それは陽だまりにも似た


夏の強い日差しがジリジリと照り付けて、ただでさえ暑いアパートの一室の気温を上げていく。何年も前につけた安いエアコンをつけていても生ぬるい風を吐き出すだけで部屋は冷えて来ない。代わりに隣にいる絹水はキースのそばにくっついてきて、その体温とともに猫のようにほおずりをしてくる。
まるで良く懐いたペットのようだとも思いながらキースはたばこを箱から取り出して咥えた。テーブルの上に置いていたライターを取ろうとしてないことに気づいて、絹水の方を見ると彼女の小さな手の上に探していたものがあった。
「何いじってやがる、このクソガキ」
「……え?」
「ライターなんかいじって火事にするつもりか」
手のひらからライターを取り上げると彼女はそれを追いかけるように目線を上げるが、絹水にはライターもキースの顔も見えていない。そのことを時々忘れそうになる、彼女はその目に何かを移すことなどないのだと。
盲目の少女と暮らし始めて時間がかなり経っているが、彼女との生活は退屈せずにキースの生活に潤いと刺激をもたらしてくれた。確かにイライラすることも口論になることもあるけれど、二人は絆を育んできている。
初めは慣れないペットを飼い始めた感覚だったが、体調を崩したキースを看病してくれたり、長いこと飢えていた人との触れ合いは心に潤いをもたらしてくれた。
何をするかわからない彼女は常に目を光らせておく必要があるが、その代わりにキースは長いこと飢えていた愛情に触れることが出来ている。
たばこに火をつけたキースが煙を吐き出すとその匂いを感じたのか絹水が顔を上げた。
「この匂い好きだわ」
「たばこの匂いが好きとは変わり者だな、テメェはよ」
「……えぇ、キースの匂いだもの。好きよ」
絹水は視覚でキースを認識することはできない。だから匂いや触感で認識することが重要になってくる。特に良く吸っているたばこの匂いは彼女にとってキースを認識する上で大切になってくるのものだった。
たばこを灰皿に置くと、キースは絹水に手を伸ばした。彼の指先が絹水の髪に触れて優しく頭を撫でると気持ちよさそうに目を細めた彼女が手のひらに頬を擦り寄せてくる。
「ったく、本当に猫みたいだな」
「ふふ、その猫ちゃんを飼ってるのはあなただわ」
そう言ってやると彼女はまた嬉しそうに笑うのだった。そして、お返しと言わんばかりに彼女はキースの唇に軽いキスをしてくる。小さな舌が唇と唇を舐めとるように這わせられるとくすぐったくて小さく笑い声が漏れた。
そうすると絹水は可愛らしい声で笑った後でもっとして欲しいとばかりに両のほおを手で挟む。彼女の期待には答えてやらないと、と思いながらキースはまた彼女の頭を撫でてやるとそれに答えるように舌をちろりと出しながら舐めたくる。
舌先でちろちろとくすぐってやれば、反応するように身体を揺らしながらもじゃれつく猫のように楽しんでいるようだった。
「わたしもたばこ吸ってみたいわ」
「……変わったやつだな」
「とっても気になるの、キースの匂いなんだもの」
たばこを持っている方の腕を引っ張りたばこを欲しがっている。純粋そうな目を向けられて、たまにこの少女のことがわからなくなるときがある。キスはしたが、それ以上のことはしていない彼女には少し刺激が強すぎたのかもしれない。
「吸いさしでいいならやるよ」
「えっ……」
そう言って、たばこを咥えさせると絹水は驚いた様子で固まる。先ほどまでの勢いはどこに行ってしまったのか、どこか遠慮がちにしている彼女を不審に思いながらも見守っていると意を決したように煙を吸い込んだ。
「んっ……ッ!」
火で苦いのか、それとも美味しくないのか苦しそうに眉間にシワを寄せながらも懸命に吸い込もうとしていた。だが途中で断念したのか口を離してしまい咳き込むとそのまま後ろに倒れてしまう。
「だからやめとけっつったろ、クソガキが」
「だって、キースの匂いがしたんだもの」
咳き込みながらもそういって起き上がると申し訳なさそうに上目遣いで見つめてくる。彼女のそんなところを見ると笑って許してやりたくなるから不思議だった。
「これに懲りたらたばこ吸いたいなんて言うんじゃねェぞ」
「えぇ、キースの匂いがしたのに、残念」
