ベイビーブルーに雨を添えて


 愛されることはキースにとっては難しいことの一つだった。全米チャンプであった頃のちやほやされた感覚は心地よかったものの、本当に愛されている感覚は薄かった。愛情らしい愛情を受け取る人生を送って来なかったことも起因しているかもしれないが、キース・ハワードという人間はそうしてかたちづくられたのだから仕方がない。そうしている生活を長く続けてきたのだから、人間不信になっていてもキースはずっと一人で生きてきた。そうするしかなかったから。
 しかし、ペガサスとの賞金マッチの後自分を追いかけてきた絹水は違った。異名を聞いて目を輝かせるわけでなく、デュエルを申し込むわけでもなかった。まして、敗者となったキースを嘲笑うこともせずにただキースに会いにきたのだと笑った不思議な女だ。
「頭おかしいんじゃねぇか、テメェ」
 そう言って冷たくあしらったキースに彼女はくっついてきて、勢いのまま一夜を共にした。なぜか、彼女のそばはその時から心地よかったから。そのあと、目が見えないという彼女はキースと生活を共にするようになった。一緒に生活する中で絹水は彼を振り回しながら、広がった世界に目を輝かせていたのを覚えている。そして、それは今も続いている。
 キースはまだ絹水に向けている感情に名前をつけることができずにいる。この気持ちが何なのかはよくわからないけれど、不本意ながら彼女と一緒にいる時間が楽しくてたまらないのだ。
 だからこそ、彼女が自分以外の男のものになるなんて嫌だった。そんなことは絶対に許せない。
 自分の中に渦巻いていくどす黒い感情から目を逸らすことしか出来なかった。
「キース……?」
 いつの間にか眠っていたのか、絹水が不安げな顔でこちらを見つめてくる。ぼんやりとした色の瞳はいつだって真っ直ぐにこちらを見つめてくる。キースはそれを見て苦笑いを浮かべるとそっと絹水の頭をぐしゃぐしゃと撫でた。
「なんでもねェよ」
「ほんとう?大丈夫?」
「ああ。それより、まだ寝ろ。朝からだるくてへばってんだろ」
「ん……、そうね」
 そう言うと絹水は再び眠りについたようだった。キースは絹水を起こさないように気をつけながら再び布団にもぐりこむと、絹水のことを抱きしめる。すると安心したような表情で再び眠りについていく絹水の姿を見ると、なんだか胸の奥がむず痒くなる気がした。
(なんだろうなァ……。こういうの)
 よくわからないまま、キースは絹水を抱き寄せるとそのまままぶたを閉じることにした。
 今はとにかく、絹水と共に居られる時間を少しでも大切にしたいと思ったから。
 翌朝、いつもより早く起きたキースたちは朝食の準備に取り掛かろうとしていた。軽めに朝は食べてからたまに絹水を連れて散歩にでも行こうかと考えていたところだった。
 やや怪しい雲行きに眉をしかめながらトースターに食パンを並べて焼き始める。それから濃いめにコーヒーを淹れて、絹水の分にはミルクと砂糖を入れた。テーブルの上に出来上がったものを運ぶと、ちょうどいいタイミングでこつこつと白杖をつきながら起きてきた絹水の姿がある。
「おはよう、キース」
「おう、コーヒー冷めんぞ」
「うん……」
 ふわぁ、とあくびをしながら椅子に座る絹水の前に皿を置くと自分も向かい側の席に座った。トーストの位置とジャムの場所を説明してから二人とも黙々と食事を取り始めたのだが、少ししてから絹水はぽつりと呟いた。
「今日はどこに行くの?」
「あー……天気悪そうだしな。お前も昨日から疲れてるみたいだし家でゆっくりしようぜ。雨降り出したらテメェが面倒臭ェだろ」
「うん……わかったわ」
