海を寝物語に


 母国で草気も眠る丑三つ時と言われる時間帯。アメリカに来てそれなりに時間は経つが、その時間帯に起きることは絹水にとって珍しくなかった。
 絹水を抱き枕のようにしている同居人は穏やかな寝息を立てていて、起こすのもしのびない。彼はずっと体調不良だった絹水のそばにいてくれたのだから。
 そっと手を伸ばして無精髭が生えたあごに触れる。ちくちくした感覚も肌触りもすっかり慣れ親しんだものだ。少し汗ばんだ感覚さえも愛おしく感じる。少し指をすべらせると硬い髪に触れる。うなじほどまで伸びた硬い髪も無精髭もキースがいてくれるという状況を伝えてくれて、絹水は安心する。
 生まれつき目が見えないのは誰も悪いわけではない。ただ目が見えないというだけで排除され邪険に扱われ、両親からは臭い物に蓋をするように扱われる。絹水が生まれた後に養子になった義理の弟はたいそう大事にされて、どこへ出歩くにも許されていると聞いている。絹水はずっと孤独だった。家族はいても心を許せる友達ができず、出歩くことも許されていなかった。おそらく単に邪魔なのだろう。
「……あなただけよ、キース。わたしを見つけてくれたのは」
 キースと出会ったのは賞金マッチでのこと。彼の名声が地に落ちた出来事の際に二人は出会った。そのまま家に転がり込んだ絹水をキースは追い出そうとはしなかった。目が見えないということに驚きはしたが、特段扱いを変えることはなかった。その彼との関係が絹水には心地いい。絹水はキースのほおに触れている手をそっと髪に差し込む。硬くてしっとりと汗ばんだ髪だった。
「……んっ……」
 絹水の手に気付いたのか、キースが起き上がる気配がして絹水は慌てて手を引っ込めた。
「何時だと思ってやがる……絹水……」
「ごめんなさい……目が覚めちゃったの」
 まだ眠そうな声を出すキースに絹水は謝ってから微笑む。するとキースは頭を掻いた後で絹水の額に手を当ててきた。
 その手はひんやりとしていて気持ちよかった。
 絹水が目を細めるとキースはそのままベッドから出て行ってしまう。どうやらシャワーを浴びに行ったようだった。
 それなら自分も起きようかと思ったところで絹水は再び睡魔に襲われる。それに抗えず再び眠りにつくのであった。となりにキースがいることで以前は嫌だった夜の時間もすっかり苦ではなくなってしまった。
 それからしばらくして絹水が再び目覚めるととなりにキースの気配はなかった。だがキッチンの方から音が聞こえてくるので何か作業をしているようだった。お湯が沸く音が聞こえる。
「……キース?」
「ベッドにいろ、危ねェからな」
「え、えぇ」
 キースの言葉に従い、大人しくベッドの上で待つことにする。しばらくするとタオルを首にかけたままのキースが近づいて来る気配がする。彼が手渡してくれたマグカップの中身に絹水は声を上げる。
「ホットミルクね!」
「あぁ、飲め。それ飲んだら寝ろよ」
 差し出されたそれを受け取って口をつける。甘くもなんともない、ただ温めただけのミルク。けれどそれが嬉しかった。絹水にとってホットミルクとはキースが用意してくれたものだった。だからなのか、真夜中に眠れなくなってしまった時はホットミルクを飲むとよく眠れた。
「おいしいわ」
「そうかい」
「ありがとう、キース」
「別に礼なんていらねェよ」
 ぶっきらぼうな物言いだったが絹水は気にしない。この男が優しい人間だということを知っているからだ。
「……ねぇ、キース」
「なんだ」
「ホットミルク飲むとね、落ち着くの。よく眠れるのよ」
 それは本当だった。両親も義弟も絹水のことを腫れ物を触るように扱っていた。けれどキースだけは違ったのだ。目が見えず、出歩けない世間知らずの絹水を受け入れてくれた。それがどれほど救いになったことだろうか。
 キースは少しの間黙っていたがやがてため息を吐いた。
 そして絹水を抱き寄せるとその耳元で囁いた。
 絹水は驚いて思わず身を引いたが、すぐに背中を撫でられて抵抗できなくなる。そんな絹水を抱きしめながらキースは言った。まるで子どもに聞かせるような声で。
「それ飲んだらいい子だから寝るぞ、クソガキ」
 絹水は素直にうなずくことしかできなかった。
