白日を返す夢


 眠たげな陽光がそよ風と戯れている午後。平和な外の世界から切り取られたような安っぽいアパートはタバコとアルコールの匂いに満たされていた。もうもうと立ち上るタバコの煙をものともせずにキースの肩にもたれて眠りこけている絹水。
 二人が共に暮らすようになってはや数ヶ月。この奇妙で名前をつけがたい関係は続いていた。
 時には何もせずにぼんやりと過ごし、またある時は身体を重ねて過ごしたが、彼女との関係をなんと呼ぶべきかキースは未だにわからない。
 同居人あるいは知人。セックスフレンド。友達。どれも違う気がする。なんとも言えない不思議だが落ち着く関係だった。今まで関わり合ったどの女たちとも違う関係に落ち着いている自分がいる。
「オイ、いい加減起きろ」
「ん……タバコくさいぃ……」
 煙を吐き出すと共に絹水を揺り起こす。そろそろ起きないとまた夜に眠れないと泣きつかれるのだから。そういう時、キースはたいていタバコをくゆらせながら絹身が寝るまで起きている。
 はじめはそんなこと知るかとばかりに眠っていたが、一ヶ月ほど前から起こされるようになったのだ。考えてみれば絹水はまだ19歳で、キースから見ればまだほんの子どもに過ぎない。酒も飲めず、タバコも吸えない子どもだ。
「絹水、また寝れなくなるぞ」
「でも……寝れなくなったらキースも起きていてくれるから好きだわ」
「うるせェ」
 何も映さない瞳を向けられると気持ちが緩むようになったのはいつの頃からだったか。名前をつけがたい感情と関係がキースを苛む。
「眠ィんならベッドで寝ろ。連れてってやるから」
「キースのそばじゃないと眠れないわ」
「ハッ、よく言うようになったぜ」
 悪戯に見上げてくる薄紫の瞳はキースの顔を映すことはないけれど、その言葉に嘘はないことはわかっていた。変な嘘はつかない女だからだ。
「来い」
「きゃっ」
 絹水の背中に手を添えて立ち上がるように促すと素直に従う。そのまま腰を抱き寄せれば抵抗なく腕の中に収まった。少女の柔らかな身体はキースが久しく忘れていたひとの温もりを与えてくれる。
 賞金稼ぎとしてデュエルモンスターズの大会に出ては賞金をさらっていく生活を続けていたキースにとってはひとの温もりなど忘れていた。それを与えてくれたのはこの変わり者の絹水だった。
 彼女は自分のことを普段あまり話したがらないし、キースも聞こうとはしなかった。それでも時折見せる寂しげな雰囲気からは彼女の過去がどんなものだったのか察することができた。
 きっと彼女は孤独だ。キースと同じひとりぼっち。キースもまた、ずっとひとりきりで過ごしてきた人間なのだから。仲間と呼べる人間は長らくいたことがない。
「キース?」
「なんでもねェよ」
 絹水が不安そうに眉を寄せたので慌てて思考を打ち切る。盲目の彼女はキースの今の生活によく合っている。だからこそ手放したくなかった。しかし、この女はいずれ自分の元から離れていくだろう。それが少しだけ恐ろしい。
「腹減ったしどこか……ッン……」
 ちゅっと可愛らしい音を立てながらキースの唇に重ねられた柔らかい唇。驚いている間に離れていったそれは確かに感触があった。
 キスされた。絹水に。それも不意打ちで。
「オイ、話を聞け……絹っ……!」
 再び口づけられて今度は舌まで入れられてしまった。絹水の舌使いは拙かったものの、懸命さが伝わってきてなんだか妙に気恥ずかしくなる。
 やがて満足したのか絹水は唇を離してくすくすと笑った。
「ふふ、キースの慌てた声好きだわ」
「ンなこと言う物好きはテメェだけだな、クソガキ」
「そのクソガキに優しくしてくれるあなたも好きよ」
 肩に手をかけた絹水を引き剥がそうと手首を掴んだ瞬間、その華奢さにドキリとした。細い首筋に長い黒髪が流れ落ちる様はまるで人形のようだと思った。そして同時に沸き上がる暗い感情。
 この女は自分のものにはならないのだと悟ってしまったからだ。
 “絹水”いう名前と少しの過去しか知らないこの女のことをキースは独占したいのだ。知らず知らずのうちに彼女を手元に置いておきたいと思っている。
「絹水、お前……」
 何を言おうとしたのか自分でもよくわからないまま、キースは絹水を押し倒した。驚いた様子だったが、絹水は大人しくベッドに横になる。
 キースがどういう顔をしているのか彼女から見えないのはよかった。きっと今自分がひどい顔をしていることはわかっているから。
「キース?どうしたの?……お昼買いに行くんじゃなかったっけ……?」
「食いたいものはねェのか」
「そうね……ピザが食べてみたいわ。よくラジオでもやっていたんだけど、ママに食べちゃダメって言われてたから」
「じゃあそれでいいか」
「え?キースが好きなものでもいいのよ……?」
「オレは酒さえありゃァいい」