 こくりと小さくうなずくと絹水はまたトーストを食べはじめた。それを見ながらキースは自分の分の食事を済ませるとさっさと洗い物を片付けることにする。そして手際良く食器を洗っていると後ろから読み聞かせのラジオ番組が流れ始めた。絹水のお気に入りの番組は今日も変わらずに絵本の読み聞かせを流している。その番組を聞きながら絹水は静かに口を開いた。
「ね、キース」
「ンだよ」
「大好きよ」
「……おう」
 子どものおままごとのようにくれる愛の言葉にはすっかり慣れた。ふとした時に贈り物をもらった気分になる。絹水はそういう人間なのだと思うことにしている。だからといって何かを返せるわけではないのだけれど。
 しかし、その言葉に救われているのもまた事実だった。幾度も孤独と屈辱に押しつぶされそうになったこともあるけれど、彼女の存在に救われている。そしてそれはこれから先も変わらないことだろうと漠然と思った。
 だからだろうか、絹水が自分以外の男のものになることを想像するだけでもやもやするのは。
 ちょうど、ラジオ番組が子ども向けの絵本を読み聞かせ始めている。絹水はじっとその音に耳を傾けていた。キースはそんな彼女をちらりと見ながらため息をつく。
「……この本、聞いたことないわ」
 絹水のことが好きかどうかなんて考えたこともなかった。そもそも他人に興味がなかったのもあるかもしれないが、誰かに対して恋愛感情を抱いたことなど一度たりともなかった。それは絹水に対しても例外ではないはずなのに、なぜか彼女だけは特別だった。
 それは、きっと。
「キース?」
 皿洗いの手を止めていたからか、名前を呼ばれてはっと我に返った。絹水は不思議そうな顔をしてこちらに向けている。柔らかな表情はあどけなく、キースをぼんやりと見ているようで見ていない。見えていないから、間抜けな顔さえ見られなくて済む。
 そんな彼女に視線を向けると、キースは皿洗いを終えてあくびを一つした。
「なんでもねェよ」
 そう言って、キースは絹水の隣に腰掛ける。それから絹水を抱き寄せると、絹水は抵抗せずにキースの腕の中におさまった。こんな小さな身体でいつのまにかキースの心の奥に居座ってしまった女がなぜか愛おしかった。絹水と過ごす時間は悪くはない。むしろ、絹水といる時間はとても心地が良い。この感情が何なのかはわからないままでもいいから、もう少しだけこのままの関係でいたいと思った。
 絹水とキースの関係は、まだ始まったばかりなのだ。名前もつけられないくらいに未熟で中途半端な関係。それでも、いつかは終わるものだとしても。
 今はただこのぬくもりを感じていようとキースは目を閉じた。
「キースあったかいわ」
「テメェが体温低いだけだろ」
「ふふ、そうかも」
 絹水はそう言うと、キースの背中に腕を回してきた。ぎゅっと抱きしめられて、キースは思わず動きを止める。絹水はキースの胸に顔を埋めると、そのまま動かなくなった。
 キースの心臓の音を聞いているのか、それとも何も考えずにぼうっとしているのか。どちらにせよ、絹水はキースの胸の中で安心しきった表情を浮かべながら眠っていた。
(よく寝るな、こいつは)
 どうして、ここまで自分に懐いているのか。
 その理由を考えようとして、すぐにやめた。どうせ答えなど出ないのだ。今更考えても仕方がない。絹水のことは嫌いではないが、好きかと言われればわからない。
 ただ、絹水のことを手放すつもりもない。
 それだけは確かだった。
 絹水を抱き寄せたまま、キースはそっと目を閉じる。すると、ラジオの声だけが聞こえる世界が訪れた。その声に耳を傾けながら、キースは絹水の温かさを感じている。
 絹水が眠っているうちに雨が降り始めたらしく、ざあざあと窓を叩く音が聞こえてきた。それに気づいて起きてしまったらしい絹水が起きた気配を感じる。しかし、絹水はキースから離れることなく再び眠りについたようだ。
「……ったく」
