おとぎの国のピンキーリング


 六月の花嫁なんて誰が決めたのか。
 きっとずうっと前からそうやって言い伝えられてきたから決められた、目が見える人たちの話。素敵な人と出会ってあっという間に恋に落ちて、お付き合いをして結婚する。言葉にしたらなんてことのない平凡でありきたりでなんてことないもののはず。
 けれど、目が見えない絹水にはそれがとても難しい。偶然にも以前連れて行ってもらった賞金マッチでキースと会うことは出来たものの、彼は結婚や入籍といったものにあまり価値を見出していない気がする。海外ならそういうあり方もあると知っているけれど、日本で生まれ育った絹水にとってはちょっと複雑だった。
 毎日キースのとなりにいてその温もりを感じているけれどほんの少しだけ不安もある。いつかキースがいなくなってしまうかもしれないという小さな不安の芽は一度存在を自覚してしまえばむくむくと成長してしまった。
 嗅ぎ慣れたタバコの匂いも流れてくるラジオの読み聞かせも変わらないはずなのにいつかはなくなってしまうと考えてしまって集中できなかった。キースはいずれ自分に飽きてしまうのではないかと不安でたまらなくなる。
「ずいぶん静かだな」
「……そう、かしら?」
「いつもなら童話の読み聞かせになるとぴーちくぱーちくうるせェだろ」
「ちょっと、考え事してたの」
 何を考えていたかまでは言えなくてそのまま口をつぐむ。キースのことは好きなのに遠く感じてしまって、久しぶりに目が見えない自分が嫌になる。
 彼の顔が見れたら考えていることも全部わかったりするものなのかしら。目が見えていたらこんなに悩むこともなかったかもしれないのに。
 毎日楽しみにしているミスター・ブックスの読み聞かせも今は頭に入ってこなかった。キースがとなりにいてくれるとわかるのはタバコの匂いが近いから。あるいはソファが沈む感覚があるから。
 部屋にいる時はキースから触れてくることはあまりない。感じる温もりと匂い、沈む感覚でしか絹水は彼の存在を知ることができない。
「最後の読み聞かせは童話はアンデルセン童話より……」
 ラジオの声が耳に入ってこない。どうしようもなく悲しくなって、寂しいと思ってしまう。
 そんなことを考えているうちにいつの間にか読み聞かせは終わっていたらしい。キースが立ち上がって伸びをする気配を感じる。浮き上がったとなりが寂しくて、キースの服の裾をくいっと引いた。
 どこにも行かないでわたしだけを見て。ありきたりなドラマで流れてきそうな言葉が浮かんだけれど口にするのははばかられた。キースがいなくなってしまうことがとても怖い。
 彼がいなくなった後の生活を考えるだけで涙が出そうになる。でもそれはきっと自分の勝手な思い込みだから口に出せない。
 結局何も言わないまましばらく沈黙が続いた。やがてキースの手が伸びてきて頭を撫でられる。
「何してやがる、クソガキ」
「……そばにいて欲しいの」
 口から出た声は思ったよりもずっと震えていて自分でびっくりした。もっと上手に言えると思っていたのにいざとなったら全然言えなかった。はぁ、と息を吐く音が聞こえたかと思うとぼすんととなりが沈む感覚がする。
「変なもんでも食ったのか、らしくねェ」
「……えぇ、わかってるの。わたしらしくないのは」
「あァ?どういう意味だよ」
「……なんでもないわ」
 キースの顔を見上げる勇気はない。目を閉じたまま膝を抱えるように縮こまると上から舌打ちが落ちてきた。
「言いたいことがあるならはっきり言えよ」
「言ったらキースはきっと怒るわ」
「は?」
 怪しげなものを見るような視線を感じた。多分今キースは絹水を睨んでいるに違いない。見えないから確認のしようもないけれど、すでに怒っているのは確かだ。
 どうしていいかわからなくなって黙ってしまうとキースの指先がほおに触れた。そっと上向かせられて額に唇を押し付けられる。それからまぶたにも同じようにキスされた。
 突然のことに驚いていると今度は顎を持ち上げられる。唇に柔らかいものが押し当てられたかと思ったらすぐに離れた。
 らしくない、キースからのキス。
「キース……?」
「言えよ」
「……怒らない?」
「テメェがうじうじしてる方が調子狂うから言えっつってんだよ」
 やっぱり怒ってるじゃない。
