僕たちは似ていて異なる存在  




「お疲れ様、エンシオディス。また無理をしたんだって?ヴァイスから聞いたよ」
「無理はしていない。お前のことを思えば無理などない」
僕は疲れた様子のエンシオディスに手を伸ばす。彼は僕の双子の弟であり、病弱な僕に変わってシルバーアッシュ家の執務や自身が設立した貿易会社の業務をこなしている。身長はエンシオディスの方がやや高く、がっしりとしていた。きっとヴィクトリアに留学していた頃に鍛えたんだと思う。
白皙を通り越して青白い肌をしていて、疲れが色濃く見える。やはり忙しいのだろう。
僕がエンシオディスに伸ばした手をそっと掴んで包むように握り込めば、彼は何でもないというように柔らかく笑うのだ。
幼い頃から身体が弱く体調を崩しがちだった僕はもう長いこと外を自分一人で歩いたことがない。すぐに熱を出して倒れてしまうから、一人では出歩かないようにエンシオディスから言われている。
それに技術があまり発展していないイェラグにおいて外部へ行って治療を受けるというのはあまり現実的ではない。そして、僕の病気はそう簡単に治るものではないらしく、現在のイェラグの医療技術では完治どころか進行を遅らせることさえ難しいのだそう。
鉱石病に感染した妹エンシアのために外部へ助けを求めたエンシオディスは同時に僕の治療方法も求めたようだった。結果を僕は聞いていないけれど、あってもなくても大して変わらない。
気にしてはいない。幼い頃から薄々気づいていた運命だ。
僕は静かに命の終焉を迎えつつあることを自覚している。
「でも、お前は無理はしたらダメだよ。昔からマッターホルンに言われてるだろう」
「……そうだったな」
カランド貿易での仕事を終えて、邸宅に戻ってからの夜のほんの少しの時間。僕達は立場も地位も関係なくただの双子の兄弟に戻る。
マッターホルンが入れてくれたバター茶を飲みながらエンシオディスは穏やかに微笑む。今日も双子の弟が無事に戻って来てくれただけで僕はじゅうぶんだ。ヴァイスやマッターホルンが作ってくれる料理は栄養満点で美味しいし、味付けも僕好みではあるけれど、やはり身体の変化にはついていけなくて少しずつ食べられる量が減って来ている。身体が食べ物を拒否し始めているのだ。
「ちゃんと食べているかい、エンシオディス。……お前は何かに夢中になると寝食を疎かにしてしまうから心配だよ」
「食べてはいるさ、それよりもやるべきことが山とあるだけだ」
「僕はそれが心配なんだよ」
エンシオディスがシルバーアッシュ家の当主として忙しく過ごしていることはよく知っている。僕と違って体力もあるため倒れることはないけど、それでも睡眠時間を削ったり食事を抜いていたりすることも多いらしい。そのせいもあってか顔色はあまり良くない。
僕の言葉を聞いて困ったような表情を浮かべた彼はゆっくりと口を開く。
「私は大丈夫だ。だからそんな顔をしないでくれ」
「……うん」
双子とはいえ、お互いの立場上こうして同じ時間を過ごせることは限られている。だからこうやって一緒にいられる時間がとても貴重だ。
僕の体調が良い日を選んでエンシオディスはこうしてバター茶を飲みながらおしゃべりに興じてくれる。たまにならチェスの相手もしてくれたりする。
最近はマッターホルンやヴァイスと一緒になって戦術について語り合うこともあるようだ。
本当はもっと色々な話をしたい。だけどそれを口にすると困らせてしまいそうだから僕は口を閉ざすしかない。エンシオディスは僕とは違って未来がある人なのだから、今という限られた時間で多くのことを学ぶべきだと思う。
「何を考えている?」
黙り込んだ僕を心配してか、エンシオディスは優しい声で問いかけてくる。彼の声はとても好きだ。ずっと聞いていたくなるくらい心地良い響きをしている。
「……僕がいなくなった後のことを考えていたんだ。お前はきっと今より自由になれるから」
「…………」
エンシオディスは何も言わない。僕が口にした言葉の意味を理解しているからだ。僕がこの世からいなくなったら、縛られるものがなくなるからもっと自由に動けるようになるから、と。
「お前がいなくなるなんて考えたくもないな。私は……お前と離れたくない」
「ありがとう。……僕だって同じ気持ちだよ」
エンシオディスが寂しげな表情を浮かべたので安心させるように笑みを向ける。
彼は僕が死んだ後、きっとたくさんのものを背負って生きていかなければならない。だからこそ、少しでも楽になって欲しいのだ。僕が生きている間だけは。
