タバコとベイビーフェイス


 その日は冷たい雨が朝から降り続き、二人が眠る時間になってもまだアパートの屋根を叩き続けていた。秋の長雨とはよく言ったもので吹き付ける冷たい風も空気の冷たさを加速させる要因に過ぎなかった。雨の日は絹水が外に出たがらないため、二人は必然的に部屋の中で過ごすことが多い。それでもたまに雨の街を歩くことはあるのだけれど。
 キースが暮らす部屋からも降り続く雨が見えて、何回目かわからないため息を煙と共に吐き出してから短くなったタバコの火を灰皿でもみ消す。
 やはり雨の日は好きではない。それは絹水も同じだったらしい。
「今日は出掛けないわ」
 わがまま全開にそう言って、先ほどまで二人で見ていた映画を再生させたままソファの上でクッションを抱えてぼんやりとしていた。しばらくその様子をタバコを吸いながら観察していたら、絹水がうとうとしはじめる。
「オイ、眠ィんならベッドに行け」
「やだ……キースと一緒に寝たいわ……」
 そう言うなり彼女は目を閉じてしまった。キースとしては床で寝ると言われるよりマシだが、ここで寝られて風邪を引かれても困る。ブランケットをかけてやってからキースはテレビ画面へと視線を向けた。ちょうどエンドロールが流れはじめたあたりでタバコに火をつける。
「……あ?」
 ふいに膝の当たりで人の気配を感じて振り返ると、いつの間に目が覚めたのか絹水がこちらを見つめていた。世界どころかキースの顔さえ映さないひかりを宿さない、それでいてやさしい瞳。
「何だよ」
「……眠いの、キース」
「だァからベッド行けって言っただろ」
「嫌よ」
 絹水の言葉を無視して再び前を向いたキースだったが、今度は背中越しに彼女の声が届く。甘えてるのは間違いない、そして寝ぼけてもいる。
「ベッドに連れて行って」
「はあぁ……いいか、ベッド行ったら寝んだぞ」
「わかったわ!」
 どうせ起きていてもろくなことを言わないだろうと思い、絹水の手を掴んで立ち上がらせるとそのまま寝室へ連れていくことにした。
 相変わらず雨は止むことなく降り続いていたし、風も強かった。こんな日に外に出るやつはいないだろう。暗くて寒いし、おまけに悪天候。言うことなしだ。
「ほれ、着いたぜ」
 絹水をベッドに押し込んで、キースはさっさとリビングに戻るつもりだったのだが、予想に反して腕を引っ張られて足を止めた。
「オイ、何のつもりだクソガキ」
「ラジオかけて行って欲しいの、音がないと眠れないわ」
「ったく……」
 絹水の要望通りラジオのスイッチを入れてからキースはソファに戻ろうと思った。その前に一服しようとポケットに手を入れたところで、またしても腕を引かれる。
「おいコラ、ベッドに行ったら大人しく寝るって約束だろ」
「わかっているけど、やっぱり一人じゃ寂しいわ」
「オレはここでタバコ吸うんだよ」
「お願いキース……」
 そう言って、絹水はキースの腕に頬を寄せてくる。夜になると彼女はこうして甘えん坊になる。そしてこのモードになった彼女は引かない。それをよく知っているキースは諦めて紫煙を吐き出した。
「ホントにクソガキだな」
「クソガキなんかじゃないわ、もう19歳よ!」
「酒飲めねェ奴はまだクソガキだ」
「もうすぐ20歳になるわ!お酒を飲んでもいい年齢だもの」
「まだテメェは未成年だろ、だからクソガキだ」
 キースがタバコを吸い終わるまで、二人はそんな他愛もない会話を続けた。結局、見る予定だったもう一本の映画は見ずに終わってしまった。
 酒を入れていたグラスを洗って干してからキースはもう一本タバコに火をつける。それを吸ってから寝室へ向かうことにした。
 いつものようにキースのベッドに我が物顔で陣取り、ラジオを聴いていたはずの絹水はいつのまにか寝落ちている。基本夜型なキースとは正反対に昼型の生活をしていたらしい彼女とはとことん生活するペースが合わない。
