微睡み、秘密のロマンス


 指に伝わるおうとつはキースの喉元で一際触れやすい位置にあって、ふたりでくっついて横になっているとよく触れる。けれど、彼は触られるのを嫌がる。
「むず痒いからやめろ、クソガキ」
「だってこのおうとつ気持ちいいんだもの」
 そう言うけれどそのおうとつの感覚が好きで絹水はついつい触ってしまう。見えない分言葉と指先で伝えなければ思いは伝わらないから。
 暗闇に閉ざされた世界にいる絹水の唯一のひかり。世界と愛を教えてくれたとても不器用で優しいひと。
 くっついている時はだいたい手を握っているか、肌をぴったりとくっつけているせいでキースがそばを離れてしまうだけで不安を覚えてしまうようになった。一人になるのがとても怖いと思ってしまう。
 キースに会うまで絹水はひとりぼっちだった。
 家から出ることは滅多になく、連れて行ってもらえるとしてもよくわからない集会だったから絹水は初めてキースの声を聞いた時恋に落ちた。一目惚れならぬひと聞き惚れだ。
「好きよ、キース」
「わかったからその手を離せ、首絞める気か」
「そんなことしないわ。……キースがいなくなったら困るもの」
 絹水がそっと抱きつく腕に力を入れるとキースは溜息を吐いた。
 いま手を離してしまえば、彼がいなくなってしまう気がして怖かったのだ。
 絹水は孤独を知っている。だから、今こうして一緒にいられることが嬉しいし幸せだと思う。ずっと傍にいたいし、離れたくないと思うほどに彼を愛している。
 ──こんなにも誰かを想う日が来るなんて思っていなかったわ。
 絹水にとってキースはとても大きな存在になっていた。彼と出会う前までは人付き合いというものがほとんどなかったため、恋愛感情など知らなかったから。
「そろそろラジオ掛けなくていいのか、クソガキ」
「ん……もうそんな時間……?」
 手探りでラジオを手に取り電源を入れると軽快なメロディと共に穏やかな男性の声が聞こえてきた。絹水お気に入りの読み聞かせ番組、ミスター・ブックスの読み聞かせワンダーランドが始まる時間になっていたのだ。
 今日はどんなお話かしら、と思いながらも目が見えない彼女にはラジオだけが情報源である。そのため、これがないと一日が始まった気がしない。
 一日の始まりを教えてくれるミスター・ブックスの穏やかな声が絹水の鼓膜を揺らす。
 ふわりと鼻を掠めた独特の匂いにキースがたばこに火をつけたことを知る。
「今日のお話は何かしら」
「知るかよ」
 ぶっきらぼうな言い方だけれどちゃんと答えてくれることを知っている。キースのそんな一面を知っているのは絹水だけだ。
 毎日違う話をしてくれるこの番組は彼女の楽しみのひとつでもあった。毎日知らないお話を聞かせてくれると新しい世界を知ったように感じるから。
 特に今日みたいに読み聞かせワンダーランドが始まるとわくわくしてしまう。
「今日のお話は……」
 読み聞かせが始まると絹水は熱心に耳を傾けて物語の世界に没頭した。それは幼い頃、初めて聞いた時から変わらない習慣であった。
 だが、お話を半分も聞かないうちに睡魔に襲われて夢の世界に行ってしまうことがほとんどなのだけれど。
「……ったく、また寝やがって」
 すうすうと寝息を立て始めた彼女に呆れながらも起こすことはなくそのまま寝かせてやることにした。下手に起こすのまだ眠たかっただの散歩に行きたいだのと始まることが多く面倒なのだ。
 彼女が眠った後、ベッドを抜け出しキッチンに向かう。ケトルにお湯を沸かしてコーヒーを入れた。
 砂糖もミルクも入れないブラックコーヒーを好む彼は、出来上がったそれを口に含むと小さく息を吐く。苦味のある香りと味わいが眠気覚ましにはちょうど良かった。
 ラジオから読み聞かせが延々と流れる中、キースはマグカップを持ったまま寝室に戻る。
「……ん、…」
 まだ夢の世界から戻ってきそうにない同居人は気持ちよさそうに眠っていた。起きる気配は全くない。
 ベッドに腰を下ろしながら彼女を見下ろすとあどけなさが残る寝顔が見えた。子どもっぽい安らかな表情に思わず笑みが浮かぶ。
 ふと、そのほおに手を伸ばしてみた。
 柔らかい肌の感触を確かめるように何度か撫でる。絹水の頬はすべらかで触り心地が良い。
「んぅ……」
 小さく声を漏らした彼女はキースの手にすり寄ってきた。無意識の行動だろうがまるで猫のような仕草にくすりと笑ってしまう。
 そして、悪戯心が生まれた。このまま起きないのならどこまでしたら目を覚ますのだろうかという好奇心だ。
 親指で唇をなぞり、軽く押してみる。ふにゅりとした感触を楽しむように指を動かすとくすぐったいのか身をよじった。しかし目は開かない。よほど深く眠っているらしい。ここまで来ると少し心配になるくらいだ。
 今度は指を下唇に移動させ、弾力を確かめた後少しだけ力を入れてみた。すると僅かに開いた口から赤い舌がちらりと覗いたため、慌てて手を離す。
「っ……」
「……キース?」
「まだ寝んのか、コーヒー入ってるぜ」
 ぽやぽやとした声に名前を呼ばれて振り返ると寝ぼけ眼の絹水がこちらを見ていた。
「まだ眠たいわ……キースも一緒に寝ましょう……?」
 そう言って両手を広げてくるものだから苦笑してしまった。この様子だと自分が何を言ったのかも覚えていないだろう。
「テメェなあ…… どれだけ寝ればいいんだよ」
 そう言いながら抱きつかれる前にベッドに座った。隣を叩いてやると大人しく近寄ってくるので頭を撫でてやる。嬉しそうに笑う様子は子どものようだ。