エンシオディスが僕を見つめている。彼が僕を見る目はいつも優しかった。まるで慈しみを抱いているかのような視線で見つめられて少し照れくさかったのを覚えている。
「お前は僕にとってたった一人の魂の半身なんだよ、シルバーアッシュ家の長男である以前に」
「私にとってもそうだ、お前は私の唯一の片割れなんだ」
僕達はお互いに手を握り合って額を合わせた。体温の低いエンシオディスの手はひんやりとしている。僕はその手の温度が好きだった。
「お前がいない世界など考えられない。お前のいない人生に何の価値がある?私が生きる意味はお前がいるからこそあるんだ」
「……エンシオディス」
エンシオディスはいつだって僕のことを想ってくれる。彼のおかげで僕は毎日を幸せに過ごすことが出来ている。こんなにも優しくて強い人が僕の双子の弟であることを誇りに思う。
「僕もお前と同じ気持ちだよ。お前がいなかったら僕はここにはいない。エンシオディス、お前が僕の全てなんだ」
「ああ」
エンシオディスは僕の手を握り締める。彼は僕よりも大きいから少しだけ力が強い。痛いくらいだ。
「私もお前が全てだ。だから、頼むからもうこれ以上何も言わないでくれ。お前はもう十分すぎるほど苦しんでいる。どうか、もう休んでくれ」
「うん、分かってる。お前の言う通り、もう眠ることにするよ」
僕はもう長くはないと思う。だから残された時間を大切にしていきたいと思っている。だからもういい加減に眠りにつかなければ。
エンシオディスの手を借りて枕に頭を戻す。
「おやすみ、エンシオディス。明日も起こしてね」
「ああ、また明日」
エンシオディスは僕の頭を撫でてから部屋を出て行く。その背中を見送った後に僕はベッドへ横になった。
もうすぐ終わりが来る。
それは怖くて悲しくて仕方がないけれど、でも、これでようやく終われるのだと思うとほっとする。
病気の発作は苦しい。次の発作が来たらきっと僕の身体は耐えられくて、きっと死んでしまう。そうして死ぬ前に、僕の魂の片割れに会いたい。彼ならば、僕の死もきっと受け入れてくれるはずだ。
僕はゆっくりと目を閉じる。
まぶたの裏に映るのは大好きな人の笑顔だ。
次の朝、まぶたに差し込む柔らかなひかりにまだ生きていることを自覚する。
今日もエンシオディスは僕を起こしに来てくれたようだ。僕はゆっくりと目を開けて起き上がる。
「おはよう、エンシオディス」
「おはよう、よく休めたか?」
「うん」
エンシオディスは僕をそっと抱きしめてくれた。僕も彼をぎゅっと抱き返す。僕達はそうやってしばらくお互いの存在を確かめ合った。
「お前の温もりを感じていられるのはこれが最後かもしれないな」
「……うん」
「でも、お前は眠っているだけだ。だから、いつか必ず会える」
「うん」
エンシオディスは僕に言い聞かせるように言葉を紡ぐ。僕もそれを理解していた。
いつ朝を迎えられなくなるかわからないのだ。だから、彼が仕事をしている最中に僕が死んでしまう可能性だってある。
「その時まで、待っていてくれるかい」
「もちろんだ」
エンシオディスはそう言って僕のほおを指先で撫でる。僕は彼にされるがままになっていた。
「お前の目覚めを待つのは苦ではない。だから、安心してくれ」
「うん」
エンシオディスは僕を抱き寄せた。僕はその腕の中でじっとしていた。
「エンシオディス」
「どうした?」
僕はエンシオディスの顔を見上げる。彼は不思議そうな表情を浮かべていて、僕はそんな彼に微笑みかけた。
「大好きだよ、愛している」
「……私もだ、シルバーアッシュ家の兄弟として、そして、私の唯一無二の兄弟として、お前を愛しているよ」
エンシオディスは泣き出しそうな表情で僕を見つめていた。僕はそれに笑いかけることしか出来ない。それが悔しいと思ったのは初めてだった。
僕達の朝食はマッターホルンが作ってくれるけど今日は調子があまり良くなく、食欲も湧かなくて残してしまった。マッターホルンは気遣わしげに僕達の様子を伺っていたけれど、僕が微笑むと彼は静かに微笑んでくれる。それから僕が食べるはずだった料理をエンシオディスのために温め直してくれた。
エンシオディスはマッターホルンが温め直してくれた料理を食べながら、僕が残した料理を代わりに食べてくれたりもしていた。
「今日は寝ていた方がいい。また発作が起きたらどうするんだ……主治医も次はないと言っていただろう」
「心配しすぎだよ、エンシオディス」
僕は困ったように笑う。
エンシオディスは僕のことになると心配性だ。僕が無理をしているんじゃないかと思って、こうして世話を焼いてくれる。