 起きている時は小型犬のようによくきゃんきゃんとかしましく話しかけてくる。キースには最近絹水が黒いチワワにしか見えなくなってきたが、やはり寝ている時の顔はあどけなく年齢相応に見える。
「やっぱクソガキはクソガキだな」
 ベッドへ腰掛けるとど真ん中に陣取っていた絹水を脇へ寄せてからラジオを切った。一枚しかない毛布を被り横になろうにも、絹水がいるから仰向けに、とはいかない。結局彼女を背後から抱きしめて眠ることにする。
 まだ少女の柔らかさと女性の淑やかさの合間をふわふわしている年頃の彼女が同居人なことにキースは未だに理解が追いついていない。夢なのではないかと思ってしまう。それくらい現実感がない。
 しかし絹水の体温だけは確かにそこにあることを証明してくれていた。それが心地良いと思う反面、どこか不安になる。きっとこの先もそれは消えないのだろう。
 だからこうして抱き枕代わりにして眠ることにした。少しでも長く彼女を感じていられるように。
 絹水が起きないようにそっと腕に力を入れると彼女は小さく身じろぎをしてこちら側を向いてきた。
「キース……」
 起きたのかと思い目を閉じたまま様子を伺うも、規則正しい呼吸音が聞こえてきたことからどうやら寝言だったようだ。
 彼女の肩口に鼻を埋めれば、自分と同じ石けんの匂いがした。それは当たり前のことなのだけれど、なぜかひどく安心する。
 こんな風に誰かと眠るなんて数ヶ月前の自分には想像できなかったことだ。
 そんなことを考えながら意識は徐々に眠りへと沈んでいった。
「……キース、キース」
「ん……っ、あ?」
 雨はまだ止まずに窓の外ではしとしとと静かに降っているようだ。
 名前を呼ばれて目を覚ますと、まだ部屋は暗い。窓から見える景色は相変わらずの暗さで、外の様子を見る限りまだ夜明け前であることがわかる。
 寝ぼけた頭でぼんやりと考えていると不意に頬に柔らかいものが触れた。それが絹水の唇だと気付いた瞬間に一気に目が冴えた。
「テメ……何しやがる、絹水」
「目が覚めちゃったの、それでもう一回寝ようと思ったんだけど眠れなくて」
 悪びれもなく言う彼女にため息をつく。これで無視をしてもまた起こされるだけだ、キースはもう一度寝るのを諦めて起き上がることにした。
 となりでちょこんと座っている絹水はすっかり目が冴えてしまったようで、じっとこちらを見つめてきている。
「キース」
「ンだよ」
「……近くに、いる?」
 目が見えない彼女には部屋の明るさも暗さも関係ない。ずっとキースの顔も見えないのにそばにいるのだから不思議なものだ。少し考え込んでからキースは絹水を抱き寄せる。
「いるだろ」
 そう言って背中をさすってやる。絹水は何も言わず黙ってされるがままにしていた。いつもならこうしてやると眠るのだが、今日はどうもそうではないらしい。眠る気配がなくただキースの胸に寄りかかって耳を当ててじっとしている。
 一体何を考えているんだか。
 仕方なくキースはタバコに火をつけて煙を吸い込んだ。ゆっくり煙を吐き出す。
「キース、いい匂いがするわ」
「タバコの匂いだろ」
「えぇ……でも好きだわ。キースのタバコの匂い」
「そりゃどーも」
 それからしばらく二人とも何も話さずに時間だけが過ぎていく。絹水はキースの腕の中で身動ぎすると彼の首元に顔を押し付けた。
 彼女の息遣いがすぐそこに感じられて、キースは内心気が気じゃなかった。絹水が動く度に腕の中の細い身体を意識してしまって仕方がない。
 普段ならばすぐに引き剥がすが今日ばかりはその気力もなかった。絹水がこのまま眠ってくれればいい。
 だが願い虚しく絹水は顔を上げるとキースの瞳を覗き込んできた。ひかりを宿さないその瞳に写っている自分はひどく間抜けな顔をしているように見えた。絹水がゆっくりと瞬きをする。
 そして次の瞬間には視界いっぱいに彼女がいて、唇に柔らかな感触がした。それが絹水のものだと認識するのに数秒かかった。
 目を閉じることもできず、キースは彼女の行動に驚くことしかできない。触れるだけのキスはすぐに終わってしまう。
