朝焼けと眠る


「キース、ねぇキース」
「ンだよ、うるせぇな」
 タバコを吸いながらキースは背中に抱きついて甘えてくる絹水を適当にあしらっている。もう見慣れたいつものことだ。
 季節は初夏を迎え、徐々に茹だるような暑さを連れてきている。窓を開けて換気をしても結局暑さしか連れてこない風にうんざりしつつもキースはぬるくなったアイスコーヒーを飲み込む。
「今日はねキスの日なんだって!さっきラジオで言ってたの」
「キスの日ぃ?」
「えぇ、詳しいことはわからないんだけど今日はそうみたいよ」
「んな日なくても毎日のようにしてんだろうがよ」
 たびたび絹水がキースにキスをねだるからほぼ毎日しているというのに、この女はまだキスがしたりないらしい。タバコをもう一度ゆっくり吸ってから紫煙を吐き出す。
 珍しく早朝から起きてキースにじゃれついてくる彼女は上機嫌で、今にも歌い出しそうなほどだ。背中にじゃれついてきてすぐにでもキスをねだってきそうな雰囲気もある。しかしそんな雰囲気もつかの間、キースの背後で小さなくしゃみをしたかと思えば、鼻水が出てしまったらしくティッシュを取りに行ったようだ。
 相変わらず騒々しい奴だと呆れるものの、その騒々しさやころころ変わる表情には愛らしさを感じているし、自分にしか見せない一面であるとも思う。
 ふと、先程まで彼女が座っていた席を見る。そこには空になったグラスと半分以上残っている自分の分のドリンクがあるだけだ。
「あのクソガキ……」
 小さくため息をつくとキースは残りのコーヒーを飲み干して立ち上がる。グラスを流し台に置いてからもう一本タバコを吸おうと火をつけた。
 キスの日とやらは今日はじめて知ったが、スマホで調べてみるとキスをするカップルの写真や動画が多くヒットする。なるほどこういうことか、とキースは一人納得した。
 やっぱりふざけたクソガキだ、と思う。かつてバンデット・キースと揶揄されていた自分を知っているはずなのに、彼女は自分にこういうロマンスを求めるのか。別に嫌ではないが、もう少し恥じらいを持ってほしいものだ。
 ロマンスや恋愛は長年キースには無縁だったもの、だが絹水によってもたらされたものでもあった。
 彼にとってキスというのは大して意味を持たないものだったはずだ。けれど、絹水と共に暮らすようになってからは少しずつ意味を持つようになっていた。盲目の彼女はスキンシップを大切にしているようで、毎日のようにキスをせがんでくる。最初は面倒だったが、今は彼女なりに自分を好いてくれていることを理解していたし、何より絹水の柔らかな唇に触れるたびに胸の奥底から温かな感情が生まれてくるのだ。それが心地よくもあり、少しだけ恥ずかしかったりする。
(バンデット・キースであるオレがクソガキ一人にここまで振り回されるとはな)
 紫煙を吐き出してまたしばらくネットサーフィンを続けたが、やはり出てくるのは恋人同士によるキスシーンばかりだ。中には舌を絡めるものまであり、キースは眉間にしわを寄せて検索結果を閉じる。こんなことをしている場合ではない。
「オイ、絹水」
「どうしたの、キース?」
「…………チッ」
 鼻をかみ過ぎたのか鼻先を赤くした絹水がいて、キースは思わず顔を逸らす。そして頭を乱暴に掻いた後、彼女の腕を引いて抱き寄せた。そのまま顎を掴んで引き寄せると軽く触れるような口づけをしてやる。
 驚きに目を丸くした絹水がおかしくて調子に乗って舌を絡めてやる。すると彼女は嬉しそうに笑ってぎゅっと抱きしめてきた。まるでよく懐いた飼い犬のような素直さだ。
「キース、もっとしたいわ……」
 甘えた声でねだられて仕方なしに何度か角度を変えてキスを繰り返す。絹音は幸せそうに笑うばかりで、キースもだんだんと気分が良くなってきた。しかしそろそろ限界だろう。
 最後に一度ちゅっ、と音をたてて離れれば絹水のほおはすっかり上気していて満足げな様子だ。キースもまた同じように満足していた。
「っ……め、珍しいわね、キースからキスするなんて」
「たまにはな」
 顔を真っ赤にした絹水と目があって少し気分が良くなる。いつもやられっぱなしではキースのプライドが許さなかった。しかしキースもキースで顔が熱くなる感覚を覚えていて、それを誤魔化すようにタバコに火をつける。