 思わず笑ってしまいそうになったけどこれ以上機嫌を損ねるわけにはいかない。
 ごめんなさいの代わりにもう一度自分から触れるだけのキスをした。さっきまで感じていた不安はまだあるけれどキースが聞いてくれるなら少し楽になるかもしれない。
「キースがいなくなっちゃうかもって考えたら急に怖くなって……ほら、ジューンブライドっていうでしょ。六月に結婚したらずっと幸せでいられるっていう言い伝え。結婚ってみんな簡単に言うけれど、難しいなって思ったの」
 そこまで言うとキースがため息をつく気配がする。呆れられてしまったかもしれない。けれど、話し始めた以上続けるしかなかった。これ以上キースの機嫌を損ねることだけは避けたい。
「……あれはきっと目が見える人にだけ許されたことだわ。わたしみたいな目が見えない人間は幸せになっちゃいけないって言われてる気がしたの。キースだって目が見える人の方がいいでしょう……?」
 最後は消え入りそうなくらい小さな声になってしまった。キースがどんな顔をしているかわからない。恐ろしくて彼の方に顔を向けることだって出来なかった。
 怒らせてしまったかもしれない。それより呆れられたかも、いえ今ここで出て行けって言われるかもしれないわ。
 たくさん考えてようやく口にしたはずだったのに、絹水はまだ怖くて不安だ。こんなに臆病じゃなかったはずなのに、キースのこととなるとどうしたらいいのかわからなくなる。
 ぎゅっと膝を抱えて俯いていると不意にキースの腕が背中に回った。そのまま引き寄せられるようにして抱きしめられる。
「テメェみてぇな面倒臭ェクソガキ相手にできんのはオレくらいなもんだろうぜ」
「……え?」
 聞き間違いだろうか。キースの声が少し柔らかくなったような。
 確かめようと顔を上げるとまたキスされる。いつものタバコの匂いとほんのり香るアルコールの匂い。それから服に染み込んだキースの匂い。頭がくらくらしてくる。
「キース……?」
「うるせェ、黙ってろ」
 しばらくそのまま抱きしめられていたが、絹水はおずおずとキースの背中に手を回す。檻のように閉じ込めている腕にさらに力がこもって密着する形になった。どうしよう、心臓がうるさい。聞こえてないかしら。
 こんなに近い距離だと早い鼓動が伝わってくるんじゃないかと心配になった。でもそんなことを確かめる余裕なんてなくて、ただ彼の体温を感じている。
「ジューンブライドだかなんだか知らねェが、そんなくだらねぇこと気にしてんじゃねェよ。クソガキはクソガキらしくオレのそばにいやがれ」
「でも……」
「オレがいいっつったらそれでいいんだよ。それとも何か、テメェはオレが他の女をここにあげても良いっつーのか?」
「それは嫌だわ!」
 慌てて否定するとキースは満足そうに笑う。柔らかくて低い笑い声にもやもやしていた感情がゆっくりと消えていく。
 本当にこの人はずるいわ。
 文句の一つ言ってやりたかったけれど、キースの声があまりにも優しくて何も言えなくなってしまった。
「それでこそ、このバンデット・キースの女だぜ」
「……キースは本当に、わたしでいいの?」
「ハァ?何ごちゃごちゃ抜かしてやがる。テメェみてぇなクソガキはオレしか相手にできねぇっつってんだろ、しつけぇな」
 その言葉を聞いて思わず泣きそうになる。嬉しいのか悲しいのかよくわからないけれど涙が出そうだ。
 でも泣くのはなんだか悔しいから必死に耐えた。泣いたらきっと彼は怒る。
 だから代わりにキースの肩に額を押し付けてぐりぐりと押し付ける。
「……お嫁さんにはしてくれないの?」
「しねぇよ」
「どうして?」
「ンな紙切れ一枚でどうこうなるモンでもねぇしよ」
 確かにそうかもしれない。結婚式というものは花嫁と花婿を祝福するために行うものだ。そこにいる人はもちろん、見守る家族や友人も幸せになるために。
 でも、そういうものに憧れる気持ちもある。けれど、キースと過ごしてきた時間は結婚や入籍といった契約に基づくものではないことを絹水は知っている。お互いの感情や信頼、依存でできている関係だ。
「……そうね、それもそうだわ」
 結局、自分たちに結婚という言葉は似合わない。
 絹水はキースが好きだ。愛していると言ってもいい。
