春先のロマンス


 キースは愛されることを知らなかった。家庭環境は壊れていて、母親はまだ彼が学生だった頃に他に男を作って出て行った。父親の顔は知らない。
 周囲の気を引くために始めた悪さも過ぎれば警察の世話になりかねないと判断した時期も早かった。
 初めて女を知ったのは15歳になる年だ。それから数えきれないほどの女と関係を持ったが、恋愛感情を抱くことはなく終わる。所詮は身体だけの関係でそれが終われば、彼女達は愛する家族が待つ家へ帰っていった。だから、未だに絹水がそばにいることが信じがたい。共に暮らして一年と少し経つが温もりを失うことが怖くてたまらない。
 ペガサスに挑んだあの賞金マッチでキースは一度全てを失った。名声、期待、信頼、財産、あるいは健康そのもの。自暴自棄になっていた時に現れた彼女とここまで長い関係になるとは思わなかった。
「……絹水」
 夜明け前。静かな冷たさに包み込まれた柔らかな時間が好きだった。
 キースの腕の中で穏やかに寝息を立てる彼女は安心しきった表情を浮かべ、甘えたようにすり寄ってくる。
 春先の少し冷たい空気が二人を包んでいる。一枚の毛布を分け合うように掛けて眠り、肌寒さを覚えてキースの方が先に目覚める。いつもの、ここ最近の流れだ。
 いつもならばもう一度眠るために目を閉じるのだが、この日に限って眠る気になれなかった。静かな寝息も、柔らかな肌も長くそばにあることに慣れてしまった自分が怖い。あれほど他人を拒絶して利用してきた自分がなにかを手放すことを拒むなんてあってはならないと感じてしまったから。
 幸い、まだ夜明けは遠い。
 王国にて城之内に敗れた後、キースはペガサスを襲い追放された。その後はあまり思い出したくない。気がつけば彼はこのアパートに一人でいた。
 一緒に王国へ行った絹水の姿はどこにもなかったのは当然だ。あの後、黒服達の手によって親元に帰されていたらしい。
「んん、キース……?」
「起こしちまったか」
「ううん、へいきよ……」
 まだぽやぽやとした声でキースの胸に寄り添うその仕草さえ愛おしくて額にひとつ唇を落とす。それからもう一度しっかり抱き込んだ。一回りくらい小さくて、少し力を入れたら壊れてしまいそうなガラス細工のような絹水の身体は甘くていい匂いがする。
「……まだ寝てろ」
「ん、……」
 キースの声に安心したのか再び目を閉じる。聞こえてきた柔らかな寝息に安心する。彼女はまだここにいてくれる。
 いつか離れていってしまうことがたまらなく怖い。彼女が自分を必要としなくなる未来を考えるだけで恐ろしい。
 縛り付けて誰も目の届かないところにしまい込んでおきたいとも思う。だが、いずれはこの手を離さなければいけない時が来るのだろう。
 それでも。今だけは、彼女のぬくもりを感じていたかった。
 目を覚ますと日は昇り始めたばかりの時間帯で、うっすらと明るくなり始めた寝室はやさしい空気に満たされている。腕の中には静かに眠る絹水がいた。
 穏やかな表情を浮かべているその姿に安堵しながら彼女を起こさないようにそっとベッドから抜け出す。
 服を着替え、リビングの窓を開け放つ。まだ少し寒い風がキースのほおをそうっと撫でていった。
 タバコに火をつけてゆっくりと吸い込む。肺を満たしていく煙は相変わらず苦いし不味い。
 紫煙の向こう側に見える空は藍色と赤紫に染まっている。
 こんな早朝に目が覚めることはまずない。いつもならもう少し眠っているはずなのに今日に限って早起きをした理由はきっと絹水にあった。
 ふわりと甘い香りが鼻腔をくすぐる。いつの間に起きたのか後ろを振り返るとパジャマ姿のままの絹水が立っていた。
「……キース」
 壁伝いにキースのそばまで来てぽふんと背中に抱きついてくる。普段より少し高い体温に、心臓がどくりと跳ねた。
 キースにとって絹水の存在は麻薬に近いのかもしれない。彼女がいない生活など考えられず、彼女だけが自分の全てになったような錯覚を覚える。
(そんなの……)
 あり得ないのに。絹水を失った自分はどうなるのだろうか。彼女を失った時の喪失感に耐えられる自信がなかった。
 そこまで考えて首を振る。絹水を束縛しようとは思わない。彼女には自由に生きてほしいと思う。だが、それでも。出来ることならば側にいて欲しかった。
