あなたが生まれた日


 降り注ぐ暑い夏の陽射し、となりにある優しい温もり、鼻をくすぐるのは嗅ぎ慣れたタバコの匂い。世界を知らなかった絹水はキースに出会っていろんなことを知った。自由、食べ物、季節、イベント、自分の気持ち、それからロマンス。何もかも彼が教えてくれた大切なものだ。
 キースが出かけていた時にラジオで流れていた番組で彼の誕生日を知った。大切な人の誕生日を祝うというのは家にいた時からしていたけど、彼の誕生日は特別だ。
 一緒に祝ってたくさんの感謝と愛を伝えたい。
 一緒に暮らし始めて二度目の夏、絹水がキースの誕生日を知った初めての夏がはじまる。
 七月下旬、しとしとと雨が降っていて、絹水は朝からキースと並んでソファに座っていた。
「……8月といえばバンデッド・キースの誕生日ですね」
「彼は8月生まれだったのですね、初耳です」
 絹水がお気に入りの読み聞かせチャンネルの後に流れる番組を聞き流しているとそんな話題が出てきた。
 キースは知らんぷりを決め込んでいるのか黙ってタバコをくゆらせて、時折ふぅっと紫煙を吐き出している。顔の近くの空気が揺れる感覚で察することができた。
「確か、8月12日でしたね」
 それからもう他のことなんて気にならなくなってしまった。初めて知ったキースの誕生日を口にした声が耳から離れなくなったから。
 けれど、ぷつんとラジオの音が消えて忌々しげな舌打ちが聞こえた。不機嫌そうに立ち上がっていく気配があって、キースの足音は遠ざかっていく。
 後を追う気にはなれなかった。
 キースは自分の名前が流れるテレビ番組やラジオを嫌がる。雑誌も週刊誌も一切買わない。馬鹿にされているように感じるから嫌なのだと言っていた。
「ね、ねぇ、キース」
「ンだよ」
 不機嫌な声を丸出しに返事をする彼はやはり怒っているのだろうか。けれど、キースは足音と共に戻ってきて絹水のとなりに腰を下ろした。
「おら、飲め。ぶっ倒れるぞ」
「え?……あ、ありがとう」
 渡されたキンキンに冷えた缶ジュースに驚きつつも絹水はプルタブを起こす。暑かったのを気にしてくれたのだろうか。それとも、心配になるくらい顔色が悪くなっていたのかもしれない。どちらにせよ彼の優しさが嬉しかった。
 目が見えない絹水はキースがいなかったら外に出ることさえままならない。つまり、彼がそうしたいと思いさえすれば籠の鳥にすることだってできるのにそうしない。やはり、優しいから、だろうか。それとも単にペット感覚で連れ歩いているだけなのか。
 絹水にはわからない。
 コーラを飲みながらしっとりと汗ばんだキースの肌に触れる。
「触んな、あっついだろ」
「痛っ」
 べちりと手を叩かれてしまって少し寂しい気分になった。
「……夏は嫌いだわ。キースと触れ合えないもの」
 むっすりと絹水がそう言うと、ライターで煙草に火をつけながらキースがため息を一つつく。つくづく面倒臭い女の子である自覚はあるけれど、顔が見えない分触れないとわからないのだ。だからこうしていつも手を伸ばしてしまう。
 キースは絹水にとっての太陽のような存在だ。ぶっきらぼうだけど優しくて、眩しくて、愛おしくて、そばにいるだけで心が満たされる。
 だから、夏は嫌いだ。彼に触れられないから。
 キースは絹水の言葉を聞いているのかいないのか黙ったままだった。
「テメェは面倒臭ェ女だな」
「だって、キースが!!」
「今はあっちぃからくっつくなって言ってるだけだろ、クソガキ」
「……意地悪だわ」
 もう一度ラジオをつけると先ほどの番組は終わっていて、軽快なポップスが流れている。どうやら子ども向けに夏休みの特集をしているらしい。
 プールとかお祭りとか花火とかイベント事の紹介がされてあって、その一つ一つを二人で体験したいと思った。
 来年もその次の年もずっと一緒に祝ってみたい。
 それから二人でいろんなところに遊びに行って思い出を作りたい。
 そんな未来を想像するとわくわくしてくるのだ。
 家にいただけではわからなかったことがたくさんあることを教えてくれたのはキースだから。
「となりにいるだけいいだろ」
 わしゃと髪を撫でられて絹水の心はほんわりと満たされる。キースに触れられるだけで心がどうしようもなく幸せで溢れていく。