 けれど、彼が自分に対して抱いているものは愛情ではないこともなんとなくわかっている。恋愛感情ではない、執着とも呼べる依存だ。キースは自分に価値を見出している。なぜかはわからないけど。
 もし、いつか自分がいなくなってもキースは生き続けることができるだろうか。
 絹水がいなくなったらキースは生きていけるだろうか。考えるだけで怖くなる。ずっと一緒にいたい。彼のとなりで笑っていたい。
 結婚という言葉が相応しくないのなら、せめて。
 絹水はそっとキースの頬に唇を押し付けた。
 突然のことに驚いたのか、キースは何も言わない。けれど絹水を引き剥がすことはなかった。
 彼の体温を感じながら、どうか少しでも長くこのままでいれますようにと願う。
「もし、わたしの目が見えていたらお嫁さんにしてくれた?」
「いや、しねぇな」
「だと思ったわ。でも、それでいいわ」
 キースの腕の中で小さく笑ってみせる。
「キースがわたしを必要としてくれる限り、わたしはあなたのそばにいるわ」
「必要なくなったら宅急便で日本に送り返してやるよ」
「それは嫌だわ、必要なくなったらキースの手で終わらせて欲しいわ」
「ハッ、くだらねぇな」
 キースは鼻を鳴らして笑うだけだった。絹水の言葉の真意など興味がないらしい。
 ただ絹水はキースが自分を手放さないことを知っている。彼もまた絹水が自分の元から離れないことを信じている。
 きっとこれからも二人の関係は変わらない。変わることはない。
 この檻から逃れることは出来ないと絹水はわかっているから。だから、もう少しだけこの檻の中にいても良いかしらと心のなかで呟く。
 返事の代わりに背中を撫でる大きな手が心地よかった。
「ありがとう、キース」
「……ふん」
 ぶっきらぼうだけど不器用で優しい彼のことが大好きなのだと改めて思う。
 こんな日々が続くといい。
 そう願いを込めて絹水はもう一度、キースにキスをした。
 ジューンブライドは二人には関係ないことなのかもしれない。けれど、その思いを確かめ合うには十分すぎる日々なのだと思う。嫌なことも怖いこともたくさんあると思う。
 けれど、キースとなら一緒に乗り越えられる気がする。
 だって、あなたはわたしだけのキース・ハワードだもの。
 キースの腕に包まれて眠る夜はいつもより温かくて、少しだけ許された気持ちになった。
 いつも通り一枚の毛布を分け合ってキースに抱きしめられて眠る。今日は何だか眠れなくて、いつもよりも彼の体温を感じていたかった。
 眠気はあるはずなのにまぶたを閉じることが出来ない。
 何か話したいことがあったような気がする。でも、思い出せない。大事なことのような、そうでもないことのような。
「……好きよ、キース」
 眠っている彼に聞こえるわけもないのにそう口に出す。
 もちろん、聞こえているわけもなく、キースは規則正しい寝息を立てている。
 それでも、何か伝えたくて、でも何を言えばいいのか分からなかった。きっと明日になればこのもやもやした感情も消えてしまうのかもしれない。でも、今はただこの感情のままに眠りたかった。
「愛してるの」
 言葉にしてしまえば簡単なのかもしれない。けれど、それを伝えるのは難しい。
 言葉にするということは伝える側の勇気が必要だ。その言葉が本当だと証明しなければいけないのだ。
 絹水はキースを愛してる。これは嘘じゃない。けれど、言葉にしてはいけない思いもある。
 絹水の言葉がキースの可能性を潰してしまうことだってあるから。もしかしたら幸せになれる道もあって、デュエルモンスターズの大会にだって復帰できる道もあるかもしれない。
「……まだ起きてんのか」
「起こしちゃった?」
「いい加減に寝ろ、クソガキ」
「うん……」
 絹水がごそごそ動くと、キースが小さく身じろぎをする。彼は絹水の肩を抱く腕の力を強めた。まるで自分のものだと確認するように。
 そのあとすぐにキースは寝息を立て始めた。
「おやすみなさい、キース」
 絹水はそっとキースの首筋に唇を押し付けると、そのまま目を閉じた。
 柔らかくて温かい夢を見た気がする。
 内容は思い出せないけれど、キースの温もりが心地よかった。きっと、このまま朝までぐっすりと眠ることが出来るだろう。
 絹水はキースの腕の中でゆっくりと意識を手放していった。
 六月の花嫁にはなれなくとも、キースの傍らにいられたら絹水は幸せなのだ。