僕が病気だと知った時、エンシオディスは僕以上に動揺していて、何度も謝られた。その時のことを思い出すと今でも胸がちくりと痛くなる。
「お前は昔から身体が弱いからな。……何かあればすぐに言え」
「……ありがとう」
エンシオディスは本当に優しい人だ。僕はそんな彼のことが好きだった。
エンシオディスは仕事へ行く準備をする。僕はまだ寝間着のままだけど、エンシオディスはきっちりと服を着込んでいる。
「では行ってくる」
「うん。いってらっしゃい、エンシオディス」
「ああ」
エンシオディスは名残惜しげに僕を見つめた後、部屋から出て行った。その背中を見送った後、僕は窓の外へと視線を移す。
空にはどんよりとした雲が広がっている。雪が降りそうだとぼんやり思った。吹雪にならないといいけれど。
僕はそのまま外の風景を見ながらエンシオディスのことを思う。僕達は双子で、お互いにお互いを必要としていた。だから、離れることなんて出来なかった。
「ごめんね、エンシオディス」
僕の呟いた声は誰にも聞かれることなく消えていく。
僕の命はエンシオディスより早く終わる。それも遠くない未来に僕はお前の人生からいなくなる。
そのことに後悔はない。僕は自分の人生に満足している。
だから、僕が死んだ後もエンシオディスの人生は続いていく。どうか、僕の分までエンシオディスは幸せになって欲しい。
僕はエンシオディスのことが好きだ。
双子だからとか、血を分けた家族だからではなくて、一人の人間としてエンシオディスのことが好きだ。
だからこそ、僕はエンシオディスの重荷になりたくない。僕という存在が彼の人生を縛り付けるのなら、僕は彼の前から消えた方がいい。
「失礼致します」
「……マッターホルン」
「あまり朝食を召し上がっていないご様子でしたので、お顔を見に来ました」
「そう」
僕は力無く笑ってみせた。
「体調はいかがですか」
「……あんまり良くないかな」
「……そう、ですか」
マッターホルンは僕のそばまでやって来る。僕は彼の顔を見ることができなかった。
「もう長くないみたいだ。エンシオディスも薄々気づいている……何とかあいつの前では弱った姿を見せたくないけど、もう難しいかもしれない」
「……」
「でも、……僕のことは気にしないで。これが僕の生き方なんだ、それはエンシオディスにも否定させない」
僕はゆっくりと息をつく。
僕が死んだ後、エンシオディスは悲しんでくれるだろう。僕のことを想ってくれるに違いない。でも、僕さえいなければ、きっとエンシオディスは自由に生きられる。
「僕はもう充分に生きたから、もういいんだ」
僕はこの人生に悔いはない。だから、エンシオディスの足かせになるくらいならば、僕など双子の兄などいなかったことにすればいい。
「旦那様はあなたがいないと生きていけないと仰っていました」
「それは違うよ」
「いえ。旦那様はシルバーアッシュ家の当主である以前に、あなたの双子の弟なのです」
マッターホルンの言い分もわかる。けれど、僕はそうではないことをわかっていた。エンシオディスは懐に入れた人間には甘い傾向があるけれど、その中でも僕は別枠だった。
唯一血を分けた男きょうだいであることに起因するのだとは思うけれど、それでも僕は特別だった。だからこそ、エンシオディスは僕がいなくなった後も生きて行かなければいけないんだ。
「エンシオディスは僕がいないとだめなんだ。本当は僕がずっと彼の側についていなきゃならないんだけど、それはできない」
「どうして、そう思われるのです?」
「だって、僕はエンシオディスに何もしてあげられないから」
僕のせいで彼はたくさん苦しんできた。その苦しみを少しでも取り除きたかったけれど、結局何もしてあげることが出来なかった。だから、せめて最期の瞬間だけはエンシオディスの側で穏やかに過ごしたい。
「僕のわがままなんだよ、これは」
「ですが……」
「僕は大丈夫。だからもういいから、どうかエンシオディスの側にいてくれないか」
「わかりました」
マッターホルンは優しく微笑んでくれた。僕はそれにほっとする。
「僕はお前がエンシオディスのところに居てくれて良かったと思っているよ」
「そう言って頂けて光栄です」
マッターホルンはそう言って小さく会釈をする。それからまた口を開いた。
「俺もお二人に出会えてよかったと心の底から思っていますよ」
「そう、なんだ」
「はい」
マッターホルンの手を借りて僕はベッドに横たわる。
まだ僕は生きている。だから、まだ終わりじゃない。だから、まだ頑張らないといけない。
