ふいうちなくちびる


絹水の初恋はキースだった。
あの時の賞金マッチ、初めて聞いた声で恋に落ちて、生まれて初めて母親の制止を振り切ってまで会いにいった。あれからいろいろなことがあったけれど、今でも絹水はキースに恋をしている。
早春のアメリカでは雨が降っている。ざあざあと音を立てながら窓や屋根をたたいていく。時折雷鳴も聞こえてくる。
「……」
そんな外の様子を絹水はベッドの中で聴いていた。
雷はキースがいれば怖くない。確かに突然鳴ると対処できないこともまだあるけれど、今はそれほどひどい音が鳴っているわけではなかった。それに今はひとりじゃない。すぐ隣には温もりがある。
「……キース」
寝言のように小さな声で呼んでみる。
その声に応えるように、絹水を抱きしめていた腕が少し緩む。
彼は起きていたのか、すぐに反応して返事をする。
「……ンだよ、絹水」
「ふふ、呼んでみただけよ」
そう言うとキースは呆れたようにため息を一つ吐いてから言った。
「ガキかよ……」
「キースの声が聴きたいんだもの」
「オレの声なんざ毎日聞いてるだろうが……まあ良いけどよ」
そう言ってキースはいつものようにたばこに火をつけたようだった。煙と一緒に言葉が吐き出される。
「なあ、絹水」
「なぁに?」
「オレのこと好きか?」
突然の質問だったが、特に驚くこともなく答える。
「えぇ、もちろん。大好きよ」
「どのくらい好きなんだ?」
「うーん……そうねえ、これくらいかしら」
そう言って腕を精一杯伸ばしてキースの背中に手を回す。そして彼の髪に指を絡めた。
「このくらい好きよ」
「……そうかい」
そう言ったきり、キースは黙ってしまった。
珍しく自分のことが好きか、だなんて聞いてくるキースがおかしくて絹水はぎゅうっと抱きついた。それからしばらくして、今度は絹水の方から口を開いた。
今、どうしても聞きたいことがあったのだ。
「キースはどう?わたしのこと、好き?」
「……」
返事の代わりに返ってきたのは沈黙だった。もしかして聞こえなかったのだろうかと思ってもう一度聞いてみる。
「ねぇ、キース。わたしのこと好き?」
「……さぁな」
帰ってきた言葉は素っ気ないものだった。だが、その声色からは怒りや拒絶といった感情は感じられない。普段から好きとは口には出さないけれど、ふとした瞬間に向けられる言葉や態度が優しいことがたまにある。
絹水はそれで十分だった。
キースは世界と恋を教えてくれた人で、今の生活が成り立っているのは彼のおかげなのだから。だからそれ以上を望むなんて贅沢だ。これ以上を望んだらきっと罰が当たるに違いない。
それでもやっぱり少しだけ欲張りになってしまう自分がいるのも事実だけれど。
「わたしはあなたのこと愛してるわ」
「……そうかい」
「ええ、そうよ」
そう言って再び彼に抱きつく。すると彼もまた抱きしめ返してくれるのだった。
二人の会話はいつもこんな風に終わる。
たばこを吸い終わったキースが起き上がって、ベッドを降りていく。きっとお湯を沸かしにいったのだ。
絹水は手をぐっと伸ばしてラジオの電源を入れた。すると途端に流れてくるのはお気に入りの読み聞かせチャンネル。耳に馴染んだ音楽が流れ出す。
「今日はお天気が悪いので、雨にちなんだ絵本を読みましょう」
スピーカーから聞こえてきた声に耳を澄ます。もう何度も聴いたことのあるお話なのに、不思議と毎回ワクワクしてしまう。それはおそらく物語そのものの魅力だけではなく、この声が心地いいからだろう。
優しい声で紡がれる物語はどれも素敵なものばかりで、いつも幸せな気持ちで一日を始められる
今日もまたそんな気持ちになって目を閉じる。しばらくするとコーヒーの香りが漂ってきた。もうすぐ彼が戻ってくるのだろう。
「ほらよ」
「ありがとう、甘くしてくれた?」
「砂糖は入れたぜ」
マグカップに注いだコーヒーを手渡してくれる。受け取るときに指先が触れ合うと、それだけで心が満たされていった。
絹水はキースと並んでベッドに座って、両手でカップを包むようにして持った。ふうっと息を吹きかけて一口飲む。口の中に苦みが広がり、それがまた美味しいと思うのだ。
