素直になれる一日


たまたまその日は絹水がお気に入りのラジオチャンネルがやっていなくて、適当に変えた周波数で流れていたチャンネルを聞き流していた。よくわからない流行りらしい音楽が流れていて、それが終わればパーソナリティとタレントがテーマに沿って話をしている。
お気に入りのチャンネルがやっていなかった絹水はいつのまにかソファの上で夢の世界に旅立っていた。テーブルの上で飲みかけだったコーヒーが冷めてしまっている。
「寝るんならベッド行けっつってんだろ、クソガキが」
そう言いながらもソファに準備しているブランケットをを掛けてから、キースは自分の分のコーヒーを口にした。
うんと濃く入れたそれは苦味が強く好みの味だった。絹水の分は砂糖とミルクをたっぷり入れた甘いものを準備しないと飲めないと文句を言う。
キースにとってはもう慣れたものだ。共に暮らし始めてまもなく半年が過ぎて、知らないうちに絹水がいる生活が当たり前になってきている。
甘ったれた声で名前を呼ばれて、猫のように擦り寄られながら共に眠る日々はひどく退屈だけどひび割れていたキースの心に染み入っていく。乾いた大地に雨が降れば染み込んで潤うように。
「……というわけで、たまには素直になるのも良いかもしれません」
ラジオのパーソナリティがそう言ったことだけははっきりとキースの耳に届いていた。
素直になるのもいいかもしれない、と。
最近絹水は彼の耳に好き、と吹き込むことにはまっているようでことある度に好きよ、と言ってくる。
好意を寄せられて嬉しくないわけがない。嫌いな相手とは身体を重ねたり、一つ屋根の下で暮らしたりはしない。とうの昔に追い出しているに決まっている。
絹水も孤独に震えていたのだとキースは知っている。身体も心も寄越せ、と言いながら心を渡していないのは自分の方だとふと思い至ったのだ。
「素直になる、ねぇ」
コーヒーを飲み干したキースは絹水の分のマグカップもシンクに置いて、その寝顔をちらりと見つめた。緩み切った警戒心のない間抜けな顔をして眠っている。長い髪が顔にかかっているのを払ってから、彼女が動いた時に落ちたブランケットを直した。
「好きだぜ」
小声で伝えてみる。自分の心に芽生えていた微かな気持ち。依存と独占とはまた違った感じたことのない暖かい感情。
絹水が運んできたこの名前をキースは知らない。
「……わたしも、大好きよ」
目を閉じたまま口元を緩めて幸せそうに笑う絹水を見て、思わず息を飲んだ。まさか起きているとは思わなかったのだ。寝ているフリをしているだけだと思っていたのに、完全に熟睡しているとばかり思っていたのだから仕方がないだろう。
「……起きてたのか?」
「ふふ、半分寝てたんだけど……でもキースの声が聞こえたから返事をしただけよ」
眠そうにあくびをしながらゆっくりと起き上がった絹水はまだぼんやりとした様子で目を擦っている。
「まだ眠いなら寝てろ」
そう言って頭を撫でてくるキースの手を掴んで離させた絹水はそのままぎゅっと握りしめる。
「大丈夫、起きるわ。それよりさっき何か言った?わたし、ちょっと寝ちゃってたから聞こえなかったのよ」
首を傾げる彼女の瞳はまっすぐこちらを見つめている。その視線から逃げるように顔を逸らしてキースは答えた。
「何も言ってねぇよ。ってか返事しただろ」
素直になることは何よりも難しい。特に絹水を前にしては。誤魔化すように咳払いをしてそっぽを向いていると不意に握られたままの手に力が込められた。
「じゃあもう一回言ってくれる?今度はちゃんと聞くから」
ねだるような声色で言われてしまえば拒否することもできない。観念したように息を吐いてから口を開く。絹水が言い出したら聞かないことはよく知っている。
「テメェが……」
そこまで口にしてから言い淀んでしまう。しかしここまできたら最後まで言うしかないだろう。そう決意してもう一度口を開いた。
「……好きだって言ったんだよ」
顔が熱いのがわかるほど熱を持っていることが自分でもわかるくらいだ。きっと耳まで赤くなっているに違いない。そう思いながらちらりと視線をやると絹水は嬉しそうに微笑んでいた。
「ふふ、わたしも好きよ。キースが誰よりも好き」
屈託のない笑顔を向けてくる彼女に心が満たされていくような感覚を覚えた。これが幸せというものなのかもしれない。柄にもなくそんなことを思いながらキースは照れ隠しをするように頭を掻いてから、絹水を抱き寄せて唇を重ねた。
触れるだけの軽いキスだったが、それでも十分すぎるくらいに幸せな気分だった。
「ん。あれ、コーヒー……」
「寝てたら片付けたぜ、寝てたろ」
「そうね、今日は退屈だわ。ミスター・ブックスのチャンネルがないんだもの」
つまらない、と言いたげに唇を尖らせる彼女はソファの上で膝を抱えて座り、窓の外を見えない目で眺めていた。時折溜息を吐きながら憂鬱そうな表情をしている彼女を見ていると、なんだかこちらまで気分が滅入ってくるような気がした。
いつもなら何事もないようにくっついてくるはずの絹水がくっついてこないのは何となく変な感じがする。それに、最近はいつも一緒にいるというのに退屈だと言い出すのも珍しい。
お気に入りのチャンネルがやっていないとはいえ、絹水は一人でビー玉を転がして遊んでいるか、寝ているか、キースにくっついているかのどれかだ。
退屈そうな様子など見せたことがなかった。
だからだろうか、キースは思わず口を開いていた。