「たばこは早すぎるっつってんだ」
残念がる彼女の頭を撫でてやると、彼女はその心地良さに目を細めて笑う。そして、じっとこちらを見上げて無邪気に笑って見せるのだ。
キースが彼女を気に入ってしまっているのは、こういったふとした瞬間に見せる幼げな少女の部分だった。
「あ、でも……やっぱり味も気になるの」
そう言って、もう一度たばこを強請るように手を出してくる彼女を見ると自然と口元が緩んでしまう自分がいた。
灰皿にあるもう短くなったたばこに手を伸ばしながら立ち上がり彼女の口にくわえさせ火をつけてやる為にライターを探す。
「起きろ、寝たばこは危ねェから」
「ん、ぅ……」
脇の下に手を入れて起こしてやると絹水は柔らかな唇で優しく挟まれた煙を吐き出す。弱々しく窓に向かって吐いた煙は、ゆらゆらと揺らめきながら、空へと上っていく。そして室内の空気に攪拌されて白いもやになって消えていった。
「不味いわ……」
何度かふかしているうちに慣れたのか自分の思い通りに吸えるようになったようで彼女は愚痴を漏らすとたばこを指で挟んで口から離した。
恨めしそうにキースを見て少しばかり睨むが顔がまだ苦しそうな様子がうかがえたので彼女の口をゆっくりとふさぐようにキスをする。煙草の匂いが移った唇を少し舐めてやると、彼女の目が驚きに見開かれる。
「……!」
「不味いだろ、たばこってやつは」
「美味しくないわ。……キースはよくこんなの吸ってるわね」
「たまにな」
そう言って、煙を吐き出すと部屋の中がまた白く濁る。健康に悪いと言われているそれだが、キースにとっては香ばしいにおいだった。紫煙が室内に充満すると、夏の嫌な熱気と混じり合って、何となく心地いい気分になれた。
「ふふ、やっぱりこの匂いキースのだわ」
「あ?……オレのか?」
「そうよ、強い感じがするもの。近くで匂いを嗅ぐとさらに落ち着くの」
嬉しそうに顔を綻ばせる彼女を見ているのはなかなかいい気分だった。普段は大人びた印象すらある彼女が幼い表情を浮かべているのが愛おしいと思ってしまっている自分に気づく。
(恋なんて馬鹿げた感情を抱くのはおかしい)
そんな考えが浮かんだが、絹水を見ているとどうにも抑えきれなくなりそうだ。
ラジオを掛けてお気に入りのチャンネルが始まったら絹水は大人しくそちらに聞き入っている。
その間にキースはたばこを吸うためにベランダに出た。
絹水がここで生活するようになってから、どうも調子が狂う。普段は一人でいる時と変わらず好きな時に寝て好きな時に起きる生活を送っているのに、彼女と暮らしてからは自分のリズムが崩れている気がするのだ。
(オレの行く先々にひょこひょこと付いてきてたのも最初はうざったく感じていたはずだ)
それがいつの間にか消える事なくしつこく着いてきていたのはキース自身が認めたからだ。
彼女の行動力はなぜか見ていて飽きなかったし自分でも思うほど甘やかしてしまった節もあるかもしれないが。
ベランダに置いてある椅子に腰かけて、ゆっくりと紫煙を吐き出す。そうして気持ちを落ち着けていると絹水がやって来た。
「ンだよ、まだラジオ終わってねぇだろ」
「今日は時短放送だったの、すぐ終わっちゃったわ」
「そうかよ」
彼女は他のラジオにはさして興味がないのか、キースの隣に座るとまた顔を覗き込んでくる。その仕草は子犬のようで可愛らしい。だが、その澄んだ淡い色の瞳で覗き込まれると心の奥まで見透かされてしまいそうで落ち着かなくなるのだ。
「何か飲むか?」
「コーラが飲みたいわ」
中に連れて戻ってからソファに座らせる。そうすればいつものようにお気に入りのクッションを抱きしめてキースが戻ってくるのを待っているのだ。
冷蔵庫から冷えたコーラを取り出しガラスコップに注ぐと、ソファに座った絹水が受け取ろうとして差し出してきた。それでも渡さずに自分の口元に持っていくとそのまま一口飲んでまた彼女に返してやった。
「キース、ちょうだい?」
そして上目遣いで甘えられると無碍には出来なくて仕方なく彼女の口に運び直してやる。飲みかけの缶に口を付けてこくりと飲む様を見せ付けられれば胸が騒いだ。