「キースの唇かさかさだわ」
「……テメェの唇は柔らけェよ」
 やっと出た言葉はそれだけだった。心臓がまだばくばくとうるさい。絹水は嬉しそうに笑うと再びキースの首に腕を回して抱きついた。
 絹水の行動の意図がわからず混乱していると、彼女は小さく囁いた。
「ねぇ、もっとしたいわ」
「は?」
「キースとキスすると落ち着くの、もう少ししていたいわ」
「本当にクソガキだな、テメェはよ」
 呆れ半分でため息をついてから絹水を引き離すと、今度はこちらから口付けた。驚いたように見開かれた絹水の目を見ながら何度か角度を変えて啄むような軽いものを繰り返す。絹水はキースの服をぎゅっと掴みながら必死に応えようとしていた。そんな姿に思わず笑ってしまいそうになる。今までしてきたどの女よりも子どもじみた反応だったからだ。
 それでも不思議と嫌じゃない自分がいることにも驚いていたが、今はそんなことを考えている場合ではなかった。絹水の唇が離れるのと同時にキースも口を離す。
 お互いの吐息がかかる距離のまま見つめ合う。絹水の唇からはどちらのものかもわからない唾液が光っていて、それが艶めかしくてついまた触れたくなってしまいそうな衝動をぐっと抑える。
「キース……?」
「水持ってくるから待ってろ」
 キースは絹水の頭をくしゃりと撫でてからベッドから抜け出た。そのままキッチンへ向かい、冷蔵庫の中からペットボトルを取り出してグラスに注ぐと一気に飲み干す。冷たい水が喉を通っていく感覚が心地よかった。
 ふぅ、と一息つくとキースは絹水の分の飲み物を持って再び寝室へと戻る。先ほどと同じように絹水はベッドに座って待っていたがどこかそわそわとして落ち着きがなかった。
「ほら、飲んどけ」
「ありがとう……」
 受け取ったそれをこくり、と飲んでいる絹水を眺めながらキースはタバコに火をつけた。煙を肺まで深く吸い込んで吐き出す。絹水はちらとキースを見上げたが特に何も言わずに視線を落とした。
「……おい、寝るんじゃねェのかよ」
「目が冴えちゃったわ……」
「ンなこと言われてもオレは寝るぞ」
「……キースが寝るなら、わたしも寝るわ」
「おー、寝ろ寝ろ」
「おやすみなさい」
「ン」
 キースは短く返事をして目を閉じた。だが眠れるはずもない。絹水も起きているらしく隣でじっとしている気配がする。それからもそもそと動いてきて、キースの背中に抱きついてくる。
 ただでさえ狭いシングルベッドに二人で横になっているのだ。必然的に身体は密着してしまうわけで。
 背中に当たる柔らかな感触にドギマギしてしまう自分に嫌気が差す。まるで思春期のティーンみたいだ、と自嘲する。
「……キース」
「あ?」
 背中から腹の方に回された手にキースはもう一度ため息をつく。つくづく面倒臭い女だ、と思う。
「なんだ、どうしたんだよ」
「なんでもないの。ただ、こうしていたいだけ……」
「そうかよ」
 キースは身体を動かして絹水の方へ向き直ると彼女の頬に触れた。絹水はすり寄ってきて嬉しそうにしている。
 真夜中に眠れなくてキースを叩き起こしてキスをねだり、それでも眠れなくて背中に抱きついてきている。この女は一体何を求めているんだろう。こんなことをされて、キースにはさっぱり理解できなかった。
「……寝るんじゃなかったのかよ」
「やっぱり寝れないわ……いつもならこんなことないのに」
「やっぱりクソガキだな」
 キースは絹水の髪を指先で弄びながら呟いた。さながら遠足を前にした子どものようだ。映画を見てはしゃぎ過ぎた反動だろうか。
「ごめんなさい、起こしちゃって」
「別に気にしてねェよ」
 絹水は困ったように眉を下げていた。本当にどうして良いかわからないようだった。そして少し悲しげに微笑むとキースの胸に顔を埋めた。
 キースは絹水を抱き寄せると耳元で囁いた。