 もっと、いっぱい触ってほしい。もっと、もっともっと自分を見てほしいし、キースを見せてほしい。こんなことを思うなんてどうしようもなく贅沢なんだろうけど。
「……キースは自分の誕生日は嫌い?」
「どういう意味だ」
「ラジオをすぐに消しちゃったから」
 答えを聞くのが怖くなってきた。もしかしたら、彼は自分の生まれた日をよく思ってなかったんじゃないかって。もしそうだとしたらすごく悲しいことのように思えたからだ。
 けれど、キースの返事は絹水の予想とは違うものだった。
 どこか自嘲するように笑ってキースがぽつりと言った言葉はまるで独り言のようだった。
「誕生日なんざ祝ってくれる奴いなかったよ、テメェくらいなもんじゃねェか」
「わたしはお祝いしたいわ。キースがこの世に生まれた日だもの」
 そんな風に考えていたとは思いもしなかった。キースにも家族がいたのなら祝福されていたはずなのに。キースの家族は一体どんな人たちで今どこにいるのだろうか。キースに聞くことは憚られた。
 きっと彼を苦しめることになる。それは本意ではないから絹水はキースの過去について聞いたことはなかった。
「本当にバカな奴だぜ」
「キースのことが好きなんだもの、当然だわ」
 そっと彼の肩に手を置いて寄りかかるように体重をかける。キースの鼓動がとくとくと感じて安心できた。
 ふっと笑みをこぼしたキースがタバコを灰皿に押しつけて消すとそのまま絹水を引き寄せた。タバコのせいで苦いキスは嫌いじゃない。タバコ臭い口づけなんて絹水以外にするものはいないだろうし、独占しているようで悪い気分ではなかった。
 唇が離れてからもしばらく絹水は離れがたくてキースの首に抱きついていた。
 そして、キースの誕生日に何かしてあげたいと強く願うようになった。何をあげれば喜んでくれるだろうか。何をプレゼントしたら彼は喜んでくれるだろう。
「ガキの頃から誕生日なんて、祝ってもらうことなかったな」
「……そう、だったのね」
「そういうテメェはどうなんだよ」
「わたし?……ママたちは仕事が忙しくてあんまり祝ってもらったことはなかったわ。そう考えるとわたし達お揃いね」
 ふふふ、と笑うとキースはまたわしゃわしゃと頭を撫でてくれた。キースに出会ってから毎日が楽しかった。彼のおかげで初めて世界を知った気がする。
 でも、それと同時に苦しくなる時もあるのだ。彼がいなくなってしまったらどうなるんだろう、って考えてしまうと。だから、なるべく考えないようにはしていた。
「ったく……変わってんな、テメェはよ」
「キースが好きなだけよ」
 呆れたようにため息をついたキースのほおに手を伸ばして触れれば、しっとりと汗ばんでいる。彼が生きている感覚が強くてなんだか愛おしくなった。
 キースは、優しいから。
 きっと絹水が死んだとしても、悲しんではくれても引きずったりはしないと思う。それが寂しくて、切なくて、胸が張り裂けそうになる。
 だから、自分がキースにとって特別な存在でありたいと思ってしまうのだ。
 絹水はキースのことが好きで好きでたまらないから。
「……、キース誕生日は何が欲しい?」
「何もいらねェよ」
 そう言うと思っていたから絹水は少し困ってしまった。だって、誕生日はちゃんと祝いたくて。
 けれど、キースが望むのならば、絹水ができることは全て叶えてあげたかった。
 だって、絹水がそうしたいと望んでしまったから。
 キースのことを誰よりも特別で大切な人だと思っているから。
 キースが喜ぶことをたくさんして、たくさんの思い出を作って、ずっと一緒にいたい。
 わがままかもしれないけど、これは譲れない願いなのだ。
「何もいらねェし、しなくていい。大して嬉しいことでもねェだろ」
 手を引かれてベッドに行きながらキースはそんなことを言った。確かに誕生日だからと言って特に変わったことはない。絹水にとってはキースと一緒に過ごせるだけで十分だったからだ。
 だけど、やっぱりお祝いしたい気持ちはあった。
 いつものようにキースに抱きしめられながら、穏やかな日々がずっと続くように願わずにはいられなかったから。
「キース、好きよ」