 キースの腕の中で安心しきったように眠ることが出来るのはすっかり気を許しているから。変なことを言うことも無体を働いて来ることもない。キースのとなりは絹水にとっては唯一の居場所だと言ってもいいだろう。
(……あぁ、わたし、こんなにもキースに依存しているんだわ)
 絹水は自覚する。自分がいかにキースに依存してしまっているかを。キースがいなければ自分は生きていけないかもしれない、とさえ思う。それほどまでに彼は絹水にとって大きな存在になっていた。絹水はキースにそっとすり寄る。彼の温もりを少しでも感じたかった。するとキースもまた、絹水のさせたいようにしてくれる。それだけで絹水は幸せな気分になるのだった。
「ちゃんと眠れそうだわ……」
「そうかよ」
 絹水はキースの胸板にほおを寄せて目を閉じた。その日、絹水が悪夢を見ることはなかった。
 朝、目を覚ます。手探りでラジオをつけて今日のデュエル中継の予定を聴く。今日はどこのチャンネルも中継しないようだった。楽しみがないことにはちょっとがっかりしたけれど、仕方ない。
 着替えを済ませてからリビングに出る。そこには既にキースの姿があった。いつものようにタバコをふかしている。
「おはよう、キース」
「おう」
 短く返事をするキースは相変わらず不愛想で、表情の変化もほとんど見られない。でも絹水にはわかる。彼の機嫌が悪いわけではない。ただ無愛想なのだ。彼の態度を特に気にすることなく、絹水はキッチンに向かう。
「いい匂い。コーヒーね」
「砂糖は入れんのか」
「うん、入れるわ。ブラックは飲めないもの」
「……おう」
 コーヒーメーカーをセットしながら答えるキース。彼の手際は良くて、絹水よりもずっと早く準備を終わらせる。
 コーヒーが落ちるのを待つ間、絹水はいつものようにラジオをつけた。朝を知らせるトーク番組が軽快に流れ始める。それをぼんやりと聞き流していた絹水だが、不意にその番組がCMに入ったことで我に返った。
「あっ……」
「どうした?」
「コーヒー、落ち切ったみたい」
「なら注いでこいよ」
「えぇ」
 キースの言葉に従って絹水は立ち上がる。そして手探りでカップを探す。キースが使っているカップはどれか、それを当てることはもう慣れた。カップを手に取ってコーヒーメーカーの方へ向かおうとした時だった。つんっと床に置かれていた瓶に足を取られてつまずいてしまったのだ。
「オイッ」
「えっ、きゃっ」
 キースに手を掴まれる。そしてそのまま引き寄せられると、絹水は彼の腕の中にすっぽりと収まってしまった。絹水を離すとキースはコーヒーを注いで彼女に渡した。カップを受け取ると絹水は彼に礼を言う。するとキースがため息まじりに口を開いた。
「海、いくか」
 それは本当に唐突で、何の前触れもなく告げられた言葉だった。
 だから絹水は一瞬何を言われたのかわからなかった。
 けれどキースがもう一度同じことを言ってきたのを聞いてようやく理解する。
「海?」
「たまには外に出ないとストレスになんだろ、テメェはよ」
 首を傾げるとキースがうなずいた気配がする。
 それからキースは絹水の手を引いて歩き出す。行き先は恐らく玄関の方だろう。絹水は慌てて彼について行く。
 キースは靴箱を開けると何かを取り出したようだった。
「靴履け、出掛けるぞ」
「え、いま行くの?」
「いつ出かけんだよ、バカ」
 彼が手に持っているのは黒いスニーカーだ。絹水が以前買った安物のそれ。スニーカーを履いて外に出ると白杖を渡される。いつも使っている折りたたみ式のそれはしっくりと手に馴染んだ。
 キースに手を引かれて歩く。彼の足取りはしっかりしていて、絹水は少しだけほっとした。白杖でアパートを出るとタクシーを拾って駅まで向かう。電車に乗って数駅移動する頃には絹水はすっかり緊張してしまって、黙りこくっていた。キースはそんな絹水の様子を気にすること無く、車窓の風景を眺めている。そんな彼の横顔をちらりと見上げると絹水は口を開く。
「ねぇ、キース」
「あンだよ」
「……わたし、水着持ってないわ」
「泳ぎに行くわけじゃねェよ」
 キースが呆れたように言う。絹水はその声にムッとする。だって海に遊びに行こうと言うのだから、泳ぐのではないだろうか?
