ひだまりの地平線


 うんざりするほどに気持ちいい青空には雲一つ浮かんでいなくて、穏やかな風が吹いている。昼過ぎのあくびをした太陽がキースの住む部屋にもやわらかなひかりを届けていた。
 溜まりに溜まった洗濯物を洗い、ほこりだらけだった床に掃除機を掛けた。窓を開けて換気をしながらくしゃくしゃになっていたシーツを取り替える。ついでにシーツも洗濯機に放り込んだ。
 絹水は掃除機かけの邪魔をしないようにソファに座らせておいたら、いつの間にか寝落ちていた。ラジオをかけてもいないし、キースも部屋の掃除で構える状態ではなかったために気づいたら眠りこけていた。
 ようやく一息ついた時にはすっかり熟睡している絹水を見ながらタバコに火をつける。肺まで煙を吸い込んで、ゆっくり吐き出すとふわふわと紫煙が部屋に立ち込めた。ごうんごうんと回る洗濯機の音を聞きながらキースもあくびを一つ。久しぶりに片付いた部屋が気持ちいい。
 時計を見るとまだ四時だ。少し早いけれど今日はもうこのまま眠ってしまおうかと考える。いつも自堕落な生活を送っていたが、絹水が同居するようになってからはほんの少し気をつかうようになったと思う。
 そんなことを考えているうちにキースはうとうととし始めてきた。さっき起きたばかりなのにもう眠い。退院したばかりで動いたからか、程よい疲労感も手伝って絹水のとなりでキースも夢の世界に旅立っていった。
 次に目を覚ますと、空は淡い紫色に染まっていた。夜明けが近いようで、どこかで小鳥が鳴いている。
 絹水の方に目をやると彼女はまだぐっすりと眠っていた。
 本当によく眠る女だ、とキースは思う。放っておけば一日中寝ていることもあるくらいに眠るのだ。一度寝たらなかなか起きない。そのせいで夜中に何度も起こされたこともあった。
 絹水はソファの上で猫のように丸まって眠っている。すやすやという寝息に合わせて胸元が小さく上下していた。白い肌が薄暗い部屋の中でぼんやりと発光して見える。
「オイ、そろそろ起きろ」
 肩に手をかけると絹水はくすぐったそうに身をよじらせた。それでも起きる気配はない。キースは絹水を揺する。
 すると、絹水の長いまつげが震えたかと思うとゆっくりとまぶたが上がった。焦点の合わない瞳が何度か瞬きをして、ぼんやりとしている。
「寝ぼけてんのか、クソガキ」
「……キース?」
 絹水はまだ半分以上夢の中にいるようだった。ぽやんとした顔でこちらを見上げてくる。
 しばらくじっと見つめあったあと、絹水はぱちりと目を大きく見開いた。そして飛び上がるように体を起こす。
 絹水はちいさな手をキースの方に向けて突き出し何かを探すようにさまよわせる。自分を探しているのだと気づくのに少しかかったが、彼女の細い腕を引き自分の方に寄せる。
「きゃっ!」
 バランスを崩した絹水はそのままキースの上に倒れこんだ。勢い良くぶつかった衝撃で体が跳ねる。
 絹水を抱き止めたままキースは自分の上に乗っかっている少女を見た。
 そのまま絹水を抱え込むようにして抱き締める。絹水は戸惑っていたが抵抗することはなかった。ただ黙ってされるままにされている。
 絹水の髪からはシャンプーの匂いがした。同じものを使っているはずなのにどうしてこんなに違うんだろう。
 キースはその甘い香りに誘われるように絹水の頭に鼻先を埋めた。
「おはよう、キース……もう朝なのね」
「いや、まだ夜明け前だぜ」
「え?」
「本当によく寝るな、テメェは」
 呆れたような声を出すキースに絹水は恥ずかしくなった。子ども扱いされてるようでなんだか悔しくなる。
 しかし実際、まだ成人もしていない自分が大人であるはずの彼に甘えるのはおかしな話だった。
 だからといって彼の腕を振り払うこともできない。だって心地良いのだから。
「……キース、わたしまだ夢を見てるみたいよ」
 見えない目を柔らかく細めた絹水はキースの唇に落とす予定であったはずのキスを鼻先に落とした。きっと感覚を誤ったのかそれとも意図的なのか。どちらにせよ絹水にとっては初めての経験であった。
「口じゃねェのかよ」
 キースは苦笑いを浮かべて言う。その言葉を聞いた瞬間、絹水の顔が真っ赤になった。心臓がどくんどくんと早鐘を打つ。