「もう少しだけ頑張ってみることにするよ」
「……お身体に障りますから、あまり無理はなさらないでください」
「うん」
僕はゆっくりと目を閉じた。まぶたの裏に浮かぶのは大好きな人の笑顔だ。
エンシオディス、大好きだよ。
お前の笑顔が見られるのはあと何回だろうか。お前の笑顔を見られるのはこれで最後かもしれない。そう思うと、どうしようもなく寂しくなってしまう。
「そうだ。マッターホルン、ひとつお願いがあるんだけど聞いてくれるかい」
「なんでしょうか」
僕はサイドテーブルの引き出しを指差す。そこを開けて欲しいと頼むとマッターホルンは引き出しを開けて一通の封筒を取り出した。
蜜蝋で封をしてある白いそれを見て、彼は僕の顔をじっと見る。言葉を待っているのだ。
「僕が死んだらこれをエンシオディスへ渡して欲しいんだ」
「……しかし、これはあなたが直接旦那様へお渡しすればいいのでは?」
「僕が死んでからじゃないと意味がないことが書いてあるんだ。ペイルロッシュ家とブラウンテイル家にも関係のあることだ……うかつに知られるわけにはいかないからね」
「……」
「お願いできるかな」
僕が折れないことがわかったのかマッターホルンは大きくため息をついてから一つ頷いてくれた。彼には迷惑ばかりかけている。小さい頃から発作を起こした僕を医者の元に運んでくれたり、エンシオディスと喧嘩した時には仲裁に入ってくれたり。
「これが最後のわがままだから」
「……かしこまりました」
マッターホルンは苦笑を浮かべながら手紙を受け取る。僕はその表情に苦笑いを浮かべることしか出来なかった。
「……マッターホルン」
「はい」
「僕が死んでも、お前はエンシオディスを支えてくれるよね」
「……もちろん、です」
「ありがとう」
マッターホルンは静かに部屋を出て行く。僕は彼が出て行った扉を見つめていた。
エンシオディス、僕はお前が大好きだよ。でも、僕達はもう大人になった。これからは別々の道を歩んでもいいんだ。
きゅうっ、と胸の奥が苦しくなる。もうすぐ死ぬのだという実感が湧き上がる。僕はそれを必死に押さえ込んだ。
大丈夫、大丈夫だ。僕は死を恐れていない。ただ、エンシオディスのことだけが心配だ。
エンシオディス、僕の魂の半身。
どうか、僕の分まで幸せになって欲しい。
「……っ、くぅ」
涙が次々と溢れ出す。頬を伝って流れ落ちるそれに構わず、声を押し殺して泣いた。
「……愛しているんだ……本当に……」
誰もいない部屋に僕の声が小さく響く。誰にも聞かれることなく消えていく言葉は酷く悲しいものだった。

***

それから数日、僕の体調は安定している。少しの間ならベッドから身体を起こしていられるくらいまで落ち着いていた。
エンシオディスがとある知り合いから貰って来たという薬を飲んでから体調が悪いと感じる時が少なくなった気がする。相変わらず食欲はなくて、あまり食事はとれていなかったけれど、それでも体調は良い方だと思う。
「今日は調子が良さそうだな」
「そうだね」
「何かしたいことはないか?何でも言ってくれ」
「……そうだなあ」
したいこと、と考えてひとつだけ浮かんだことがある。けれど、それはエンシオディスだけではなくて周りにも迷惑をかけることだと分かっているから口にしなかったこと。
「一日でいいから、お前と二人で過ごしたい」
「……そんなことでいいのか?」
「もう何年も一緒に過ごせてないだろう、だから……お前との時間が欲しいんだ」
エンシオディスの顔を見つめる。彼の瞳には不安そうな僕の姿があった。僕はエンシオディスの手を取る。
「お前と一緒にいると安心出来るんだよ。だから、側にいてほしい」
「わかった。ヴァイス達に伝えて時間を作ろう」
エンシオディスは嬉しそうに笑う。僕もつられて微笑む。
久しぶりに見た彼の笑顔はとても綺麗で、僕はそれが眩しかった。
エンシオディスが僕のために用意してくれた時間は三日間だ。その間に僕とエンシオディスは二人でゆっくり過ごすことになった。せっかく時間を作ってくれたんだから色んなことをしたいけれど、たぶん途中で体調を悪くしてしまう気がする。
だから、エンシオディスと庭を散歩をしたり、お茶を飲んだりするだけで充分だった。
久し振りの二人だけの時間。エンシオディスは僕の体調を気遣ってか、あまり外には出ようとしない。だから、僕達が過ごすのはだいたい屋敷の中だ。
「ねえ、エンシオディス」
「なんだ」
「……僕はお前の役に立てているかい」
「何を言っているんだ」
エンシオディスは呆れたように僕を見る。僕はそれに対して曖昧に笑ってみせた。