 しょうのない奴だなと思いながらも、雷が鳴らないことを願った。たまには何もない日を過ごすのも悪くない。雨の日に外に出るのは面倒で、今日は絹水を家に置いておくことにした。
 たまには、こういう日があってもいいだろう。
「……クソガキが」
 雨が降って、今日は絹水と一日一緒に居る。
 それならそれでいいと、キースは絹水と一緒に眠ることに決めた。
 絹水とキースの奇妙な共同生活は続く。
 降り始めた雨は止むことはなく、外に出る気にもならない。時折遠くから聞こえる雷鳴にも反応することなく絹水はぐっすり眠っている。キースはそんな絹水の髪を撫でながらラジオを聴いていた。
 しばらくすると、絹水はうっすらとまぶたを持ち上げる。
「……起きたか」
「ん、……キース」
「おう」
「いま何時……?」
「まだ昼間だ。……今日は雨降ってっからどこも出かけらんねェぞ」
 キースの言葉に絹水は再びまぶたを落とすと小さくため息をつく。そして、少しだけ不機嫌そうな声で呟いた。
「出かけられないなんて退屈だわ」
「お前はいつもそうだろ」
「…………」
 絹水は無言のまま、何か言い返そうとしたが言葉が出てこなかったらしい。悔しそうな顔をしてから、再びキースの胸に頭をうずめた。
 そんな絹水を見てキースは呆れたようにため息をつく。これはむくれている時によくする行動だ。しかし、絹水はすぐに顔を上げてキースを見つめると、どこか甘えたような口調で話しかけてくる。
 それは、絹水がよくする癖のようなものだった。
 キースは絹水の目を見ると、絹水はじっとキースの瞳を見る。それはまるで、何かを訴えるかのような眼差しだった。
「ねえキース」
「なんだ」
「あのね、……わたし、雨の日が怖いの」
 そう言うと、絹水はまた黙り込む。キースが何も言わずにいると、そうっとほおに触れて来ていつものように輪郭をたどり始める。絹水の手は冷たい。その手がほおに触れると、ひんやりとした感触が広がる。絹水は目を細めると、そのままキースの肩に頭を乗せる。
 絹水はそうして、しばらくの間何も話さなかった。
 ただ、静かに時間が流れていくだけだった。やがて、ぽつりと絹水が口を開く。
「でも、キースがいるから平気よ」
「そうかよ」
「うん……」
 キースがそう言って絹水を抱き寄せると、絹水は安心した表情を見せた。それから眉をぎゅっと寄せると絹水は続けた。
「でも、雷は怖いわ。外の音がわかりづらくなっちゃうもの」
「……パニックになっちまうくらいにか?」
「えぇ、本当に怖いの」
 そう言うと、絹水は困ったように笑みを浮かべる。
 その表情は今にも泣き出してしまいそうなほどに弱々しいもので、キースは思わず舌打ちをした。すると、絹水は驚いたのかびくりと身体を震わせる。怯えるような絹水の表情を見たキースだが態度を変えることはなかった。もう慣れたことだ。
 こんな顔を見せるな、と思う。しかし、それを口に出すことはできないまま、絹水のほおを軽くつまんだ。
 すると、絹水はきょとんとした様子でキースの顔を見ている。
「キース、いひゃいわ」
「痛くしてんだから痛くなかったらおかしいだろ、バカ」
 絹水の抗議の声を無視してほおを引っ張っていると、絹水は涙目になりながら必死になって抵抗してくる。
 それを見ながらキースは絹水のほおを離すと、今度は優しく触れてみる。すべすべとしたまるいほおをしていた。それをしばらく堪能していると、絹水は恨めしそうな視線でキースのことを見つめてくる。
「好きよ、キース」
 絹水はそう言うと、そっと自分の唇を押し当ててきた。突然のことにキースは一瞬固まってしまうが、すぐに我に返ると絹水のことを引き剥がそうとする。しかし、絹水は離れようとしなかった。しばらくすると、絹水は満足したらしくキースから離れて再び布団の中に潜り込んでしまう。
「このキス魔が……」
「キースの唇、気持ちいいんだもの」