自分の中にあるはずのない感情が目覚めているような気がするのだ。その感情を払拭するように無理やり味わいながら嚥下して他愛もない話をしているうちに気付くと時間が経っていた。
「ふわぁ……」
「眠ィのかよ」
「……ん、少しだけ……」
あくびをする彼女を見ていると眠たい時の自分と重なり、自然と笑みがこぼれてしまう。
キースは彼女を抱きかかえると寝室へと運び、ベッドに横たえて自分もその隣へ潜り込んだ。
「あら……今日は傍にいてくれるのね」
「あぁ?何か文句でもあるのか?」
ぎゅっと腕に抱きついてくる絹水が微笑むと、大きな窓から差し込む穏やかな陽光だけが二人を照らす静かな夜が訪れる。
不意に開け放たれた窓から入り込んでくる風の音が遠くで聞こえるくらいに部屋の中は静まり返っている。
「もう寝ろ、オレは逃げねェよ」
そう言って抱き寄せてやると絹水は嬉しそうな顔をする。彼女の髪は柔らかくてくすぐったい。少し手を伸ばして、その髪を弄んでみると彼女は心地よさそうに目を細めた。
眠りにつく少し前、腕の中で目をつむる絹水が思い出したように口を開く。こんな時間ができたのももしかしたら運命だったのかなんて思う度に馬鹿らしい気分になるけれども甘美な幻想に身を任せるのも悪くはないと思えたりもするのだ。
「キースとお昼寝なんてぜいたくね」
「なんだ、まだ眠くねぇのか?」
「えぇ……だってこんなにも近くにキースがいるのに寝ちゃうなんてもったいないわ」
そう呟くとゆっくりと目を開けた絹水がじっと見つめてくる。それから甘えるようにすり寄ってきたかと思うといつの間にか腕の中から脱出し、背中に腕が回された。
すり、と胸元にひたいを擦り付けられそのこそばゆさに身をよじると彼女は少し不満そうに唇を尖らせた。
「ふふ、くすぐったかったかしら?」
「あぁ……まぁな」
いたずらっぽく微笑む彼女の長い髪をそっと撫でてやると絹水は気持ち良さそうな声を漏らした。もっとして欲しいのか頭を軽く押し付けてくるので、それに応えてやると安心したように身を寄せてくるのだ。
「ね、キース」
「ン?」
呼びかけに目線を向けると背中に回されていた手が顔のほうに伸びてきて、ほおに優しく触れられた。
「わたし、キースとこうしているとすごく幸せな気持ちになれるの」
「……そうかよ」
キースは照れたように視線を逸らすとそれを察した絹水がくすくすと笑った。それから、ゆっくりと身体を離すと再びキースの腕の中に入り込んでくる。
今度は正面から抱きついてきたので、背中に腕を回すと絹水は安心したように力を抜いた。
「おやすみ、キース」
そう言って、目を閉じる彼女につられるようにして自分もまぶたを下ろしていく。だんだんと意識が薄れていってしばらくすると規則正しい寝息が聞こえてきたので彼女も眠りについたのだろう。彼女の身体を少しだけ強く抱き寄せた後に、自分も眠りに落ちていった。
目が覚めると腕の中にはまだ彼女がいた。時計を見ればまだ明け方、起きるには早すぎる時間だった。
もう一度眠る気にはならなかったので彼女を起こさないようにそっと抜け出してシャワーを浴びにいくことにしたのだ。
シャワーから戻っても、絹水が目を覚ましていることはなかった。一度眠ったらなかなか起きないことはよく知っていたが、それほど信頼を寄せられていることにようやく思い至った。
「無防備すぎるだろ、お前」
そう呟いた後、絹水の隣に寝そべると彼女が寝返りを打って抱きついてきた。柔らかい身体が触れ合って思わず胸が高鳴る。
「キース、シャワー浴びてきたのね。シャンプーの匂いがするわ」
寝ぼけているのか、とろんとした目をしてそう言うと彼女はまた眠りにつく。無防備すぎる姿を見ていると、自分の中に芽生えた気持ちを抑えきれなくなってしまいそうで怖い。そう思いつつも絹水の寝顔を見るのは悪くないとも感じている自分がいることに気づいたキースは頭をぐしゃぐしゃにかき回して息をついた。
「……人の気持ちも知らねェで、そんなことよく言えたもんだなクソガキが……」
そう言いながら、眠っている彼女の頬を撫でてやると彼女はくすぐったそうに身を捩った。それからしばらくするとまた規則正しい寝息が聞こえてくる。そんな彼女を見ているうちにキースは深い眠りに落ちていったのだった。