「僕はお前に何もしてあげられないから」
僕の言葉には答えずにエンシオディスはバター茶を口に運ぶ。オイルを入れていない普通のそれは僕もよく好んで飲んでいた味だ。
昔はオイルを入れてよく飲んでいたけれど今はしなくなってしまった。
今は身体が拒絶反応を起こすから飲めなくなったけど、昔はよくこうして二人で過ごしていた。懐かしい思い出に僕は目を細める。
「……私はお前がいてくれればそれでいいと思っている」
「ありがとう、そう言ってもらえると救われるよ」
そう言うと、何故かエンシオディスが泣き出しそうになっていることに気がついた。慌てて立ち上がって、彼を抱きしめると、背中に手が添えられたのを感じる。
「でも、何でお前が泣きそうな顔をしているんだい」
「泣いてなどいない」
「嘘つきだな、まったく……」
頭を撫でてやると、彼はそっと顔を上げる。目尻に浮かんでいる涙に唇を寄せて吸い取ると塩辛いような不思議な味わいを感じた。
「……っ、おい」
「ふふ、しょっぱい」
「当たり前だろう」
エンシオディスは僕から離れて、それから立ち上がる。そのまま手を差し出されたから、僕も彼の手を掴んで立ち上がった。
「私も聞きたいことがある」
「なんだい?」
「どうして自分を抜きして私を幸せにしようとする?」
「え?」
エンシオディスは僕の方を真っ直ぐに見据えてくる。僕はそれに戸惑いながら口を開いた。
「だって、僕はお前の足かせにしかならないから」
「それは違う」
「違わない」
僕はエンシオディスの手を振り払う。彼は驚いた顔をしていた。僕はそれに申し訳ないと思いながらも、話を続ける。
「僕はお前の側にいることしか出来ないんだ。それなのに、お前の側にずっと居たらお前は僕に縛られてしまう」
「お前は私がお前のことを足かせにしていると思っているようだが、逆だ」
「どういう意味だい?」
「お前がいるからこそ、私は私の人生を歩めたんだ」
「……」
「だから、お前はもっと自信を持て」
エンシオディスはそう言って僕の肩を掴む。僕はその言葉が信じられなかった。
「僕なんかいてもいなくても変わらないよ」
「変わる」
「ううん、変わらないよ」
「何故、そこまで自分を卑下する必要がある?」
「僕は……僕はもうすぐいなくなる人間だから」
声が震える。エンシオディスの人生を縛り付けている自覚が僕にはあったから、お前の邪魔にならないように身体の寿命が尽きるのには逆らわずにいようと思っていたのに。
「お前は馬鹿だ」
「ば、バカ!?」
「ああ、大馬鹿者だ」
エンシオディスは僕の腕を引いて、僕を抱きしめてくれる。その温もりに僕は涙を堪えられなかった。
「お前がいなくなったら、誰が私の側にいてくれる」
「……っ、で、も」
「お前が隣にいるから、私は生きていける」
エンシオディスの力強い言葉が僕の心を震わせる。彼は僕のことが大切だと言ってくれていた。それは僕が思っているよりも大きなものなのかもしれない。
「私がいない間にお前が死んでしまうことの方が、余程恐ろしい」
「……本当に、僕でいいのかな」
「お前以外に誰がいる?」
「……ありがとう、エンシオディス」
エンシオディスの腕の中で僕は静かに涙を流した。彼はそんな僕を見て優しく笑った。
一緒に生まれたはずなのにエンシオディスはいつの間にかこんなにたくましくなって、僕をぎゅうって抱きしめてしまうまでになった。僕が弱かったから、守られていたから、僕が弱いからエンシオディスは強くなった。
「……っ、ごめんね」
「謝ることではない」
「でも、僕は……」
「それ以上は言わなくていい」
エンシオディスは僕の口を手で塞ぐ。それから、僕の身体を離すと今度は両手を僕の頬に当てて視線を合わせてきた。
「お前はここにいればいい」
「……っ、う、ん」
エンシオディスは僕の額と自分のそれをこつんと合わせる。僕は彼の瞳を見つめることしか出来なかった。
エンシオディスは僕のことを大切に思ってくれる。僕もエンシオディスのことが好きだけど、でも、僕はエンシオディスの隣にいてもいいのだろうか。
「ひとつ提案があるんだが聞いてみるか?」
「お前からの提案はいつでも聞くよ」
「そうか、なら良かった」
エンシオディスは満足げに微笑むと、僕の頬から手を離す。そして、サイドテーブルに置いてあった一枚の紙を渡してくる。
ロドス・アイランド製薬会社、その名前には聞き覚えがあった。鉱石病に感染したエンシアが治療を受けているところではなかっただろうか。
「……ここって」
「お前の身体を治せる可能性があるらしい」
「……そう、なのか」