「あったかいわ、キース」
「テメェもいつもよりあったけェな」
「……うん」
 素直に返事をするのは珍しい。いつもの彼女であればキースよりも早く起きていることが多かったから、こうして彼の方が起きるのを待つことなどほとんどなかった。
 いつもとは違う朝の始まり方にどこか不安になる。
 絹水の顔を見ようと身体を反転させようとしたその時だった。不意にほおを両手で挟まれてキスをされる。触れるだけの口付けは少し冷たくて、そして柔らかかった。
 すぐに離れた彼女は恥ずかしげに俯きながらキースの胸元に顔を埋める。その行動の意味が分からなくて思わず首を傾げた。
「起きた時、怖かったの」
「……変な夢でも見たのか」
「ううん、違うの。起きた時にいっつもならいるはずのキースがいなくて不安になっちゃったの……」
 だから、いつものようにキースがとなりにいることを確かめたかったのだと彼女は言う。
 確かに昨夜眠る時は二人で同じ毛布を被っていたはずだし、目覚めた時もいつも通り絹水はキースの腕の中にいたはずだった。
 それがいなくなっていれば、彼女が不安に感じるのも無理はない。目が見えないのなら、なおさら。
「いっつも一緒に寝てんだろ、クソガキ」
「……そうだけど」
 いつも通りに悪態をつく。それでも彼女は笑っていた。
 キースの手に重ねられた小さな白い手はいつもより熱を帯びていて、そこから伝わる温かさに安心する。
 絹水の肩に顔を押し付けて抱きしめると彼女の身体は温かくて柔らかかった。
 キースは今までペガサスに復讐のために執着してきた。けれど、今は違う。絹水がこうしてくれる温もりを手放すことが恐ろしくて依存しきっている。
 これは愛とか恋とかいう甘ったるいものではない。もっとドロドロとした感情だ。
 絹水という存在はキースにとってなくてはならないものになりつつある。それを自覚してしまえばもう後には引けない。
 キースは絹水を愛しているのだ。それはきっと友愛や親愛の類ではない。彼女を縛り付けて自分だけのものにしておきたいと思っているし、誰にも渡したくないとも思う。独占欲と嫉妬心ばかりが強くなっていく。
 こんな気持ちを抱えていてもいいのだろうか。絹水のそばにいたいと願うこの想いを、この醜く歪んでしまった想いを伝えても許されるのか。そう思うと、途端に苦しくなった。
 それでも絹水はそばにいてくれるのだろうか。
「……もう少し、こうしていさせて」
 そう言って微笑む絹水に何も言えなくなる。今はまだ、この関係のままで。いつか伝えるべき時が来たら伝えよう。それまではこのぬくもりを大切にしたいと思った。
 そのあと、簡単な食事を済ませた二人はソファに並んで座っている。古ぼけた小さなラジオからはいつもの読み聞かせチャンネルが穏やかな声である童話を朗読している。その話を聞き流しながら絹水はキースの肩にもたれかかってくる。
 キースは絹水が眠ってしまったのだと思い、そっと頭を撫でる。絹水は安心したようにほおを緩ませていた。
 そんな絹水を見てキースは考える。絹水がもし盲目でなかったら、自分はどうしていたのだろう。
 考えても答えは出なかった。おそらく絹水はここにはいないだろう。決して交わらない人生を送っていたと思う。
「……絹水」
「なぁに……?」
 名前を呼べば返ってくる返事に安堵した。絹水と出会ってから何度も繰り返してきたことだ。
 彼女はここにいる。まだ、キースの手が届くところにいてくれている。
 キースは絹水を抱き寄せた。彼女は抵抗することなくキースの腕の中へ収まる。絹水は何も言わずに身体を無抵抗に預けてくれる。
「テメェはここに来たこと、後悔してねェのか」
「後悔なんかしたことないわ。キースは目が見えないわたしをちゃんと扱ってくれるもの。……何回も言うけど、キースに会ってからわたしの世界は広がったのよ」
「そんな理由でテメェはここにいてくれんだな」
「キースしか知らないもの、キースだけでいいわ」
 そう言い切った絹水の言葉が嬉しかった。キースは絹水をぎゅっと強く抱きしめる。苦しいわ、と言いながらも絹水は決して嫌がらない。むしろキースの方へと身を寄せてくる。