 けれどキースはそれ以上何も言わずに再び口を閉ざしてしまった。仕方なく絹水も沈黙するしかなかった。
「でも、海行くの初めてだわ」
「海も行ったことねぇのかよ」
「えぇ。……波の音はよくラジオで流れてるけど、実際に行ったことはないの」
「……そうかい」
 キースは絹水に返事をしなかった。
 やがて目的地にたどり着く。降りた先は潮の香りの漂う砂浜だった。キースに手を引かれて、ほおを撫でていく海風に微笑む。初めて嗅ぐ潮の匂いが新鮮で、それをキースとこられたということがたまらなく嬉しかった。
「風が少しつめたいわ」
「今日は天気が悪ィからな」
「キースは寒くない?」
「寒くねェよ」
 そっけない返事に絹水はくすりと笑う。彼は素直じゃないけれど優しい人だと知っている。きっと自分のために連れてきてくれたのだ。それがわかっているからこそ、絹水は彼にありがとうと告げたかった。
「キース、あのね」
「今度は何だよ」
 絹水の呼びかけにキースが振り向く。その声音は不機嫌そうだけれど、気にしないことにする。絹水は笑みを浮かべて言った。
「連れてきてくれて、ありがとう」
「……おう」
 ぶっきらぼうなその言葉に絹水は満足げにうなずく。そして彼の手を引くと浜辺に向かって歩いていった。
 絹水はキースに手を引かれながら浜辺を歩いた。砂を踏む感触が心地よくて、サンダルを脱いで裸足で歩く。するとキースが手を差し出してきたので、絹水は彼の手を取ることにした。ぎゅっと握る手に力を込めると、握り返される。
「キースの手、大きくて好きだわ」
「テメェがちいせぇだけだろ」
「キースが大きいのよ」
 言い合いをしながら二人で歩く。海に来るのもはじめて、キースとこうして遠出をするのもはじめてだった。そもそも海に行ったことがないと言っていた絹水に付き合って、キースも一緒に来てくれている。
 ふとキースが足を止めた気配を感じて顔を上げると、視線がぶつかる。キースは絹水をじっと見つめていたが、絹水は気づかなかった。
 生まれて初めての海は心地よく波音が繰り返し聞こえてくるだけでとても静かだ。絹水とキースの間に会話はない。けれど繋いだ手が暖かくて絹水の心はとても満たされていた。
 どれくらいの間そうしていたのだろう。不意にキースがぽつりとつぶやいた。
「海なんか久しぶりに来たぜ」
 それは独り言のような小さな声で、絹水は思わず聞き逃してしまうところだった。慌てて振り返ると、キースは絹水を見ていなかった。絹水は少しだけ寂しく思いながらも、彼が見ている方に目を向ける。そこには大きな夕日があった。真っ赤に染まった太陽はゆっくりと水平線の向こうに沈んでいく。
「気持ちいい風ね」
「あぁ」
 絹水が言うとキースは短く答えた。絹水はキースの横顔を見つめる。彼の声からは感情を読み取ることができなかった。
「……わたし、海に来たことがなかったの。ママが許してくれなかったから」
「知ってる」
「……ねぇ、キース。どうして海に行こうと思ったの?」
 絹水が尋ねると、キースはしばらく黙ったままだった。それからぼそりと呟く。
「別に理由なんざねェよ」
 絹水はその言葉を聞かなかったふりをした。そうしないと泣いてしまいそうな気がしたからだ。
 キースはきっと何かを言いたかったのだと思う。けれど絹水はそれを聞くことが出来なかった。それはきっと絹水がまだ子どもだからなのだと彼女は思った。いつか大人になれば彼も話してくれるだろうか?
