僕の代わりにエンシアを守ってあげて欲しい。それが僕の願いであり、祈りだ。
エンシオディスの温もりを感じながら、僕の意識はゆっくりと落ちていった。

***

「若君、お食事をお持ちしました」
いい匂いとマッターホルンの声で僕は目を覚ます。深く眠っていたようでベッドサイドには水差しとコップが置かれていた。
エンシオディスの姿はない。
「……おはよう」
「おはようございます、若様」
「マッターホルンはもう食べ終わったのかい」
「いえ、若君が食べ終えてからにします」
マッターホルンは僕の身体を支えて起こしてくれる。それからスプーンを手に取り、スープを掬うと僕の口元に差し出した。
口を開けると優しく流し込まれて、飲み込めばまた口の中に入れられる。それを何度か繰り返して朝食を終える。
ケルシー先生によれば、今の僕は起きている時間よりも眠っている時間の方が多いらしい。寝たり起きたりを繰り返している。
今は身体を起こしているだけでも辛い。だから横になってマッターホルンの手を借りないと生活が成り立たなくなってきていた。
ケルシー先生曰く、いつ死んでもおかしくない状態らしい。けれど、不思議と恐怖はなかった。むしろこのまま死ねるならそれでもいいと思っている。
「エンシオディスはイェラグに戻ったのかい。まだ仕事が山積みなんだろう?」
「はい、ですがご安心ください。俺がしっかりと見ていますから」
「ふふ、頼もしいな」
マッターホルンは仕事が忙しいにも関わらず毎日のように顔を出しに来てくれている。彼が来れない日はケルシー先生が代わりに様子を見に来てくれることもあった。
僕が横になったことを確認してからマッターホルンは食器を下げに行く。入れ違いでヴァイスが顔を見に来てくれる。
「調子はいかがですか?」
「あんまり良くはないよ。でも、来てくれてありがとう」
「顔色が優れませんね……」
「うん、あんまりもう起きてもいられないんだ。……ヴァイス、君に頼み事があるんだけど、聞いてくれるかい?」
「なんですか?」
僕がそう言えば、彼は驚いたように目を大きく開いた。
僕は彼にお願いをすることにした。
これは僕が死ぬ前にやっておかなければならないことだ。
僕の身体はもう長くは持たない。けれど、まだ動けるうちにやらなければいけないことがある。
僕が今できることは限られているけれど、何もしないよりはマシだ。
それに、僕には彼が必要だ。
「エンシオディスに手紙を書くのを手伝って欲しいんだ」
「手紙、ですか?」
「うん、手紙を書いてエンシオディスに残したいんだ」
僕がそう言うと彼は何かを考えるようにして黙ってしまった。何か気に障るようなことを言ってしまっただろうか。不安になった僕は思わず彼に声をかけた。
「旦那様に直接言えばいいのではありませんか?おそらくまたすぐにお戻りになりますよ」
「……口じゃ伝わらないこともあるから文字に残したいんだ」
「そうですね、わかりました」
彼は僕の手を取るとゆっくりと撫ぜる。その手つきに僕の手は小さく震えた。
僕を安心させるかのように微笑む彼の顔を見て、胸が苦しくなる。
僕がエンシオディスのために出来ることはそう多くないけれど、だからこそ彼のためになることをしてやりたいと思うのだ。それが僕に出来る唯一の恩返しだから。
「何を書くんですか?」
「……今から僕が言うことを書き取っててくれるかい」
「えぇ、もちろん」
僕は彼に今考えていることを話した。そして、エンシオディスに伝えて欲しいことも一緒に話す。
彼は僕の言葉を聞いている間、ずっと僕の手を握りしめていてくれた。
「……これが僕の望みだよ」
「かしこまりました」
「エンシオディスはきっと僕がいなくなったら悲しむだろうけど、よろしくね」
「はい」
「ヴァイスは僕の代わりなんだからしっかりね」
「……はい」
僕がそう言って笑えば、彼は泣きそうな顔をして返事をした。
僕はそれを見ているのが辛くて、彼の手を握り返す。すると、彼は僕の手を両手で包んで額に当てた。まるで祈るようなその姿勢に僕は泣きそうになる。
「ありがとう」
「……僕にはこれくらいしかお手伝い出来ませんから」
「十分だよ、ヴァイス」
僕は彼の名前を呼ぶ。彼は顔を上げて僕を見た。
僕たちはお互いの手を握り締めたまま、しばらくそのままでいた。
ヴァイスが退室したあと、僕はぼんやりと天井を見つめながら考える。
ちゃんと言いたいことを伝えられるだろうか。
僕は自分の身体の不調を誰よりも理解しているつもりだ。
だから、残された時間はそんなに多くないこともわかっている。
だから後悔しないように言葉を残しておきたいのだ。
たとえエンシオディスが忘れてしまったとしても構わない。
僕の自己満足なのだから。
ただ、彼に知っておいてもらいたかった。
僕があなたを愛しているということを知っておいて欲しかった。
だから、どうか伝えさせて。
「エンシオディス……愛してる……」
掠れた声で呟けば、涙が頬を流れ落ちた。
それから数日。
僕の部屋はマッターホルンが持ってきた花々で部屋は彩られている。
彼は僕のベッド脇にあるテーブルの上に花瓶を置くと、そこに生けていく。