「だってキースはわたしにひどいことしないもの」
「して欲しいのか、クソガキが」
「痛いのは嫌だわ。でも、キースといるととても安心するの」
 そう言ったきり黙ってしまったから顔を覗き込もうとしたが毛布をかぶってしまいよく見えなかった。
 表情が見えなくて残念だと思う反面、見えなくてよかったと思う自分もいる。
 ──コイツの前だと調子狂うんだよな。
 いつもそうだ。いつの間にかペースを乱されている。それが嫌ではなくなっているから困るのだ。それに、こんな感情を抱くのは初めてのことだったから余計に戸惑っている。
 恋なんてする柄じゃないしするつもりもなかったというのに、どうしてこうなったんだか。
 そんなことを思いながら隣に寝転んで小さな身体を引き寄せた。すっぽり腕の中に収まった身体は柔らかく温かい。
 キースのベッドは狭くて二人で眠るにはこうして密着して眠るしかないのだ。
 最初は嫌がっていたが最近は慣れたらしくこうして自分からくっついてくるようになった。どうやら人肌が好きなようだ。人懐っこい性格だからか誰にでもこうして甘えているのだろうかと思うと複雑な気持ちになる。
 絹水は目が見えない分他の感覚が鋭く敏感で、触れることで相手を知ろうとする。だからなのか触れられるのが好きらしい。
 今もこうしてキースに抱きついて幸せそうに笑っているのだから間違いないのだろう。
「ふふ、キースあったかいわ」
「そうかよ」
 素っ気なく返すけれど内心は少し嬉しかったりする。あったかいと言われるなんていつぶりだろうか。少なくとも記憶にはない。
 もう随分長い間独りで生きてきたように思う。いや、孤独ではなかったかもしれない。それでも誰かと寄り添って生きるなんてことはしなかったし出来なかった。
 バンデット・キースと呼ばれてちやほやされていた時期でも常に誰かといることはなかった。名声を失って危ういことに手を出していた時期はなおさら。
 だから、こうして絹水と共に暮らすようになってキースは自分の変わりように戸惑ってもいるのだ。誰かと一緒にいることがこんなに楽しいことだとは知らなかったし、孤独だった頃に戻りたいと思えないくらいにはもうすっかり絹水に絆されてしまっている自覚もある。
 そんな変化を悪くないと思っている自分に驚きつつも受け入れていた。
 絹水と一緒に過ごすようになってから今までの生活が嘘のように穏やかになったからだ。
「……キース、好きよ。あなたがいてくれるからわたしは生きていけるの」
「大袈裟だな。テメェは」
「大袈裟なんかじゃないわ。外の世界を知らなかったわたしを見つけて、受けていれてくれたのはキースが初めてだったんだもの」
 そう語る絹水の声はどこまでも優しくて温かかった。
 暗闇の中で生きていた彼女にとって世界がどれほど眩しく感じたことか。きっとキースが想像がつかないほどに辛いこともあった。
 そんな彼女だからこそ惹かれてしまったのかもしれない。たとえ盲目であろうとも、彼女はキースがキースであることを許してくれる。
「……ねえ、お願いがあるの」
「何だよ」
「キスしてほしいわ」
 唐突なおねだりに面食らってしまう。いきなり何を言い出すのかと呆れていると絹水の手がほおに触れてきた。そして、そのまま引き寄せられる。
「寝るんじゃなかったのか」
「キスしてくれたら大人しく寝るわ」
 ねだるような口調なのに有無を言わせない響きがあった。こうなったらもう自分の意志を通すまで諦めないだろう。決して短くはない付き合いの中で知っている。
 溜息混じりに顔を近づけると目を閉じた彼女が待ち構えていた。唇を重ね合わせるだけの簡単な口づけだったがそれだけで満足だったのか嬉しそうな笑みを浮かべている。
「ん……ありがとう」
「……満足したならさっさと寝ろ、クソガキ」
「うん、寝るわ。ありがとう、キース」
 ぶっきらぼうに言って顔をそむける。好意を率直に向けられることにはいまだに慣れない。悪意をぶつけられることの方がキースは多かったから、友好的な感情を向けられるのはむず痒くて少し苦しい。
 絹水に喉仏を触れられた時の感覚に似ている。そこに触れてもいいのだと許しているからこそ感じる痛みと苦しみ。
 くうくうと聞こえてきた寝息に対してキースはため息をつく。
 腕の中の温もりに依存してしまっている自覚もある。絹水に向けているものが恋愛感情と呼ぶには薄汚くて醜くて欲に塗れたものであることもなんとなく。
 彼女の全てを暴いてみたいと考えてしまう時があるくらいなのだから相当重症なのだろう。それを知ってか知らずか無防備に身を預けてくるものだから困ったものだ。信頼してくれているのだろうが男としては複雑である。
 だが、それ以上に彼女を手放すことなど出来やしない。あの細い首を絞めれば簡単に殺せてしまうだろう。抵抗されても押さえつけることくらいは出来るはずだ。その気になればいつだって殺すことが出来るがそんなことする気などさらさら無い。
「絆されちまったな、このバンデット・キース様ともあろう男が……」
 自嘲するように呟いても返ってくる言葉は無い。代わりに聞こえてくるのは穏やかな寝息だけだ。その音を聞きながらそっと目を閉じる。そうすれば不思議と心が凪いでいくような気がした。
 ああ、これは確かに依存していると認めざるを得ないだろうな、と苦笑するしかない。
 バンデット・キースが何も知らない無垢な少女に飼い慣らされてしまったことはどうしようもない事実なのだから。