 キースが立ち上がった気配がする。絹水は慌てて彼の服の端を掴んで引き止めた。
「待って……!どこへ行くの……!?」
「外だよ。買ってくりゃあいいんだろ」
 買いに行く。つまり外に出るということだ。なかなか外出の機会を与えられてこなかった絹水はほんのちょっとした買い出しにもついてくることが多い。例えば、タバコがなくなりそうだとか、酒がなくなりそうだとかそんな時でも。
「わたしも一緒に行く……」
「わかったから、さっさと着替えちまえ」
「うん」
 キースはそのまま部屋を出て行く。置いていくつもりはないけれど、女の着替えを覗く趣味もない。少し待っていると部屋の扉が開くと絹水から名前を呼ばれる。
「……キース?」
「杖は持ったのか?」
「持ってきたわ」
 白杖でこつこつと叩いた彼女の手を取ってひじを掴ませる。以前、絹水にお願いされてからするようになった。つくづく面倒くさい女だ、と思う。しかし、絹水も嬉しそうなのですっかりキースは諦めている。
 絹水がキースに頼らなければ生きていけないようにキースもまた絹水がいなくては生きていけなくなっていた。お互いの温もりを頼りに生きていくことが救いになっているから。
 キースが適当に選んだ店は安くて早いを売りにする店舗だった。食べ物には特にこだわりはない。腹が満たされればよくて、なおかつ味がよければいい。それだけだ。
「オイ、何にする」
「何があるの?わからないわ」
「マルゲリータ、プロシュット、カプリチョーザ……っつってもわからねェか」
「キースと同じものでいいわ、見えないからわからないもの」
 絹水は迷うことなくそう言った。
「そうかい。じゃあ、マルゲリータ二つ、ビールを三本、コーラ二本くれ」
 代金を支払ってから出来上がりまでの時間を待って、ピザと飲み物を受け取った。
「美味しそうな匂い……」
 くんくん、と鼻を動かす絹水の頭を撫でる。そうすると彼女はくすぐったそうに身を捩らせた。撫でられ慣れていないのか、絹水はキースが触れると逃げるように身体をよじる。けれど嫌がっているわけではないことはわかっていた。
「ピザ食べるの楽しみだわっ!」
「お前普段何食ってたんだ?ジャンクフードくらい食ったことあるだろ……」
「普段?パンとかパスタとか……あとご飯を食べてたわ」
「……それでよくピザが食いたいなんて言い出したな」
「だってラジオで聞いたんだもん。それにラジオのDJが言ってたのよ、ピザってすっごく美味しいって。だから一度食べてみたかったの!」
 にこにこと話す絹水が子どもっぽくてキースは鼻で笑ってあしらう。まだその無邪気さには慣れない。いつも暗いアパートの部屋で一人で暮らしていたキースにとって絹水はまだ慣れない存在だ。
 部屋に帰りついてから二人はピザを開けてそれぞれに食べすすめた。キースがよく食べるのはマルゲリータだから、絹水にも同じものを買い与えた。
ッ!!美味しいわ、これ!」
「そいつァよかったな」
「えぇ!」
 ぱくっと一口食べた絹水の顔は幸せに満ち溢れていた。きっと今までにこんな風に食事をしたことは一度もなかったのだろう。
「安い女だな」
「あらどうして?」
「ピザ一枚で幸せになれるなんてよ」
 口にピザソースをつけながら首をこてんと傾げる姿は年齢よりも幼く見える。ピザをビールで流し込みながらキースは絹水の口元を拭ってやる。
 絹水はきょとんとしてされるがままになっていた。
 それは決して悪い気分ではなかった。
 絹水は自分が何をしているのか理解していなかったし、キースもまた絹水をどう思っているかなど考えたこともなかった。ただお互いに依存し合っているだけの関係。
 それでも、絹水にとってはそれでよかったのだ。
 キースにとってもそれで十分だった。
「ねぇ、キース。わたし、またお出かけしたいわ」
「気が向いたらな」
 ビールを飲みながらキースは上機嫌に笑った。今日はなんだか気分がよかった。お昼からピザを食べて酒を飲み、よくわからない関係の女がいる。悪くはない。
 しばらくピザを食べているととなりで黙々と食べていた絹水がうとうとと船を漕ぎ始めた。眠たいらしい。
「オイ、眠ィんならベッド行くぞ」
「んん……、やだぁ、キースといる……」
 半分夢の世界に足を突っ込んでいながらも駄々をこねる絹水はほんとうにキースの手を焼かせる。
 しかし、それも仕方がないことだった。絹水は盲目なのだから。
 キースは彼女の手を引いて立たせるとそのまま抱き上げて寝室へと連れていく。昼間からベッドに潜り込んで惰眠を貪るなんて贅沢だ。けれど、たまにはいいか、と思考を切り替える。
 そして絹水を抱き枕のようにだきしめているうちに、いつのまにかキース自身も眠りに落ちていた。
 目が覚めると、隣では絹水が静かに寝息を立てている。時計を見ると時刻は既に夜中の十二時を過ぎていた。
