花かんむりと痣と枷


 少し肌寒い日が増えてきた頃。いつもと変わらない薄暗いアパートは相変わらずタバコの煙が立ち上っている。
 絹水が珍しく一人で出かけたいというのを見送ってから、キースはいつもどおり酒を飲みつつタバコをくゆらせていた。しかし、寝起きから感じていた身体の違和感はひどくなり指をやけどする前にタバコをもみ消す。タバコでアパートを火事にしたなんて洒落にならない。
「くそっ……」
 身体がやけに怠くておまけに頭痛までしてきた。めまいに悪寒までしてきてこれはさすがにまずい状況なのでは、とキースは眉をしかめた。先日遅くまでやけ酒をしたのが悪かったのか、それとも暑いから、と調子に乗って窓を開けっぱなしで寝ていたのが悪かったのか。体調不良を自覚してからはもうダメだった。身体の丈夫さだけは自負していて、ここ最近などわりと無理をしても何ともなかったのだが、そのツケが全部回ってきたということだろうか。
 それに絹水が来てからはキースの生活リズムは変わっていた。夜型だったのが彼女に合わせて昼型になり、たびたび外出をねだるから出かける機会も増えていった。
 一般的には健康的な生活リズムだが、キースにとっては大変よろしくない。絹水がいる生活は今やすっかり馴染んでいたのに、以前のリズムが恋しくなることもある。
「……いつ帰って来んだ、あのクソガキ」
 病院嫌いで身体が丈夫ということもあり、家に常備薬なんてものはなかった。非常に悔しいが頼みの綱はいつ帰って来るかわからない盲目の同居人だけだ。
 ガンガンと痛む頭を押さえてソファに横になる。寝室にあるベッドまで行く気力さえなかった。
 しかし、まだ同居人が帰って来る気配はない。体調が良くない時は心細くなるというけれど、それはキースのような人間にもちゃんと適応されるらしい。いつもはかしましい小型犬のようにきゃんきゃんと騒ぎ立てる同居人でも、いてくれないと非常に心許ない。
「キース?寝てるの?」
 コツコツと白杖で周囲を探りながら近づいて来る絹水になんとか自分の状況を知らせたくて、彼女が持っているトートバッグを引いた。
「きゃっ!ご、ごめんなさい……起こしちゃったかしら……?」
「……遅ェ、何してやがった」
「公園を歩いてきたの、気持ちよかったわ……ねぇ、キースどうしたの?あなた、手が熱いわ」
 そう言って絹水はキースの手を取り額に当てた。ひんやりとした彼女の手の温度が心地よくて思わず目を瞑ってしまう。幼い頃の記憶なんてないけれど、遠いむかしに母親にこうされた気がする。
「身体が怠ィんだ……頭も痛ェし、何とかしろ……」
「わ、わかったわ、……冷たいタオルを準備して来るから少し待ってて」
 額につたない口づけをひとつ置いて絹水は白杖を使いながらキッチンへ向かっていく。この部屋に転がり込んできた当初に比べて彼女はますます動き回るようになった気がする。
 名前をつけがたい奇妙な関係をキースは受け入れている。絹水との生活は存外心地のいいものだったから。
「キース、タオル持ってきたわ……一回熱測ってくれる?」
「ン」
 冷たく絞られたタオルを額に乗せられてから、キースはどこからか見つけてきたのか体温計を渡される。脇に差し込んで待っているとすぐにピピッという電子音が鳴った。
 液晶画面を見ると三十八度とある。平熱が低いキースにしてはかなり高い数字だ。
 それを見た途端、急に身体が重くなったような感覚に襲われた。何とも言えない感覚にキースは盲目の同居人に手を伸ばす。いつも着ている青いワンピースの裾を掴んだ彼は力の入らない手で数度引いた。
「絹水……」
「熱、どれくらい?」
「三十八度」
 何かもっと冷やすものが欲しい気もしているが、それ以上に心細くてキースはどうしていいかわからない。はじめての感覚だった。
 いつもはベッドに引きこもって寝ていれば良くなるというスタンスで治してきたこともあり、キースは誰かが家にいる状態での体調不良ははじめてだった。
「ちゃんと冷やさなきゃ……それよりもまずベッドに行かなきゃだめだわ、キース……立てる?」
「肩貸せ、一人じゃ無理だ……」
 華奢な絹水の肩に手を添えて何とか立ち上がる。ふらつく足取りで絹水はキースを寝室へと連れていった。周りも見えていないのにキースのような大男を連れていくのは骨が折れただろうに。
「……悪ィな」
「いいのよ、まずは寝るのが先だわ」
 ベッドに倒れ込んだキースは絹水が部屋から出て行こうとする気配を感じて手首を掴む。掴まれた腕を絹水は不思議そうな顔で見たあと、困ったように笑った。