僕は渡された紙をじっと見下ろす。
そこには僕の身体を蝕む病の原因について書かれていた。
「これはお前が望むならの話だが」
「……僕は」
「どうする?お前が嫌なら無理強いはしない」
エンシオディスは僕のことを気遣ってくれている。僕の身体を心配してくれていることが伝わってきた。
僕は一度大きく息を吸ってから吐く。それから、エンシオディスの方へ身体を向けた。
「行かない。……病気を治してくれるっていうのは魅力的だけど、わからないところで命を終えるより僕は両親やエンシオディスやエンシア、エンヤと過ごしたこの屋敷で最期を迎えたい」
「……わかった」
エンシオディスは僕のことを引き寄せて、もう一度抱き締めてくれた。僕もそれに応えるように彼の背中に手を回す。
「最期の時までお前の側にいる」
「……ありがとう」
エンシオディスの優しい言葉に、僕は泣きそうになるのを必死に堪えた。

***

エンシオディスと二人で過ごす時間はあっという間に過ぎていく。エンシオディスは忙しいのに、それでも時間を作ってくれた。僕はそれが嬉しくもあり、申し訳なくもあった。
一緒にいられる最終日、僕は朝から体調が悪く起きられずにいる。微熱が昨晩から下がらずにいた。
「……ごめ、ん」
「気にしなくていい」
「……せっかくお前といられるのに」
ベッドの上で横たわっている僕にエンシオディスは心配そうな顔をしながら、頭を撫でてくれる。エンシオディスの手は気持ちいい。ずっと僕を守ってくれた硬くて少しつめたい手。
「また、明日も一緒にいられれば良いのに」
「そうだな」
無理だってわかっている。どれだけ頑張ってもこうして仕事もなく一緒に過ごせるのは今日が最後だ。そのためにどれだけ無理をしているのか僕にはわからないけれど、エンシオディスは多忙だ。
僕の体調よりエンシオディスが体調を崩す方が大変だ。だから、僕のことは気にしなくても大丈夫だと伝えたいけれど、僕の口から出てくるのは苦しそうな呼吸音だけだった。
エンシオディスのやさしくて低い声が僕の名前を呼ぶ。
「なんだい?」
「私にして欲しいことはないか?」
「……ないよ」
「遠慮は要らない」
エンシオディスの真剣な表情に僕は小さく笑う。彼は本当に僕に何かしてあげたいと思っているみたいだ。けれど、僕には特にない。
エンシオディスが側にいてくれればそれでいい。それだけが望みだった。
「お前とこうしていられたらそれでいいよ」
「そうか」
エンシオディスは安心したような声で返事をする。僕はそれにほっとした。
本当は僕だってもっとお前と一緒にいたいよ。お前と行きたかった場所だってたくさんある。でも、もうそれは叶わない。
「エンシオディス」
「どうした」
「お前は幸せかい?」
「当たり前だろう」
即答されて僕は泣きそうになった。エンシオディスの言葉を信じていないわけじゃないけど、不安になってしまう。
「お前がいないと私は幸せになれない」
「……そんなことないよ、お前は周りにたくさんの人がいるだろう?」
「どれだけ大勢の人間がいたとしてもお前がいなければ意味がない」
エンシオディスは僕の手を握る。その手が微かに震えている気がして僕は思わず彼を見た。
「私はお前を愛している」
「……っ、うん」
「だから、お前がいなければ私は幸せになどなれない」
「僕もだよ、エンシオディス」
エンシオディスは僕の手を握りしめたまま目を伏せる。その仕草に僕は彼が泣いてしまうのではないかと思った。
「私はお前に何もしてやれなかった」
「そんなことないよ。僕はお前がいたからここまで生きれたんだ」
「私だって同じだ」
エンシオディスは僕の手を自分の頬に当てる。その頬は涙で濡れていた。
「お前は私に色んなものを与えてくれた。私はお前が側にいることが嬉しいんだ」
「うん、僕もお前が側にいることが嬉しいよ」
そう言うと、エンシオディスの顔が近づいてくる。僕はそれを受け入れながら、エンシオディスのことを愛していると心の中で呟いていた。
唇が離れると、エンシオディスは僕の頬に手を当てる。僕はその手に自分のそれを重ねた。
「僕が死ぬまではそばにいてくれるかい?」
「ああ」
エンシオディスの瞳からこぼれ落ちた一筋の雫が僕の手に落ちる。
それはとても温かかった。
お前は我慢強くて計算高くて頭もいいはずなのに、こうして時々弱くなってしまうんだね。お前は僕の前ではいつも強がっていたから、こうして弱い部分を見せてくれるのは素直に嬉しい。
エンシオディスが僕のことを信頼してくれているという証だから。