 もう眠たいから、これ以上は何もしたくないということを伝えたかったのだがそれは逆効果だったらしい。絹水はさらにぎゅうとしがみついてきた。キースは絹水を抱く腕の力を強めるとため息をついた。本当に、厄介な奴だ。
「わたしね、キースに会ってから世界が広がったの」
 絹水はぽつりと言葉をこぼすように言った。
 キースは黙っていた。話したいのならば勝手に喋ればいいと思ったからだ。絹水の言葉に相槌を打つ気もなかったが、彼女は構わず続けた。
「初めてだったの、誰かの声をもっと聞きたいって思ったのは。それでね、ママには反対されたんだけどキースに会いにきて本当によかった。キースがいてくれるだけで、目が見えないことも悪くないって思えるようになったの」
 絹水の顔が見えないからどんな表情をしているのかわからない。でもきっと笑ってはいないだろう。キースのシャツを握る手が小さく震えているのがわかった。
「キースがわたしを追い出さないでくれて嬉しいの。わたしにとってあなたは特別だったのよ」
「……だからってオレを好きになる必要はねぇだろ」
「好きになっちゃったんだもの、仕方ないわ」
 絹水はキースの腕の中で身体を起こすと顔を覗き込んできた。何も映さない薄紫色の瞳はぼんやりとした色でキースを見つめている。
「キースは? キースはわたしのこと、嫌い?」
 絹水の瞳が不安げに揺れる。キースは答えずに絹水の唇を塞いだ。絹水はすぐにキースの首の後ろに手を回してきて舌を差し出してくる。
「ン……」
 くちゅ、と唾液が混ざる音が静かな部屋に響く。しばらく互いの口内を貪っていたがやがてどちらともなく口を離すと糸を引いたそれがぷつんと切れてシーツの上に落ちた。
「嫌いならすぐに追い出してるぜ、それにお前が好きだっていうオレはただのクズだ」
「知ってるわ」
「わかってんならいちいち聞くんじゃねェよ」
「そんなこと知っても幻滅したりしないわ」
 絹水は手探りでキースの顔に触れて、しばらく輪郭をたどるようにぺたぺたとなぞっていく。部屋の空気に冷やされてつめたくなった手がじゃれつくようにキースの顔に触れる。
「キースの顔、好きだわ。見えないけど好きよ」
「そうかよ」
 キースは絹水と向かい合うようにして横になって、頬に手を当てられたままじっと見ている。
 絹水はキースの頬に手を当てたままじっと見ていたが、ふと思いついたように身体を起こしてキースの頭を抱え込むと再びキスをした。
 今度はすぐに離れていかない。何度も角度を変えて、その度に深まっていく。キースは絹水の背中に腕を回して引き寄せると、そのまま押し倒した。
「……キース」
「ンだよ、いいから早く寝ろ。オレは眠ィんだ」
「嫌よ、キースがキスしてくれたら眠れる気がするわ」
 絹水はあでやかな笑みを浮かべるとキースのほおを包み込む。身体を重ねない夜でも絹水はこうしてキースとの触れ合いをねだる。口づけを交わして、抱きしめあって、心だけは繋がっているのだと信じ込んでいるかのように。
 絹水の行動に深い意味などない。キースはそう自分に言い聞かせる。ただの気まぐれ、寂しがりな一面もある盲目の少女の戯言なのだと言い聞かせる。
「キース……」
「……っくあぁ……もうテメェに付き合いきれねェ。オレは寝るぜ」
 名前を呼ばれてもキースの頭は既に限界を迎えていた。長らく続く雨に加えて低気圧の時に襲われる頭痛。絹水の相手もそれに加わり、そろそろ眠気の限界だ。
 盛大にあくびをかました後、まだ口づけをねだりそうな絹水を抱き枕のように抱き込む。絹水は驚いたのか一瞬だけ身体を強張らせた後、キースの胸板に顔を押し当てて大人しくなった。
「……おやすみなさい、キース」
 絹水はそれだけ言うと静かに目を閉じた。暫くすると穏やかな寝息が聞こえてくる。いつもならばもう少し起きているはずだが、キースもこの日に限っては絹水が眠ったすぐ後に寝息を立て始めた。
 雨はすっかり上がり、次の日は晴天になることを二人はまだ知らない。知らなくていいのだ、明日のことなんて明日の二人がなんとかするのだから。