 その時は自分にも彼の話を聞かせてくれるだろうか? そんなことを考えながら絹水は沈む太陽の方へと目を向け続けた。
 やがて太陽は海に沈み、空には星々が輝き始めている。二人は手を繋いで砂浜を歩き、波打ち際までやってきた。足元で寄せては返す波は穏やかだ。絹水はしゃがみこんで足先に触れる波の感触を楽しむ。キースは何も言わなかった。
「キース……?」
「帰るか?」
「うん、帰りたいわ」
 絹水は立ち上がるとキースに手を伸ばす。彼はその手を掴むことなく一人で立ち上がった。そして絹水の手を掴むと、喉の奥で笑った。
「また来りゃあいいじゃねぇか」
「……えぇ、そうね」
 キースの言葉に絹水は微笑む。彼はきっと絹水と一緒に来たいと思ってくれたのだ。だから誘ってくれたのだとわかる。それがたまらなく嬉しかった。
「帰りに食う物は買うぞ、何もねェ」
「じゃあ明日は買い物かしら」
「そうだな」
「ふふ、キースと出掛けられるならどこへでも行くわ」
 絹水はキースに手を引かれながら浜辺を歩いていく。その途中、彼は一度だけ立ち止まると絹水を見た。
「どうしたの?」
「何でもねェよ」
「そう……?」
 キースはそれ以上何も言わずに絹水の手を離すと、口づけを一つしてからさっさと前を歩いて行ってしまう。絹水は首を傾げながら彼の後を白杖で追った。
 絹水とキースが帰宅したのはすっかり夜になってからだった。玄関を開けるとひんやりとした空気が包み込んだ。やはりまだ夜は冷える。絹水はぶるりと身を震わせると家の中に入っていった。けれど、キースと暮らすこの空間が絹水の落ち着ける場所だった。
 心の安らぎをくれる人がいる場所。
「寝る前にシャワーくらいは浴びろよ。髪がバリバリになるぞ」
「え、う、うん。わかったわ」
 絹水はキースに言われるまま浴室に向かう。そこで服を脱ぎ捨ててバスルームに入ると、蛇口をひねる。温かいお湯が頭上から降り注ぐ。絹水は髪を洗い始めた。
「キース……」
 絹水は自分の唇に触れてみる。ここにキスされた時の感触を思い出して胸が高鳴った。
 あの時、どうしてキースは自分に口づけてくれたのだろう。あれはどういう意味があったのかしら……。
 絹水は彼の行動の意味がわからなかった。けれど、嫌ではなかった。むしろ嬉しいと思っている自分がいる。それは何故なのか。考えてみても答えは出ない。
「キースってばずるいわ……」
 あんなことをしておいて何事もなかったかのように振る舞うなんて。
 絹水は顔を赤くしながら泡を流していく。そしてシャンプーを洗い流そうとしたところで手が滑った。派手に音を立てて転び、尻餅をつく。落ちるシャワーヘッドが熱い湯を吹き上げている。
「きゃあっ!」
「おい! 大丈夫か!?」
 絹水が悲鳴を上げると同時にキースの声が聞こえてくる。絹水は慌てて返事をした。
「ごめんなさい、ちょっと転んじゃっただけよ。もうすぐ出るから待ってて」
 絹水はタオルで身体を拭くと急いで着替えた。それから脱衣所を出るとキースの気配がある。絹水は彼に抱きついた。
 彼の体温を感じながら絹水は思う。
 いつかちゃんと言葉にして伝えたい。わたしはあなたのことが好きなんだと。そしてあなたとこれから先も一緒にいたいと。
 絹水はキースの胸に顔を埋めたまま、そう思った。
 潮の匂いがするキースはなんだか不思議な感じがした。それはきっと海に行ったせいかもしれない。
「好きよ、キース」
「早く髪乾かさねェと風邪引くぞ」
「わかったわ」
 絹水はキースから離れようとするが、彼がそれを許さなかった。彼は絹水を抱き寄せると、絹水の額に自分のそれを押し当てた。
「熱はねェな」
「えぇ、平気よ」
「ならいい」
 キースは絹水を抱きしめると、そのままベッドまで連れて行った。そして彼女をそこに座らせると、髪を乾かしていった。
 キースがそこまでしてくれるとは珍しい。いつもなら勝手にやっていろと言わんばかりにタバコを吸っているのに。
 今日に限って優しいキースの行動に疑問を覚えながらも絹水は大人しくされるがままにしていた。
 やがて髪の毛が綺麗になると彼はドライヤーを止める。それから絹水の隣に座って彼女の肩を抱いた。
 絹水は黙ったまま彼に身を預ける。すると彼は絹水の頬に触れた。
「ねぇ、キース。また海に連れていってね」
「気が向いたらな」
「ふふ、約束よ」
 絹水は微笑むと手を伸ばしてキースに口づけた。それは軽いものだったが、それでも二人は満足だった。
 絹水はキースの腕の中で眠りについた。その寝息を聞きながらキースはそっと目を閉じる。
 今はまだその時ではない。もう少し時間を置いてから絹水は伝えたいことを言うつもりだ。