「そういう問題じゃねェんだよ」
 キースがため息をつくと、絹水はふふんと鼻で笑う。そして、楽しげにキースの顔を見つめていた。
 そんな絹水の様子を見てキースは諦めたように首を横に振ると、絹水を抱き上げてベッドに連れていく。以前に二人でソファで寝たら腰を痛めたことを思い出したのだ。絹水をベッドに横たえると、絹水は嬉しそうな声を上げる。
「ねぇ、一緒に寝ましょう?」
「……狭いだろ」
「大丈夫よ。キースは細いからわたしのスペースに入るわ」
「……」
 キースは無言のままためをついて、絹水を抱き寄せる。絹水は少しだけ不満げにしていたが大人しく抱き寄せられると、キースの胸に頭を押し付けた。その仕草を見てキースは絹水を抱き寄せたまま、頭を撫でる。すると、絹水はすぐに機嫌を直したようで、そのままキースの胸に顔を埋めている。
 キースは絹水の髪に顔を埋めると、深く息を吸い込んだ。雨のせいでいつもより空気が悪い気がしたが、それでも絹水からは甘い匂いが漂ってくる。
 その香りを感じているうちに眠気に襲われ始めたキースだったが、なんとか意識を保つと絹水に声をかけた。
「それ以上寝ると夜眠れなくなんぞ」
「平気よ、最近はちゃんと寝てるもの」
「いや、そうじゃねェよ」
 キースが言うと、絹水は不思議そうな表情を浮かべて顔を上げた。どうにもわかっていないらしい。
 キースは絹水の髪を指先でいじりながら、口を開いた。
「お前が夜中に起きると、オレも起きちまうって言ってんだ」
「……どうして?」
「さあな。自分で考えろよ」
 キースはそう言い捨てて、絹水に背を向けるようにして目を閉じた。すると、しばらくしてから背中越しに衣擦れの音を感じる。おそらく絹水が身じろぎをしている音だろう。
「ねえ、キース」
 絹水はそう言って、後ろから抱きしめてくる。
 それはいつものことなのでキースは特に気にすることなく黙っていると、絹水は続けて口を開く。
「冬になったら日本に行きたいわ」
「……日本?」
「えぇ、双子のいとこが来日するみたいなの」
「へぇ……」
 キースはそう言うと、絹水の腕の中で寝返りを打つ。絹水は少し驚いたような表情を浮かべていたが、キースはそのまま絹水に向き合うとぎゅっとその身体を抱き寄せる。絹水の体温は心地よかった。
 双子のいとこのうち、一人は知っている。ペガサスの秘書をしている少年だ。王国で一度見かけたが、ひどく整った顔立ちをしていたことを覚えている。黒髪に紫の瞳をしていて、雰囲気は絹水に似ていた。
「双子っつーことはアレか、ペガサスのところにいるガキか?」
「蘭……双子のお兄ちゃんはたしかそうやって言ってたわ。ペガサスのところにいるって。……でも、桐は……双子の妹の方は何してるのか言ってなかったわね、日本にはいないみたいだけど」
「ふぅん……」
 キースは興味なさげに相槌を打った。
 しかし、絹水の方は何か思うことがあったらしく、ぽつりと呟く。
「ねぇ、キース。……あの二人、わたしたちのこと覚えてるかしら?」
「……さぁな」
「覚えてるといいわね、また会えたら嬉しいもの」
 絹水の言葉を聞きながら、キースはぼんやりと考える。
 もし仮に二人が自分たちのことを思い出したとしても、それで何が変わるというのだろうか? ただでさえ面倒なことばかりだと言うのに、これ以上厄介ごとが増えても困る。そう思いながらも、キースは絹水のことを見つめていた。すると、絹水はキースの視線に気づいたらしく微笑みかけてくる。
 絹水はしばらくじっと見つめてきたが、やがてゆっくりとまぶたを閉じるとキースの胸に顔を埋めてきた。
 その双子とやらが覚えていないといい。もっと言うと絹水に会うことを拒んでほしいと思うキースがいた。出かける事はいいけれど、自分が好奇の視線にさらされることはごめんだったから。