 当然、外は真っ暗で何も見えない。ぼんやりと切れかかった街灯が外を照らしているだけだ。
「……マジか」
 思わず独り言が漏れた。まだ眠れるではないか。腕の中でもぞもぞと動く絹水をしっかり抱え直すと、キースはもう一度目を閉じた。
 彼女が家に住み着くようになってから睡眠の質が良くなり、睡眠時間が増えたことはメリットの一つだった。
 朝日の眩しさに目を覚ますと、絹水は腕の中で変わらずにぐっすりと眠りこけている。
 この女はよく眠る。しかし、絹水はひとりで外に出かけることがない。盲目なため暇つぶしに本を読んだり、テレビを見たりすることもない。つまり、必然的にすることがなく、自然と眠りにつくというわけだ。
 キースが仕事で出かけている間は眠っていることが多いようで、昨日のような外出は久しぶりだったようだ。
「おい、起きろ」
 声をかけると、絹水は小さく身じろいだ。それからゆっくりと目を開く。
「キース?今はいつ?」
「まだ朝だ」
「……もう少しだけ」
 そう言って絹水は再びまぶたを閉じる。キースはその頭を撫でてやった。絹水は嬉しそうな顔をして再び眠りについた。
「……」
 このまま二度寝をしてしまおうか、とキースも絹水に抱きつかれながら考える。くうくうと聞こえて来る寝息がキースの眠気を誘うのだ。
「オレももう少し寝るか……」
 その誘惑に負けて少しだけ、とキースも眠りにつくことにした。次に目覚めたのは正午過ぎだった。
 絹水はまだ眠っている。キースの胸に顔を埋めてすやすやと気持ちよさそうだ。そんな彼女を起こさないようにそっと抜け出してキースは着替えた。
「絹水」
 名前を呼んでみるが起きる気配がない。キースは絹水の肩を揺する。
「絹水、オイ起きろ」
「……んぅ」
 ようやく起きたのか、絹水はゆっくりまぶたを持ち上げる。ひかりを宿さない瞳はそれでも優しい色をしている。絹水はキースの顔にしろい手で触れてふわりと微笑んだ。
 それがとても綺麗でキースは不覚にも見惚れてしまった。彼女はキースの胸元に頬を寄せてぐりぐりと甘える。
「やめろ、くすぐってェ」
 絹水の柔らかな髪がくすぐったくてキースは身を捩る。絹水は楽しそうに笑ってさらに強く抱きしめてくる。まるで恋人同士のようなやり取りだった。
 しかし、二人はただ依存しているだけの関係である。
 それでも、絹水にとってはそれでよかったのだ。
 キースにとってもそれで十分だった。絹水は盲目だから、キースがどんな人間なのか知らないままだ。それでいい。絹水がキースのことを必要としてくれる限り、キースもまた絹水のことを必要とするだろうから。
「キース、わたしね欲しいものがあるの」
「欲しいモンがあるなら自分で買え、そこまで面倒は見ねェぞ」
「お金じゃ買えないものよ、それに今すぐ手に入るものなの」
 絹水の言葉の意味が分からずキースは首を傾げる。すると、絹水は悪戯っぽく笑った。
「キースからのキスが欲しいわ」
「……キス?」
「えぇ」
 絹水はキースの唇に指先で触れる。その表情はどこか妖艶で、キースの心をざわつかせた。キースがどういう人間かも知らずにそばにいる。それでいいのだ。この女は自分のことなど知らなくていい。絹水の前では何も知らないただの落ちぶれた男でいたい。
 キースは絹水を抱き寄せると、そのまま口付けた。絹水は驚いたようだったが、抵抗することなくそれを受け入れる。キースは絹水が逃げないようにしっかりと抱き締めたまま舌を絡める。絹水はされるがままだった。
 しばらくして、どちらからともなく口を離すと二人の間に銀糸が伝う。絹水はそれをぺろりと舐めてキースを見上げた。
「ありがとう、……でも、もっと欲しいわ。たくさんキスして欲しいの」
「……仕方ねェやつだな」
 キースは絹水に覆い被さると、再び彼女の口に自分のそれを押し付けた。絹水は幸せそうに笑う。キースはそれに満足して、何度も何度も彼女にキスをした。それはきっと、麻薬のようなものなのだ。
 ちゅっ、ちゅっと音を立てながら何度も鳥がついばむようにキスを繰り返す。絹水は嬉しそうに笑い声を上げてキースの首に腕を回した。
 絹水は盲目で、キースのことを何も知らない。それで良かった。明るくてひだまりの温かさがある外よりも、キースには絹水がいるこの薄暗くてひんやりとしたアパートの方が居心地がいいのだ。
「キース、わたし幸せよ」
「そうかよ」
「だって、あったかいんだもの」
「……あァ、そうだな」
「キース、大好きよ」
 絹水は盲目だけれど、確かにそこにいる。ひだまりのようにあたたかく、眩しい存在だ。キースはそれを知っている。
 だから、これで良いのだ。
 ――絹水がいなければ生きていけないなんて、そんなことは絶対にないのだとキースは自分に言い聞かせた。
 自分の中に渦巻きはじめた醜い感情なんて見ないふりをしながら。