「キース……?」
「きぬみ……」
 言葉にならない声で彼女の名前を呼ぶと、絹水は彼の唇を手探りでなぞってから額にキスを落とした。
 熱のせいなのか何だか妙に甘えたくなっている。普段は絶対にしない行動だけれども、今日ばかりは仕方がない。
 絹水はそんなキースの頭を優しく撫でると、そっと部屋を出て行った。
「少し買い出しに行って来るわ。……大丈夫、すぐに戻って来るから」
 まるで子どもに言い聞かせるような声音で絹水はキースに言うとそばを離れていった。
 ほどなくして絹水は本当に帰ってきた。紙袋を下げて戻ってきたのはわかったが、何を買ってきたのかは熱に浮かされた頭ではよくわからない。キッチンから聞こえるお湯が沸く音を聞きながらキースはいつの間にか眠りに落ちていた。
「……ん……」
 目が覚めるとまだ身体はだいぶ怠かったが、部屋にただよう匂いに腹の虫が鳴いた。それもそうだ、朝から酒とタバコ以外何も口にしていない。胃の中は空っぽだ。
「オイ、いるか」
「キース?」
「……腹減った」
「スープなら食べられるかと思って、作ってみたの。……それでいいかしら?」
 テーブルに置かれたのは器に入ったコンソメスープだった。買い出しに行くと言っていたのはこれを作るためだったようだ。
 食欲を誘う香りに思わずごくりと喉が鳴る。キースが無言のままスプーンを手に取ると、絹水は手探りで近くにあった椅子に腰掛ける。
 熱のせいで味は正直よくわからなかったが、温かくて優しい味がした。食べ終わる頃には頭痛も少しマシになっていた。
「料理、作れたんだな」
「ちょっとだけ。ママに教えてもらってたの」
 目が見えなくても彼女はなぜかキースに献身的に尽くす。部屋に転がり込んできたこの奇妙な女はやっぱり変わっている。それでも絹水の存在はキースにとって悪いものではなかった。
 食事を終えた後、絹水はキースのほおに触れてそれから額に手を当てた。まだ熱は下がり切っていない。つめたいちいさな手が気持ちよかった。
「あ、そうだわ。熱を下げる薬を買ってきたの、少しでも楽になるかと思って……」
「苦ェのは飲まねぇぞ」
「たぶん大丈夫よ」
 薬を取りに行った絹水が手にしていたものは一般的に流通している解熱薬だった。薬を水で飲み込み、ふと口寂しく感じた。そういえば、今朝吸ったタバコを最後に一服もしていなかったことに気がつく。
「オイ」
「なに?」
「タバコが吸いてェ」
「だめ。熱があるのにタバコなんて……もっと具合が悪くなっちゃうわ」
 キースの要求はあっさり却下された。ちっ、と舌打ちするとキースは再び目を閉じた。
 目が見えない変わった女。それが絹水に抱いていた印象だった。しかし、彼女は体調不良のキースのために買い物へ行き、スープを作り、果てには薬まで買ってきた。やはり、変な女だと思う。熱でうまくまとまらない考えのまま、キースは眠りに落ちた。
 次に目を覚ますと部屋は真っ暗で、ライトひとつついていない。だが、薬のおかげか身体はだいぶ楽になっていた。
 しかし暗いせいで絹水がどこにいるのかも分からず、キースが身体を起こそうとすると足元に重みを感じる。
「……テメェか」
 その正体はベッドに突っ伏して、くうくうと息を立てて眠る絹水だった。どうやらキースが寝ている間ずっと側に居てくれたらしい。
 暗闇の中、キースは絹水の頭をそっと撫でた。絹水は身じろぎもせずに眠っていた。こうしてみると年相応の女に見えるな、とぼんやり考える。
 自分とはだいぶ歳が離れているし、そもそも部屋に転がり込んできた女と一緒に暮らしていること自体がおかしいと思うのだが、不思議と嫌悪感はなかった。
「ありがとよ」
 眠っている彼女に聞こえないくらいの声で呟くとキースはまたベッドに横になった。そして再び眠りにつく前に、彼の意識は闇の中に溶けていく。
 翌朝起きると、もう昼を過ぎていた。身体を起こすと昨日よりは随分調子が良くなっている気がする。夜中に感じた重みはなくなっていたから、絹水は起きたのだろう。
「オイ、いるか」
「おはよう、体調はどう?」
 絹水を呼ぶと、近くまで来てキースのほおに触れた。彼女の手はいつも冷たい。けれど、心細い時にはそれに救われているのだ。
「昨日よりはマシだな」
「それは良かったわ」
 絹水は安心したようにキースの唇に自分のそれを重ねる。ちゅ、という音と共に離れていき、今度は額をくっつけ合う。
「キースの熱、わたしがもらってあげればよかったわ」