 口の動きだけでそう伝えてもキースには聞こえていない。けれど、ちゃんと思いは伝わっていると思いたい。ぎゅっと抱きしめられてキースの体温を感じていると自然と瞼が落ちていく。
 この時間がいつまでも続けばいいな、なんて思いながらも睡魔に逆らえずに絹水は眠りについたのであった。
「おい、起きろ」
「……んぅ」
 いつもキースに揺り起こされて絹水は目を覚ます。
 一度寝たら目を覚さないからこうして起こされないとお昼近くまで眠ってしまうのだ。
「おはよう、キース」
「おう」
 キースのほおに触れると一日が始まる感じがして好きだ。わしゃわしゃに髪を撫でられて嬉しくなりつつも絹水はもぞもぞと布団の中から抜け出していった。
 まだぼんやりとする頭のまま洗面台に向かって顔を洗い歯を磨く。
「……誕生日、だがよ」
「んぇ?」
 上から降ってきた言葉に絹水は目を瞬かせる。
 誕生日。昨日言っていたことの続きなのだろうか。
「絹水」
「……何か欲しいもの、ある?」
「買い物に付き合ってくれ」
「わかったわ、でもそれでいいの?」
 絹水がそう問いかけるとキースは低く笑っただけだった。おそらく肯定の意味なのだろう。
 何を買うのかわからないけれど、キースの頼みなら何でも聞いてあげようと思った。

 ***

 8月12日。
 ミスター・ブックスの読み聞かせの声が一日の始まりを告げる。柔らかく穏やかな声で読み上げられるのは絹水のお気に入りの童話。
 キースは相変わらず絹水のとなりに座ってタバコをふかしている。
「コーヒー飲んだら出かけんぞ、支度しろ」
「え、えぇ」
 言われていたキースと出かける日でもある。何をするのかは聞かされていない。彼が教えてくれなくて、ひとまず砂糖がたっぷり入ったコーヒーを飲んだ。
 着替えてから髪を整える。折り畳み式の白杖を準備すればすぐに出かけられるようになる。外に出るのは久しぶりだった。最近は毎日が楽しかったから外に出ることを忘れてしまっていた。
 扉の前で立ち止まって深呼吸をする。緊張や不安はない。ただ、わくわくとした感情だけが胸を占めていた。
「これ掛けとけ」
「サングラスね、わかったわ」
 強い陽射しから目を守るようにサングラスをかけて、キースの腕に手をかける。彼の腕に触れていられるは、いつだって安心できた。
 誰が見ているかなんて絹水にはわからない。それでいいのだ。
 どこに行くかまでは知らないからキースに全てを委ねて歩く。
 夏の蒸された風がほおを撫でていく感覚で汗が噴き出すのがわかる。暑いのは苦手だから早く涼しいところへ行きたいと思う。
 しばらくするとキースが足を止めたので絹水も止まった。
「……キース、ここは?」
「ついてこい」
 そう言われて店内へ足を踏み入れる。クーラーが効いた店内は快適でほう、と息をついた。キースは何も言わずに店の中へと進んでいく。離れてしまわないように絹水は小走りになってついていった。
「よぉ、キース。久しぶりだな」
「おう」
「んで、その子がお前のかわい子ちゃんってわけだ」
「それよりも頼んでたモンはできてんだろうな」
「出来てるぜ。持ってくるから待っててくれ」
 男性とキースが何やら話をしている間、絹水は手持ち無沙汰に白杖に付いているストラップを弄った。カチャリと金属音がして少しだけ落ち着く。
 ふわりと香るキースの匂いが心地よくて絹水は気持ちを落ち着ける。
「何を頼んでいたの?」
「……まだわかんねェか?」
「わからないわ」
 そう言うと小さくため息をつかれた。キースの吐いた二酸化炭素を取り込むようにして大きく空気を吸い込んだ。
 まだわからない。
 絹水は、何も知らされていないから。
 それがちょっと悔しくて絹水は唇を尖らせた。
 しばらくして男性がキースの頼んでいたものを持ってきたらしく、二人はまた二言三言話をする。
「絹水」
 名前を呼ばれてキースのそばに行けば首にひやりとしたものがかけられた。冷たい金属の質感を持つそれ。
「キース……?」
「いいじゃねェか」
 キースが笑う気配がした。顔を上げれば優しく頭を撫でられて、シルクの滑らかな手触りを楽しむように絹水を撫でている。
 絹水には見えないけれど、きっとキースは笑っているのだろう。
 それだけはなんとなくわかった。
 絹水はネックレスに触れると、長方形のトップがついている。