「僕が死んだら、お前は悲しんでくれるかな」
「当然だ」
「お前はやさしいね」
僕はエンシオディスの頬を撫でる。
きっと、お前は僕のために泣くことを選んでくれる。お前はそういう男だ。僕がいなくなったら、お前は僕のことは忘れて生きるために前を向いてくれるはずだ。
「……じゃあ、僕のわがままをひとつだけ聞いてくれるかい」
「なんだ?」
「僕が死ぬ時、僕のことを看取って欲しいんだ」
「ああ、約束しよう」
エンシオディスは僕のお願いを快く受け入れてくれた。エンシオディスは僕が願うことならなんでも叶えようとしてくれる。本当に僕のことを大切に想ってくれているのが伝わってくる。
「……ありがとう」
僕はエンシオディスの首に腕を回して抱きしめた。それから、エンシオディスの耳元に口を寄せる。
「大好きだよ、エンシオディス」
「私もお前を愛している」
エンシオディスは僕の額に口づけを落とす。僕が息を引き取るまで、あともう少しだけそばにいて欲しい。そうしたら、僕はエンシオディスの腕の中で眠ることが出来るから。
エンシオディスは僕のことを抱きしめ返してくれた。彼の心臓の音を聞きながら、僕は静かに目を閉じる。
「そばにいるから少し眠るといい」
「……ん」
僕はゆっくりとまぶたを開ける。目の前には見慣れた天井が広がっていた。
視線を巡らせているとエンシオディスが椅子にもたれてうとうとしているのが見えた。僕が目覚めたことにも気づかずに眠ってしまっている。
僕は身体を起こしてエンシオディスの頬に指先で触れる。エンシオディスは少し身じろぎしてから僕に視線を向ける。そして、微笑んでくれた。
「……起きたのか」
「うん。おはよう、エンシオディス」
エンシオディスは僕を抱き寄せてから額にキスをしてくれる。僕はくすぐったくて笑い声を漏らしてしまった。
「身体はどうだ?」
「……あんまり調子は戻っていないかな」
昨日からなかなか微熱が下がらず、ベッドの上で過ごすことが多かった。まだ起き上がるのは辛い。
「無理をさせて悪かった」
「お前が謝ることじゃないよ。悪いのは僕の身体だ」
僕はエンシオディスの頬にそっと触れた。
「お前は無理をしすぎだ」
「お前に言われたくないな」
僕はエンシオディスの身体を引き寄せて抱き締めた。エンシオディスの身体は僕よりも大きくてあたたかい。エンシオディスは僕の身体を気遣ってか、僕を潰さないように体重をかけないように気をつけてくれている。
「お前は昔から身体が弱かったからな」
「……そうだね」
エンシオディスは僕の背中を優しく撫でてくれる。その心地良さに僕は目を細めた。
僕の魂の半身、大切な双子の弟。
お前が僕の代わりに仕事をしてくれていることを知っている。お前が僕の分まで生きていてくれていることに感謝している。
「……僕はもう長くはない」
「そんなことを言うな、私がなんとかする」
「ありがとう、でも……わかるんだよ、自分の身体だからさ」
僕の言葉にエンシオディスは顔を歪める。そんな顔しないでほしいな。僕はお前に笑っていてほしいんだ。
「僕はもうお前に守られてばかりいるのは嫌なんだ」
「だが」
「わかっているよ、これは僕のわがままだ」
エンシオディスは僕の言葉に何も言わなかった。ただ、僕を強く抱き締めてくれる。僕はそれが嬉しかった。
「僕はお前に何かをしてあげたいんだ」
「もう充分すぎるほどに貰っている」
「そう、かな」
「あぁ」
エンシオディスは僕から離れてベッドの端に腰掛ける。僕はベッドに横たわったまま彼を見上げた。
「……私はお前の側を離れるつもりはない」
「……うん」
「たとえお前が私を拒んでもだ」
「そんなこと……僕はしないよ?」
エンシオディスは僕の頭を撫でてくれる。僕が望めば、彼は僕の願いを叶えると言ってくれる。だから、エンシオディスは僕が拒むことはないと知っていた。
「……そういえば、最近なにかあった?」
「どうしてだ?」
「少し疲れているみたいだから」
エンシオディスは僕の問いかけに一瞬黙り込む。それから小さく首を横に振った。
「いいや、特に何もない」
「本当に?」
「ああ」
エンシオディスの声音からは嘘を感じられなかった。何かあるとすればそれはきっと仕事のことだろうと思うけれど、彼が僕には話すことはない。
きっと気遣ってくれているのだろうけれど、僕だって話を聞くくらいは出来るのに。
「……ねぇ、エンシオディス」
「なんだ」
「この前言っていたロドス・アイランド……だっけ、そこってどんなところなんだい?エンシアが治療を受けているところだろう」
「……ああ、そうだ。興味が湧いたのか?」