「朝からテメェが変なこと言うからだろーが」
「何も変なことなんて言ってないわよ、キスの日ねって言っただけよ」
「それが問題なんだよ!」
 キースが怒鳴りつけると絹水はきょとんとした表情で首を傾げる。それからくすくすと笑った。
 キスの日だなんて朝から変なことを言うからキースまで感化されてしまっただけだ。一時の気の迷いだろう。
「今日はどこかに出かける?」
 キースの腕に寄り添うようにして尋ねてくる絹水に、彼は小さくため息をつく。
「出かけねぇよ」
「どうして?デートしたいじゃない」
「ンなもんしなくても一緒に住んでんだからいつでもできるだろ」
「そうだけど……でも今日キースと一緒に出かけたいわ。ここ最近雨ばっかりで出かけられなかったもの……」
 確かに初夏に入ってからというものずっと雨続きで外に出るのは億劫になっていた。雷がひどくなるとパニックになる絹水を連れて出かけるのは得策ではないとキースは考えている。
 街中でパニックになって泣き叫ぶ絹水を抑えられるとは思えないから。下手をすれば手を上げてしまいそうだ。
「それに、キースと手を繋いで歩きたいの」
「そんだけでいいのかよ」
「久しぶりにピザも食べたいわ。ナゲットとポテトのセットをつけて、コーラも飲みたいし……あと……」
「わかったから落ち着け。とりあえず外出る準備しろ。支度したら出かけるぞ」
「えぇ!」
 キースの言葉に絹水は嬉しそうな声をあげて飛び跳ねる。パタパタと揺れる尻尾まで見えそうなほどだ。そんな彼女を尻目に彼はいつものようにスマホでピザの予約を済ませておく。そうすれば待ち時間なく受け取れて、早めに帰れるから。
「キース、早く行きましょう!わたし、もう待ちきれないわ!」
「オイ、焦んな。ピザは逃げねェよ」
「だって、キースと出かけられると思ったらそわそわしちゃうわ」
 にっこりと微笑む絹水にキースは小さくため息をつく。この女は本当に自分のことが好きなようだ。キースとしては今までの人生の中で甘い経験などしたことがなく、誰かと付き合うということ自体はじめてだった。だから絹水との付き合い方もよくわからない。
 したとしてもワンナイト程度の付き合いだった。
「さっきキスしたじゃねぇか」
「まだ足りないわ、出かけてからもたくさんしたいもの」
「……クソガキ」
 悪態をつくキースだったが、彼のほおは僅かに赤く染まっていた。絹水が見えないのがせめてもの救いだった。
 白杖を手にした絹水にひじを掴まれてようやく出発する。
 女は準備に時間がかかるのよ、なんていつだったかラジオで流れていた声を思い出した。
 外は本当に気持ちのいい快晴で、久しぶりに浴びる日光にキースは目を細める。眩しすぎて目を焼かれてしまいそうだ。
「サングラスかけてきたか?」
「えぇ、晴れてる時はかけろってお医者さんから言われてるから」
「ならいいけどな」
 キースがかけているサングラスより色の薄いそれをかけている絹水を見るのは久しぶりだ。雨の日、とくに雷雨の日には出かけられないから出かけること自体久しぶりだったから。
「どこ行くの?」
「あぁ……まァ、適当にな」
「あら、決めてなかったのね」
「うるせェよ、テメェが急かすからだろーが」
「ふふ、そうね。ごめんなさい、キース」
 謝りながらも絹水は嬉しそうにキースのひじを引く。その笑顔に毒気を抜かれてしまって、おとなしく歩くことにする。絹水の歩幅に合わせてゆっくりと歩くのもたまには悪くないと思う。
 白杖を持った絹水と街中を歩くといろいろなことが目につくようになった。例えばちょっとした段差や階段、それから道のくぼみなんかも。
「おい、段差あるぞ」
「え、きゃっ!」
 言った側から小さな段差に足を取られてつまずく絹水を支えてやる。意外とそそっかしいところがあるのも最近気づいたことの一つだ。ピザが絡むとなおさらだということも。
「だから言ったろうが……」
「ご、ごめんなさい……キースと出かけられるのが嬉しくて浮かれてたわ」
 しゅんとする絹水をキースはじっと見つめる。それから少しだけ絹水に近づいて手を握る。
「キース……?」
「迷子になっても困るだろ」