 盲目のはずなのに見えているように、彼女の目にはキースが映っている。ペガサスに負けてさらに惨めになったクズが映っている気がして嫌になる。
「え、今のって……」
「テメェが今キスしたのはオレの鼻だぜ」
 キースの言葉を聞いて絹水は固まってしまった。そんな絹水を尻目に彼はソファから立ち上がる。まだ眠気が残っているらしく大きく伸びをした。
「腹減った。……ピザでも買いに行くか」
 キースはそれだけ言ってさっさと玄関に向かってしまったのだった。
「……キース、待って! 置いていかないで!!」
 そこではたと立ち止まる。彼女は助けがないと歩けなくて、白杖あるいはキースのひじが必要なのだ。今まで忘れていたが、彼女は生活に様々な制約があるのだ。
「オラ、行くぞ」
 キースは絹水の手を掴んで自分のひじを掴ませる。以前からしていた歩き方だ。
 王国へ乗り込む前に共に暮らしていた時もキースと絹水はこうして時折外を歩いていた。絹水はキースのひじを掴みながら後ろをついてくる。
 キースは絹水の方を振り返らずに、まるで散歩をしているかのように軽い足取りで歩いた。
「キース、どこへ行くの?」
「どこのピザ屋するか……っつってもこの辺だといつもの店しかねェがな」
「そこでいいわ。あのお店のピザ、わたし大好きだもん!」
 嬉しそうな声でそう言った絹水はキースの腕にしがみつく。
 ふと、彼女が自分のことを好きだと散々言っていたことを思い出した。彼女は自分に恋をしていた。その気持ちは今でも変わらないのだろうか?
 キースにはわからない。自分は彼女をどう思っているのか。
 キースは絹水に腕を引っ張られながら、彼女の気持ちについて考えていた。けれど、やはりわからなかった。
「キース、今日は違った味のピザがいいわ」
「いっつもマルゲリータじゃ飽きたか?」
「うーん、他の味も食べてみたいなって思ったの」
 キースは絹水の希望通りに注文をする。マルゲリータではなく生ハムとバジルを使っているプロシュートを注文した。
 しばらくして届いたピザと飲み物を受け取ってからアパートへの道を歩く。絹水はあの店のピザがなぜか好きだった。あの店は生まれてからピザが食べたいと言った絹水が初めて食べた店だったからだろうか。それとも初めて二人で一緒に食べたのがきっかけなのかもしれない。
 絹水はキースの手に自分の手を重ねてぎゅっと握った。キースは絹水の手を引いて歩き出す。
「もうお腹ぺこぺこ!早く帰って食べましょう!」
「ククッ、ピザは逃げねェよ」
「だって待ちきれないんだもの」
「わかった、わかった」
 キースは絹水の手を握り返してやると、そのまま引っ張るようにしてアパートへと戻った。いつもより清潔な匂いがする自室はなんだか不思議な気がした。いつもはタバコとアルコールの匂いが充満しているのに、今は柔軟剤の匂いが満たしている。
 テーブルの上にピザを置いて、買ってきた飲み物を並べる。飲み物はキースがジンジャーエール、絹水がコーラだ。ビールばかり飲んでいてはいいことはないわ、と彼女に言われてたまには、と選んだものだった。甘いジュースはキースの好みではない。
「それじゃあ……いただきます」
「おう、食えよ」
 キースはそう言いながらも、絹水に渡すためにピザを一切れ取ってやった。とろりとチーズが糸を引き、生ハムが今にも落ちそうなくらいに乗せられている。安くて具材もたっぷりと使ったあの店のピザは人気だが、最近は特にキースもお得意様になっている。絹水が好んでピザを頼んだり、買いに行ったりしているからだ。
 彼女はそれにかぶりつき、幸せそうな顔をして咀しゃくを繰り返す。
っ!!美味しい……!!」
「本当にピザ好きだな、テメェは」
「えぇ、大好き!!」
 絹水の声を聞きながらキースは一切れ目を口に運んだ。確かにうまいなと思ったが、それだけだった。
 キースにとって食事とは生きるために必要な行為でしかない。腹を満たすだけの作業でしかなかった。しかし絹水と一緒に食べると不思議と食欲がわいた。それはきっと彼女がいるからだ。
「ピザはもちろん好きだけど、キースと食べるピザが一番好きよ。少し家に戻っていたけど、一人で食べるごはんは美味しくないわ」
「オレは毎日ピザでも構いやしねェがな」
「たまにはピザ以外のも食べたいけど、それもキースと一緒がいいの」