「どんなところかなって、気になったんだ。妹が世話になっているところなんだから当然だろう?」
エンシオディスは僕の言葉に納得した様子だった。けれど、その表情はどこか浮かないものだった。
「……どうしたの?」
「いや、何でもない。ロドスでエンシアの治療は進んでいる、何も心配はいらない」
「お前はそうしてすぐに一人で抱え込もうとするね。……エンヤが巫女になった時だってそうだった。身体の弱い僕には黙っていて、マッターホルンやヴァイスに相談して終わらせてしまう」
エンシオディスは困ったような笑みを浮かべる。それから、僕の手を握ってくれた。
「お前が気にすることではない。私は私のすべきことをしただけだ」
「でも……」
僕はまだ疑っていた。エンシオディスは僕に隠し事をしているんじゃないかと思っていたからだ。
僕はエンシオディスにもっと頼られたいし甘えて欲しいと思っている。だから、少しでも彼から情報を得たかった。
「お前が元気になってくれたらそれで良いんだ」
そう言われてしまえば僕は黙るしかなかった。エンシオディスはそうなってしまえば話してくれることはない。
僕が諦めて口を閉ざすと、エンシオディスは僕の手を離す。
エンシオディスは立ち上がって僕の額に手を当てた。
僕はその手に自分のそれを重ねる。エンシオディスの手は冷たくて気持ちよかった。
「まだ少し熱いな」
「仕方ないさ、二日間楽しい思いをしたんだから」
エンシオディスはしばらく僕の手を握りしめてくれた。
僕はエンシオディスの手を握り返す。すると、彼は僕に視線を向けた。
僕たちはお互いの瞳を見つめ合う。
エンシオディスの瞳は僕と同じ色をしている。その瞳が綺麗だと思う。僕もエンシオディスもシルバーアッシュ家特有の毛先が黒っぽい銀髪に薄い灰色の瞳をしていた。
「やはりロドスに行って治療を受けた方が……」
「くどいよ、エンシオディス。僕はロドスに行くつもりはない」
「だが、このままではお前の身体は持たない」
「わかっているよ、自分の身体だ」
僕はエンシオディスの瞳を真っ直ぐに見据える。
エンシオディスは僕から視線を逸らさずに見つめ返してくれた。
「お前は僕の身体のことを誰よりも知っているはずだ」
「ああ、お前の身体のことはお前以上に理解している」
「なら、僕の言うことを理解してくれるね?」
エンシオディスは僕の言葉に反論しようと口を開く。しかし、それは声になることはなかった。
「僕はお前にこれ以上負担をかけたくはないんだ」
「────」
エンシオディスの声が僕の名前を紡ぐ。その声に意思が揺らぎそうになる。
もし、このままエンシオディスやヴァイス、マッターホルン達と生きていくことが出来たら。そんなことを考えたことがないわけではない。
ただ、それは夢物語に過ぎないことはよくわかっていたし、現実問題として不可能なことも承知していた。それに、僕に残された時間は限られているのだ。
その時、ドクンと僕の心臓が嫌な音を立てた。僕は胸を押さえて身体を丸めた。エンシオディスは慌てて僕に駆け寄ってくる。
「大丈夫か」
「……ッ、……ぅ、ぁ」
僕は身体を震わせながら息を吐き出す。身体が燃えるように熱くて痛かった。
「しっかりしろ、今薬を」
「……っ、ぃ……ゃ」
僕は必死に首を横に振る。僕はエンシオディスの服を掴んで引き寄せると彼の胸に顔を埋めて息を吐き続けた。
エンシオディスは僕の身体を抱き締めてくれる。
「マッターホルン、いるか」
エンシオディスが何か言っているのが聞こえる。けれど、何を言っているのかはわからない。
「……ロドスへ連れて行かれるのですか」
「死なせたくないからな」
「わかりました、準備をします」
「頼む」
僕はそこで意識を手放してしまった。
エンシオディス、僕の大切な魂の半身。お前に会えて良かった。お前が僕に生きる意味を与えてくれて、僕はお前のために生きたいと思えた。
ありがとう、僕の大切な半身。お前に出逢えて幸せだよ。
お前が僕に名前をくれたあの日から、ずっとお前を愛していたよ。
僕の魂の半分、どうか僕の分まで生きて。
お前に愛された僕は幸せなんだから。
僕はお前にたくさんのものを貰った。お前は僕の人生そのもので、僕の全てだ。
僕はお前のことが大好きで、大切な弟。
ありがとう、エンシオディス。
お前が僕を生かす光で在り続けてくれる限り、僕はお前を想って生きていける。
だから、僕の分まで長生きしてくれ。
お前の未来に光がありますように。

next...


prev / next

[ list top ]