 ぶっきらぼうに言い放つキースに絹水はくすっと笑う。そして握り返された手に安心して歩みを進めている。
 いつものピザ屋で注文しておいた品物を受け取って、途中の公園で座って休憩した。疲れたと言い出した絹水を放っておけばあとあと面倒なことになる。キースは絹水の手を引いてベンチへと誘導する。すると彼女はすぐに座り込んでしまった。
「おいおい、大丈夫かよ?まだ家まで歩くぜ?」
「……だ、大丈夫よ。久しぶりに出かけたから疲れちゃって」
「このクソガキが」
 キースは呆れたように呟いて絹水のとなりに腰掛ける。まだ誰かがとなりにいるということには少し慣れない。一緒に暮らしていても何をしていても、キースは絹水に出会うまでは一人だったから。
「ねぇ、キース」
「ンだよ」
「キス、してほしいわ。ここで」
「は?」
 唐突すぎる言葉にキースは眉を寄せる。だが絹水はキースの服をくいっと引いてもうキスをねだる体勢に入っている。キースは絹水の顔を見て、それから視線を下げる。
「ここ、外だろうが」
「誰もいないわ」
「そういう問題じゃねェよ」
「わたしは構わないわ」
 側から見れば微笑ましい光景なのだろうか。けれど、二人は恋人でもなんでもない、拗れ切った依存関係を続けているにすぎない。
「キースとキスしたいの。だめかしら」
「……」
「お願い、キース」
 懇願するように言われてキースは観念した。こんな風に言われたら断れない。絹水と出会ってから何度も同じやり取りを繰り返している。いつも結局折れるのはキースの方だった。以前の自分ならば唾でも吐きかけて立ち去るところだが、ずいぶんと絆されてしまった自覚はあった。キースは絹水の隣に腰掛けて、絹水の顎に手を添えてこちらを向かせる。
「これで満足か」
「えぇ……ありがとう、キース」
 絹水はキースに礼を言うと自ら唇を重ねる。
 触れるだけの優しい口づけ。それでも、キースにとっては十分すぎた。
「……帰るか」
「えぇ」
 二人並んで立ち上がる。キースは白杖を持ち直した絹水に手を貸す。
「帰ってピザ食うぞ、腹減った」
「わたしもお腹すいたわ、早く帰りましょう!」
「おう」
 キースが返事をして歩き出す。それに続いて絹水はゆっくりと歩いていく。こうして今日もまた、キースと絹水の生活は続いていくのだ。
 アパートへ帰り着くと二人はテーブルにピザを並べて、ポテトとナゲット、飲み物を広げる。
「おい、先に食うなよ」
「わかってるわよ」
「ならいいけどよ」
 キースが買ってきたのはチーズたっぷりのピザだ。トマトソースが溢れ出しそうなほどに詰め込まれたそれに、絹水は早速手を伸ばす。キースも自分の分を取って食べ始める。
「んっ!美味しい……!!」
「いつ見ても美味そうに食うな」
「だって美味しいんだもの!」
 絹水は幸せそうに笑ってまた一切れ食べる。それを横目に見ながらキースももう一切れ取る。
 ふと絹水の方を見ると口の端にトマトソースがついていることに気づく。彼女はどうやら気づいていないらしい。
「おい、口についてるぞ」
「え?どこ?」
「そこだ、そこ」
「えーっと……あっ!」
 絹水は指で拭おうとするが、なかなかうまくいかない。キースはそんな絹水をじっと見つめて、それから彼女の手を取った。
「……仕方ねェな。動くんじゃねェぞ」
「えっ……?」
 戸惑っている絹水を他所にキースは絹水のほおに手を添える。それから親指の腹を使って絹水の口をなぞる。
「取れたぜ」
「…………」
「オイどうした?」
「……キースがとってくれるって思わなかったんだもの」
「ハッ、生娘じゃねェのに何言ってんだ」
 キースはそう言ってから絹水のあごを掴んで自分の唇を彼女のそれに重ねる。絹水は驚きながらも抵抗せずに受け入れる。そしてキースが離れると、彼女は真っ赤になって俯いていた。
「キスの日、なんだろ?」
「っ!!」
「オレもたまには甘えてみようと思ってよ」
「……甘えられてもわたしは何も出来ないわよ?」
「別に構わねェよ」
 そう言ってもう一度唇を重ねる。やはりやられっぱなしは性に合わない。バンデット・キースがやられたままだなんてどんな笑い種になるか。だが、それもこれも許せるのは絹水だからなのだけれど。