「おいしい」
「そいつは良かったな」
そう言って彼は笑ったようだった。見えないけれど、確かに笑っている気配がする。
キース・ハワードという男はぶっきらぼうだが、根は不器用でちょっと優しい男なのだということを絹水はよく知っていた。その証拠にこうして朝には温かい飲み物を用意してくれるし、目が見えない自分と毎日一緒にいてくれているのだから。
追い出さずにいてくれることが何よりも絹水は嬉しかった。こんな自分にもできることがあるのだから、精一杯生きていきたいと思っている。
そんなことを考えていると突然ほおに何かが触れてびっくりする。温かくて少しかさついた指先だ。
どうやらキースがほおを撫でているようだった。ゆっくりと輪郭をなぞるように触れられてくすぐったい気持ちになる。
「なあ、テメェにとってオレはなんだ?」
唐突にそんなことを聞かれた。どうしてそんな質問をされるのか分からなかったが、素直に答えることにする。
「キースはわたしに世界を教えてくれた人よ」
「それだけか?」
「……そうね、あとはわたしの初恋の人」
そう言うと急に抱き寄せられてしまった。そのまま押し倒されるようにしてベッドに倒れ込む。びっくりして手に持っていたカップを落としそうになるが、なんとか持ちこたえることに成功した。しかし中身はだいぶこぼれてしまっていたようでシーツが冷たくなっているのを感じた。あとで拭かなければと考えていると、首筋に唇が触れたのが分かった。そして次の瞬間鋭い痛みが走る。
「いっ……!?」
突然のことに驚きの声を上げるが、すぐに口を塞がれてしまう。そして耳元で囁かれた声はいつもより低く、どこか熱っぽいような気がした。
「いいか?一度しか言わねえからな」
「え、えぇ……」
一体どうしたというのだろうか。いつになく真剣な口調に思わず身構える。そしてキースはゆっくりと口を開いた。
「好きだ」
「……えっ?」
一瞬何を言われたのか理解できなかった。それくらい予想外の言葉だったからだ。驚いて固まっていると、もう一度同じ言葉が繰り返される。
「……好きだ、一度しか言わねェっつったろ、クソガキ」
聞き間違いではないようだ。まさか彼からそんな言葉が出てくるなんて思いもしなかった。嬉しくて顔が熱くなるのが分かる。きっと今自分は真っ赤になっているだろう。
恥ずかしくて顔を隠そうとするけれど、その前に手を取られてしまって叶わない。キースのかさついた手はマグカップで温められて、絹水の手に添えられている。そしてさらに追撃されてしまう。
「テメェはどうなんだ?オレのことどう思ってんだよ、 教えてくれ」
まるで尋問のようだと思った。けれど決して嫌な感じはしない。むしろ逆だ。こんなに真っ直ぐに想いをぶつけられたのは初めてのことだった。だからきちんと応えたいと思うのだ。たとえそれがどんな結果になろうとも後悔だけはしたくないから。
「……好きよ、わたしもキースを愛してるわ」
その言葉を聞いた途端、強く抱きしめられる。苦しいくらいに強い力だったが、不思議と嫌ではなかった。それになんだかとても安心できたから不思議だ。しばらくそうして抱き合っていたが、やがてキースは身体を離した。
それから絹水の唇に優しく口づけを落としたのだった。
その後、朝食を済ませた後二人はソファに並んで座っている。間に流れる空気はいつもと変わらない穏やかで静かなものだ。
「ねぇ、キース」
「ン?」
「朝のあれは何だったの?ちょっとびっくりしちゃったわ」
そう言いながらくすくすと笑う。キースは何も言わずに黙ってしまった。もしかしたら聞いてはいけないことだったのだろうか。
「言われっぱなしは気に食わねェからな、たまにはやってみただけだ」
そう言ったキースの声はいつもより少しだけ高くてときめいてしまったのもまた事実。ずるい人だと思うけれど嫌いにはなれないのだから仕方がない。結局のところ惚れた方が負けなのだ。それならせめて少しでも長くこの人と一緒にいられたら良いと思うのだ。
最初で最後の恋がキースならそれでいい、と。