「バカか、テメェはよ」
 キースは呆れた声で言うと、絹水を引き寄せて抱きしめた。絹水はされるがまま、キースの腕の中でじっとしている。胸に耳をぴったりとくっつけて、静かに目を閉じている。
「……心臓の音を聞いてるのか」
「えぇ」
 キースはしばらく絹水のしたいままにさせていたが、やがて彼女を腕の中から解放した。
「昨日のスープ、持って来るわ。わたしも朝ごはんまだなの」
「おう」
 キースが返事をすると絹水はもう一度キスをして部屋を出て行った。もう一度枕に頭を預けて、ぼんやりとする。
 まだ少し怠さと頭痛はあるものの、体温はすっかり元に戻ったようだ。腹の虫も元気よく鳴いている。
 キースはひとりでに口角を上げていた。
 こんな風に誰かに世話を焼かれたのは久しぶりだった。本当に幼い頃に世話をされて以来だったのではないだろうか。
 絹水がこの部屋に転がり込んできてからというもの、キースの生活は大きく変わってしまった。今までなら、どんな時でも他人に頼ることなく生きてきた。しかし、今は違う。
「……悪くねぇな」
 ぽつりと独り言をこぼす。それから部屋に入ってきた絹水がスープの入った器を二つサイドテーブルに置く。
「今日はここで食うのか?」
「えぇ、キースをリビングまで連れて行くのは大変だもの」
「そうかよ」
 そう言うとキースはスプーンを手に取り、一口食べた。キースの好きな濃いめの味ではなかったが、心が満たされるような気分になる。薄味なのは気遣ってくれているからか。
「おいしい?」
「あぁ」
「良かった」
 キースが答えると絹水も嬉しそうな顔をして、自分も食事を始める。ふたりきりの部屋の中、会話は特になかったが心地よい空気が流れていた。
 ふと思えば、誰かの作ったものを食べるのは本当に久しぶりだったように感じる。最後に手作りのものを食べたのはいつのことだったか。
「キース、あのね」
「ん?」
「元気になってくれて良かったわ」
 そう言って笑う絹水を見てキースは思わず目を逸らす。その笑顔に一瞬見惚れてしまったなんて言えるはずがない。彼女を調子付かせてしまうだけだ。
「……テメェのおかげだよ」
 照れ隠しのようにぶっきらぼうに言い放つと、絹水は微笑んだ。良かった、なんてへらりとしたその表情を見ていると怠さなんてどこかへ飛んでいきそうだ。
 きっとキースは、この先もずっと彼女に振り回される人生を送ることになるのだろう。それでも構わないと思ってしまう自分がいる。
 本当の気持ちなんて自分が一番わかっているのに。キースと絹水は恋人同士ではない。何とも名前をつけがたい変な関係だ。けれど、それが今のキースにとってはちょうどいいのかもしれない。
「テメェには敵わねえよ」
 キースは小さくため息をつくと、空になった食器を流し台に持っていった。絹水が来てから稼働率が圧倒的に増えた流し台は今やすっかり彼女が使いやすいようになっている。
「オイ」
「なに?……え、きゃっ」
 キースは白杖をついて後ろを歩いてきていた絹水を強引に抱き寄せると、そのままベッドに押し倒した。突然の出来事で驚いて固まっている彼女の頬に触れ、そっと撫でるとようやく我に帰ったらしい。
「ちょ、ちょっと、キース!あなたまだ病み上がりなのよ!」
「黙ってろ」
 絹水の言葉を無視してキースは絹水の唇を奪う。絹水は抵抗したが、すぐに諦めたらしく身体の力を抜いていった。キースはそのまま舌を差し込み、絡め合う。互いの唾液が混ざり合い、くちゅりと音がする度に絹水は恥ずかしいのか顔を赤く染めていった。しばらくして口を離すと糸を引いた唾液がぷつっと切れる。
「いきなり何を……」
「嫌だったか?」
「い、嫌ではないけど、ちゃんと休まないと……また熱が出たら大変だわ!!」
「そうか。なら今日はテメェも一緒に寝てろ」
 キースはそれだけ聞くと、絹水の隣に寝転がる。そして絹水を抱き寄せた。
「ありがとよ」
「え?」
 キースはそう言って絹水の柔らかな唇に口付けた。絹水は驚いたような声を上げるものの、キースの服をぎゅっと掴む。
「……まだキスだけよ」
「ったく、口うるせェクソガキだな。黙ってろ」
 キースはもう一度絹水にキスをする。絹水の柔らかい髪を手ですきながら、キースは絹水の背中に手を当てた。すると、絹水は身体をぴくりと震わせる。
 キースは絹水の耳元で囁いた。
 ―――好きだぜ。
 その言葉は声にはならなかったが、絹水に伝わったのだろうか。キースは絹水を抱く腕に力を込めた。本当に変わった、面倒臭い女だ。