「これは……ドッグタグ?」
「そうだ」
「揃いで作ってくれって言うからまさかとは思ってたが、お前に女がいたとはな……」
 男性がしみじみと言いながら、絹水の首にかけられたものをなぞった。
 これがどういうものなのか、絹水にもわかってしまった。
 ドックタグは本来、兵士や軍に所属する人間が身に付けるものだ。
 絹水は、キースのもので。
 キースは、絹水のものだった。
 お互いに同じものを身に付けて、離れられない。その証明。
「ありがとう、キース」
「おう」
 店内を出てから絹水はキースに礼を言い、次の目的地を訪ねることにした。
「キース、次はどこにいくの?」
「次?次なんてねェよ、ここが目的地だぜ」
「でも、キースは買い物に付き合ってくれって言ったわ」
「これが買い物だ」
 キースはそう言って絹水の手を引いた。どこへ行くかなんてやはり彼は言わない。けれど、キースが連れて行ってくれるのなら地獄だって怖くない。
 そのままあてもなく歩きながら二人は行きつけのピザ屋の前を通る。そこでキースはぴたりと足を止めた。
「ピザでも買って帰るか」
「賛成!」
 何かと思ったらどうやらこの店のピザが食べたくなったらしい。
 いつものマルゲリータとコーラ、ビールを注文してからベンチに腰掛けて待つ間、首から下がったドッグタグを指先で弄んだ。チャリチャリと音を立てたそれをキースが贈ってくれた。
 本来ならば絹水が彼に何かをするべきなのに、してもらってばかりだ。
 絹水にはキースの顔が見えない。
 誕生日なのにしてもらってばかりで、どんな顔をしているのかも知らない。声から想像するしかないのだ。
 絹水はもっと、キースを知りたい。
 絹水はキースのことを何も知らないのだから。
 キースだって、自分のことを話さない。
 いつまで一緒にいられるかもわからない。今の関係を壊したくないから何も聞けない。
「やけに静かだな」
「キースの誕生日なのにわたしがしてもらってばっかりだわ」
「買い物に付き合ってくれただけでいいんだよ、何もいらねェつったろ」
 そう言いながらも、絹水はやっぱり不満だった。キースは何も望まないのだ。全てを失ったから何も望まないのかもしれない。
 出来上がったピザを受け取ってから二人でアパートに戻ると、むわっとした空気が出迎えてくれる。すぐに窓を開けて換気をしながら、冷えたコーラとビールを開けた。
 カシュッとプルタブの開く音が響く。
 喉を通り抜ける炭酸の刺激に口元が緩んでしまう。
「おいしいっ!」
 コーラを飲みながらピザを食べて、こんな幸せな日はない。
 今日はもうこのままずっと幸せのまま過ごしてしまいたい。
 ふと視線を感じて絹水は顔を上げた。
「これでいいんだ、特別なことなんていらねェんだよクソガキ」
「キース……」
 ふわりと頭に手のひらの感触がして絹水は思わず微笑んだ。
 きっと今の絹水はキースには見えないほどふにゃふにゃに蕩けた表情をしているだろう。
 こうして穏やかに過ごす毎日が続くといい。
 絹水はそう思いながら、もう一切れピザを口に運んだ。
「ケーキも祝いの言葉もいらねェ、代わりにテメェがオレから離れなきゃあいい」
「わたしでいいの?目が見えない、こんなわたしで……」
 絹水は目が見えないことを呪ったことはない。
 ただ、キースと会えたことが嬉しかっただけだ。彼が側にいて笑ってくれるのならそれでよかった。けれど、絹水はキースと過ごした時間を思い返せば返すほど、自分が彼と一緒にいるべきではないのではないかと考える。
 目が見えないというだけでたくさんの迷惑をかけているのだから。
「テメェを扱えんのはオレくらいなモンだろうぜ」
「……そうね」
 キースがそう言ってくれるだけで本当に大丈夫だと思えてしまう。魔法の言葉みたいに安心する自分がいる。
 手探りでキースのほおに触れてから、触れるだけのキスを落とす。
「でも、ちゃんと言わせて。誕生日おめでとう、キース。生まれてきてくれて、わたしと出会ってくれてありがとう」
 本当は、こんなんじゃ足りないけれど。この気持ちを全部伝えることはできないけれど。
 絹水は言葉にして伝えたかった。
 絹水にとっての宝物は、キースと過ごすこの時間そのものなのだ。