「綺麗な花だね」
「はい、エンシア様からの贈り物ですよ」
「エンシアが選んでくれたんだ……あとでお礼を言わないと」
エンシアの好きな花はわからないけれど、彼女が選んでくれたというだけで嬉しい気持ちになる。僕は花を眺めながら目を細めた。そんな僕をマッターホルンは優しい眼差しで見守っている。
「……綺麗だね」
もう起き上がって花を見るだけの力もない。顔を上げて花瓶の中で佇む花を見るのが精一杯だった。
「起きてご覧になりますか?」
「うん、見たいな」
それでも僕は嬉しくて仕方がなかったのだ。そんな僕を察してくれたのか、マッターホルンは僕に問いかけてくれる。僕の身体をそっと抱き起こすと枕をクッションにして楽になるようにしてくれる。僕はマッターホルンの胸に寄りかかるような形で身体の力を抜いた。
淡いピンクの花。名前はわからないけれど、可憐で綺麗な花だった。
僕はエンシオディスと最期まで共に過ごしたいと願った。それだけだ、僕の望みは叶ったのだ。
「調子はどうだ」
「エンシオディス、イェラグに帰っていたんじゃなかったのかい」
「あぁ、少し寄ってみただけだ」
「……そうか、お前は相変わらず嘘をつくのが下手くそだね」
「お前ほどじゃない。お前こそ体調が悪いなら無理をするな」
そう言いながらベッドサイドに置かれた椅子に腰掛ける。それからベッドサイドに置かれた花に目線をやる。
エンシアがくれた花だとマッターホルンが言えば、短く返事をしただけだった。
もう一度ベッドへ横になってエンシオディスを見る。
僕と同じ顔をした双子の片割れ。僕よりもずっと強い人だ。
エンシアを守って、僕の代わりにエンシアの側にいてあげて欲しい。
「……エンシオディス、僕はお前と双子でよかったと思っているよ」
「急にどうした」
「……いいじゃないか、別に」
笑って見せればエンシオディスはそれ以上何も聞いては来なかった。こういうところは僕達はよく似ている。
お互いに詮索せずに必要なことだけを口にする。
「マッターホルン、エンシアへの荷物を支援部に預けてあるから取りに行ってくれ」
「かしこまりました」
マッターホルンが退室していくのを見送った後、僕達の間には沈黙が落ちる。重くはなくお互いを尊重し合うような心地よい無音だ。エンシオディスが僕の手を握る。
まだ彼の温もりを感じられることが嬉しかった。
「エンシオディス、昔僕のほしいものは星でも持ってきてくれるって言ってたよね」
「……そうだったか?」
「うん。今でもそれは有効かい?」
「何が欲しいんだ?」
「お前の懐中時計が欲しいんだ。この部屋の時計は見づらいから」
「これでいいのか」
エンシオディスは僕の手を握っていない方の手でポケットを探ると、銀色の鎖がついた懐中時計を取り出した。
それを僕の首にかけると、彼は優しく微笑んだ。
僕はそれを見てから目を閉じ、彼の手に自分の手を添える。
それから深く息を吸うとゆっくりと吐き出すように言葉を紡いだ。
「ありがとう、大切にするよ」
僕はエンシオディスに愛されている。
そのことを知っているから、僕は何も怖くはない。
僕は彼の腕に抱かれながら眠りについた。
それからというもの、僕はほとんどの時間を眠り続けている。まぶたを開ける力ももう残っていない。
マッターホルンやケルシー先生、ヴァイスが交代で見舞いに来てくれる。
「──」
「若君」
「お兄ちゃん」
僕の名前を呼んでくれる優しい声。
もう苦しくない、発作に怯える心配もないと思うとむしろ清々しい気持ちになる。置いていく不安はあるけれど、エンシオディス達ならば大丈夫。
ふわふわとする意識の中、みんなの声が僕を呼ぶ。
ちくたくと聞こえるエンシオディスの懐中時計の秒針は鮮やかに聞こえるのに、まぶたが重たくて開けられない。
「──、目を開けてくれ」
低くて優しいエンシオディスの声。
ごめんね、そのお願いには答えられそうにないよ。
どうか、お前はたくさんの人に囲まれながら幸せな人生を。僕はお前の幸せを願っているから。
それだけでいい。僕のわがままでお願いだよ。
僕の手を握ったエンシアの手が温かい。いつのまにか大きくなってしまった僕達の妹。もっと一緒にいたかったけれど、もうお別れみたいだ。
霧散していく意識の中、最後までエンシオディスが名前を呼んでくれている。
僕は最期までお前の片割れでいられて幸せだったよ────。

どこかでまだ生きられると思っていたけれど、身体はもう限界だったみたいだ。でも僕は自分が不幸だとは思わない。エンシオディスと同じ時間を生きられただけで幸福だから。
エンシオディス、エンシア、ヴァイス、マッターホルン、それからケルシー先生。たくさんの人に支えられて僕は今まで生きてこられた。
僕の双子の片割れ、エンシオディス。
願わくば、お前が生き急いで早く僕の元に来ないように。出来れば幸せになって年老いてから、いつか僕に会いにきてくれればそれでいい。
どうか、それまではお前にイェラガンドの加護があらんことを。


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