(……このまま、ずっと)
 このまま、時間が止まればいいのに。そんなことを考えてしまうくらいには、キースは絹水が大切だった。
 絹水が盲目でなければ、きっと自分は彼女に出逢うこともなかったのだと思う。だからこれでよかったのだとキースは自分に言い聞かせるように絹水を強く抱きしめ続けた。
「……キースはどうしてわたしを追い出さないの?」
「追い出す理由がねェだろ、テメェだって行く場所ねぇんだからよ」
「そうね、もう帰る場所なんてないもの」
 彼女が家で受けてきた仕打ちをキースは知っている。ろくに外に連れ出されず、何も知らないで育った無垢な状態。
 それがどれほど辛いものだったのか、今のキースなら想像できる。彼は悪い方向へ走ってしまったが、絹水は目が見えないことが幸か不幸かこうしてキースに出会った。それが彼女にとってはいい方向に働いたようだけど。
 絹水が望むならば、キースは彼女を手放さないつもりだった。例え彼女が自分から離れようとしたとしても、彼女が許してくれるまで離すつもりはない。それが彼女のためになるのなら、とさえ思っている。
「キース、好きよ。愛してる」
 絹水はふわりと微笑みながら言う。その言葉にキースは息を飲んだ。
 絹水は今まで一度たりともキースに愛しているとは言ったことがなかった。それはキースもわかっていたことで、だから、その言葉を言われたことに動揺してしまった。
 キースは絹水のことを愛している。きっとこれは愛というものだ。どんな感情を向けられているかもわからずに彼女は無邪気に笑っている。それはきっと残酷なことなのだと思う。
「あぁ、テメェが離してっつっても縛り付けておいてやるよ」
「どういうこと?」
 キースの言葉に彼女は首を傾げる。その意味を理解できていないようだったが、キースはそれ以上何も言わなかった。
 絹水は盲目だ。だが、それだけでこんなにもキースを惹きつけるとは思えない。彼女の笑顔や柔らかな雰囲気、素直さ。そういったもの全てがキースを引きつけてやまないのだ。
 きっと、彼女の瞳がキースの姿を映すことなどないのだろう。それでもいいと思った。彼女の瞳に自分が映ることがない代わりに、この先も彼女のそばにいることができる。
 それに絹水はキースに愛していると言ったのだ。
 まだ彼女に向ける感情が恋愛感情ではないとキースは思っている。
 いずれ、この歪んだ独占欲も執着心も愛情も全てまとめて彼女にぶつけてしまうだろう。そうすれば、いつか彼女を自分のものにすることができるのかもしれないと、勝手にそう思った。
 今はまだ、このぬくもりを大切にしたい。いずれ訪れる別れの時に怯えるのは、もうやめにしよう。
 彼女は今、ここにいる。この腕の中にいてくれる。それだけで今は満たされている。
「キース、キスしたい……」
 甘えるように囁かれたその声にキースは応えた。絹水は安心したようにほおを緩ませて笑う。
 その柔らかな唇に自らのそれを重ねる。絹水は抵抗せずに受け入れる。そのことが嬉しくて、また一つ、強く強く抱き寄せた。
 いつか、本当に絹水の瞳に自分が映る日が来ればいい。そんなことを願いながら、キースは彼女の髪を撫で続けた。
 いつの間にかラジオからは音楽が流れ始めている。
 バター色になり始めた陽光が二人を見つめていても気にせずに、くっついていた。
 いつのまにか寝息を立て始めた絹水の髪を撫でながら、キースは窓の外を見る。
「……絶対に離さねェからな」
 誰にも聞こえないくらい小さな声で呟いた。彼女の幸せを願っているはずなのに、どうも上手くいかない。
 どうせ彼女はキースのものにはならないのだろう。でも、それでいいと思った。絹水にはずっと笑っていてほしいと思う。そのためにキースができることはなんだってする。
 そして、いつか絹水が離れる時が来たらどうするのかはわからない。ただその時が来るまではこうして側にいようと決めたのだ。
 キースはそっと絹水をソファへ横たえさせてブランケットをかけてやった。少しだけ眠るのもいいだろう。
 そう思い、彼も眠りについた。
 ただ、柔らかなバター色の太陽と洗われたばかりのような空が二人を見守っている。絹水とキースは、こうしてゆっくりと時間を重ねていくのだった。