「わがままなクソガキだぜ、まったく」
「だって好きなんだもん。仕方がないじゃない」
 キースは最後の一切れを口の中に放り込んで飲み込んだ。それから絹水の方を見て、ふと気づく。彼女の口元にピザソースがついているのだ。
「オイこっち向け」
「え?」
 キースは親指の腹で絹水の口を拭ってやる。すると絹水の顔がみるみると赤くなっていった。
「ど、どうしたの急に!?」
「テメェの口にソースがついてたんだよ。オラ、これで取れただろ。とっとと食っちまえ」
 キースはピザの箱を絹水に押し付けるようにして渡してから、またジンジャーエールを一気飲みした。炭酸が喉を焼くような感覚に眉をしかめる。
 絹水は自分の顔を押さえたまま固まっていた。耳まで真っ赤にして恥ずかしそうにしている。キスやそれ以上のこともしているはずなのに、なぜそんなことで固まるのかキースには理解できなかった。
「おい、どうした?」
 キースが声をかけると絹水はハッとしたように身体を動かした。そして何事もなかったかのように振る舞おうとする。
「え、あ……な、なんでもないわ……食べちゃうわね」
 それから食事を終えた絹水はキースの肩にもたれてぼんやりとしている。 放っておいたら今にも舟を漕ぎ出して眠ってしまいそうだ。キースは絹水の頭を撫でながら彼女の髪に鼻を埋めた。石鹸のような香りの後に彼女本来の甘い花の蜜のような匂いもした。彼女が自宅から持ってきたという愛用のジャンプーだ。キースは名前も聞いたことがないようなメーカーのものだったが。
 キースは絹水の頭に頬を寄せて目を閉じた。このまま寝てしまいたかった。
「絹水」
「なぁに、キース」
 彼女が甘える猫のように擦り寄ってくる。キースは何も言わずにされるがままだった。
 この瞬間だけは絹水が自分だけを見ている気がしてキースは好きだった。自分のことを好いている女がこうして自分に寄り添っている。それが不思議と心地よかった。
 想いを伝えあったわけではない。絹水が一方的に好きだと言っているだけだ。未だにキースの方から好きだと伝えたことはない。それでも彼女は満足しているらしい。
 キースが自分を愛してくれていると信じ切っていた。だから不安になることはなかった。
 キースもまた絹水を想う気持ちに偽りはない。けれどその愛情表現は絹水の望むものとは大きくかけ離れていた。
 二人の関係はなんと形容していいかわからない。恋人でもセフレでもない、ましてやただの同居人にしては情が通い過ぎている。
 けれど、キースはこの関係に名前をつけることをやめた。それが絹水とのあり方だと最近思い始めたのだ。
「キース、あなたが好きよ」
「……あァ」
「王国に行った時は正直怖かったの、キースが離れていっちゃうみたいで」
「…………」
 絹水はキースの背中に手を伸ばし、ぎゅっと抱きしめる。彼の体温を感じるだけで絹水の胸は満たされた。
 絹水はキースのことを誰よりも深く愛していた。
 それは親兄弟に抱く感情とも、友人に抱くそれとも異なる。恋と呼ぶ感情を与えたのは他でもないキースだった。バンデッド・キースと呼ばれていた彼が何かを与えるなんて思わなかった。それでも、キースの顔を見ることができない絹水は無償の愛をくれる。絹水はキースのことが心の底から好きだった。だからこそ、彼は絹水にとってなくてはならない存在になっていた。
「テメェはオレがいなくても生きていけんだろうよ。なのに何で戻ってきやがった……」
「そんなことないわ、わたしはあなたのいない世界じゃ生きられないもの」
「クソガキが……」
 キースは絹水のことを度々そう呼ぶけれど、彼女が動じることはない。それはもう既に耳に馴染んだ呼称のひとつに過ぎないから。
「クソガキでいいわ。だって本当のことだもん。キース、お願いがあるの」
「……なんだ」
「キスしてほしいの」
 キースは絹水の言葉に応える代わりに彼女の唇を奪った。何度も交わした口づけのはずなのに、ひどく甘く感じた。キースと絹水の関係は曖昧で不確かだ。けれど二人の間には確かな絆があった。それは目に見えないもので、形にはできないものだ。
 キースにとって絹水は何者にも代え難い特別な存在であることは間違いなかった。それは逆もまた同じことだった。