「何か変なモンでも食ったのか?」
冗談めかして言いながら彼女の顔をのぞき込むと、一瞬驚いたように目を見開いてからくすくすと笑い出した。
「キースと同じものを食べているのに?ふふ、そんなことあるわけないでしょ」
くすくすと笑いながら否定する姿にキースは安堵したような表情を浮かべた。どうやらいつもの調子に戻ったようだと内心で安堵しつつ、いつも通りを装って軽口を叩くことにした。
「だったら何だよ」
「……何でもないわ」
そう言いながら絹水はキースの胸に顔を埋めるように寄りかかってきたので、いつも通りしたいようにさせることにした。よく懐いたチワワのような仕草に少し安心する自分がいる。
「最近のキース、少し怖かったから」
「……怖かった?」
「えぇ、何だか一つのことに集中し過ぎて自分のことも疎かにしてたでしょう。ご飯食べるの忘れてたり、たばこだって吸わない時もあったし」
確かにここ最近は特にペガサスに関する情報を集めていて、あまり食事を取っていなかった気がする。睡眠時間も短くなっていたかもしれない。煙草に至っては吸っていない日の方が多かったように思う。
「別にそんなつもりはねぇけどよ……悪かったな」
「ううん、いいの。……キースが遠くに行っちゃうみたいで嫌だっただけよ」
ぽつりと呟いたその言葉を聞いた瞬間、キースは絹水の肩をそっと抱き寄せていた。
「行かねェよ、どこにも」
「本当?」
「テメェに嘘ついても良いことねェだろうが」
キースの言葉を聞いた絹水は安心したかのように微笑んだ。そして甘えるように擦り寄ってくる。その仕草はまるで子猫のようだと思った。
「キース、好きよ」
「そうかよ。……テメェに言われて悪い気はしねェな」
ぶっきらぼうに答えるものの、本心は嬉しいのだ。誰かに愛を乞われることなど生まれてからずっとなかったに等しかった。だからこそ余計に嬉しく感じるのかもしれない。
「うふふ、そうでしょう?キースのこと大好きだもの」
「そうかよ」
適当に返事をしながら頭を撫でると嬉しそうな声が聞こえてきた。そのまましばらく撫でていると不意に手を掴まれてしまった。何をするつもりなのかと思っていると指先に何か柔らかいものが触れた感覚がした。
ちゅっと音を立てて吸い付かれたのだと気づいた時には既に遅く、何度も音を立てて吸われた後だった。ちゅぱっという音と共に唇が離れると、今度は指先をぺろりと舐められる感触がした。
「おい、何してやがる」
慌てて引き剥がそうとするが離れないどころかますます強く吸われてしまう始末だ。まるで愛撫されているかのような感覚に背筋がぞくりとした。このままではまずいと思い無理やり指を引き抜くと不満げな声が上がるが無視することにした。これ以上好きにさせていたら何をされるかわからないからだ。
「キースの左手の薬指、欲しいわ」
「はァ!?」
突然の発言に思わず大きな声が出てしまった。しかし当の本人は気にする様子もなく言葉を続けた。
「そうすればずっと一緒だわ」
うっとりとした表情で言うものだから本気なのか冗談なのか判別がつかない。ただ言えることは一つ、これは完全に面白がっている顔だということだ。
「馬鹿言ってんじゃねぇ、ンなことできるか」
「わたしの目が見えないから?」
「違ェよ、指切れねェだろって話だ」
キース自身は何人も手の指を失った人間を見てきたが、彼自身はまだその域には入っていない。入ってはならないと本能的に分かっていたから。
「……じゃあ、指切りしたいわ」
「指切り?……何だそれ」
「日本の約束の方法よ。指を絡めて約束するの」
ほら、と言いながら絹水は自分の左手を差し出してきた。その意味を理解したキースは小さく舌打ちをすると彼女の手を取り薬指同士を絡めた。所謂恋人繋ぎというやつだ。
「これで満足かよ」
恥ずかしさを誤魔化すためにぶっきらぼうに言うと絹水は嬉しそうに微笑んでいた。その表情を見た途端、何故か胸が高鳴るような感覚を覚えた。それを悟られないよう平静を装うと、キースは口を開いた。
「で、どうすりゃいいんだ」
「こうするのよ」
絹水は繋いだままの指に軽く力を込めると歌い始めた。
アメリカでまず聞かない歌。嘘ついたら針千本飲ます、と物騒な言葉で締め括られたそれにキースはふっと笑みを漏らした。
「物騒な歌だな」
「じゃあ、約束してくれる?わたしと一緒にいるって」
「本当に仕方ねェクソガキだな」
そう答えながらキースは絹水の手を引き、ソファへと押し倒した。突然のことに驚いている様子の彼女をよそに覆い被さるような体勢になると耳元で囁いた。
「安心しろ、テメェが嫌がっても離さねェからよ」
「……望むところだわ。キースになら殺されたっていいもの」
どこまでも純粋に自分を信用してくる絹水はキースにとっては毒物のようでもあった。じわじわと心を侵食していく甘い毒。それはまるで麻薬のように脳髄を犯していくのだ。
「クソガキどころかバカだな、テメェはよ」
悪態を吐きながらも優しく頬を撫でてやると気持ち良さそうに目を細める姿が可愛らしいと思ってしまうあたり自分も相当やられているなと思うのだった。
「バカでもいいわ、だからずっと一緒にいてね」
そう言って笑う絹水を見て、キースは呆れたように溜息を漏らすしかなかった。
この女には一生敵わないのだろうと思いながらも、それが嫌ではない自分に苦笑する。そして返事の代わりに鼻先にかじりついてやった。