嘘吐きの花束


 それは絹水と出会ったのと同じ、気持ちのいい初夏のこと。彼女と出会ってから一年が経とうとしていた。
 こもった空気を押し出すように窓を開けて換気をして、いつものようにキースはタバコをくゆらせている。彼のとなりにいることがすっかり当たり前になってしまった、盲目の同居人はいつだったかキースが与えたビー玉を手のひらで転がして遊んでいた。
 ころんころん。ころころ。
 飽きもせずによく遊んでいられるものだと思いながら、怒涛のようにすぎた一年だったと思い返した。絹水と出会ってからは色々なことがありすぎて、正直あまり思い出したくないこともある。酒とドラッグに溺れ、危ういギャンブルに手を出していた頃に出会ったこの奇妙な女は瞬く間にキースの一番柔らかな部分にこっそりと収まってしまった。逃げようとしてもなかなか逃げられずにクモの糸に絡め取られた羽虫のような気分だ。バンデット・キースと揶揄され、疎まれていた自分が、である。
 決闘者の王国で大怪我をしたキースがしばらく入院して家を空けていた時期を除けば、ほぼずっととなりにいる絹水は今日も変わらずにラジオに耳を傾けている。流れているのはいつもと同じ番組で、柔らかい声で小説を読み聞かせをするものだった。本を読まないキースから見れば何が何だかわからないのだが、彼女はその番組がお気に入りで毎日同じ時間に掛かっている。それ以外はだいたいデュエル大会の中継をかけているが、気づいた時には寝落ちているのがお決まりだった。
「あっ」
 かつん。
 手のひらで転がしていたビー玉を落としてしまったらしく、絹水は小さく声を上げた。どうやらまた眠ってしまっていたらしい。慌てて起き上がると、テーブルの上に転がっているビー玉を探し始めた。
 視力のない彼女にとってガラス片は危険だから、拾わせるわけにはいかない。そう思ったキースが手を伸ばすよりも先に、彼女が指先でそれを拾い上げた。つるりとした感触を確かめるように何度か撫でたあと、そっと唇を寄せると口づける。ちゅ、という可愛らしい小さな音がした。
「ふふ、あったわ。自分で見つけられたのよ、キース!」
 得意げにまあるいビー玉を見せてくる絹水に一つため息をついてからキースは言った。
「まぁ、いいんじゃねェのか」
 すると彼女は一瞬驚いたような顔をしてから、ゆっくりと微笑んだ。それからもう一度ビー玉にキスを落とすと、ぎゅっと抱きしめるように胸に抱え込んだ。
 まるで宝物を扱うみたいに大事にしているのを見て、キースは何も言えなくなってしまった。そんな風に大切にされるとむず痒くて仕方がないのだけれど、絹水があまりにも嬉しそうな顔を見せるものだから何も言えないままなのだ。
「ビー玉くらいいくらでもあるからそれを大事にする必要はないんじゃねェのか?」
「ううん、これがいいの。だって、これはキースがくれたビー玉よ。ビー玉はたくさんあっても、キースが初めてくれたビー玉はこれだけだわ」
 言い切った彼女の瞳がまっすぐにこちらを見つめていて、なんだかもうこれ以上何かを言うことはできなくなってしまいそうだ。
 キースは絹水のこういうところが苦手だった。真っ直ぐに見つめられて、優しく手を握られてしまうとどうしたらいいかわからなくなってしまうからだ。
 絹水と出会ってからの一年、本当にいろいろなことがあったと思う。思い返せば返すほどに、彼女と出会ってからの自分の変化に戸惑ってしまうことばかりだ。絹水と出会う前の自分はこんなにも感情豊かではなかったし、誰かを大切に思うなんて考えもしなかった。今となっては考えられないことだ。あの頃の自分に戻ったところできっと上手くやっていけないだろう。
 それなのに、どうしてだろう。絹水のとなりにいることを心地良いと思ってしまうのだ。
 キースが黙ったままでいると、絹水は不思議そうに首を傾げた。見えないというのに、まるで彼女の挙動はキースの心を見透かしているようだ。
「キース、好きよ」
「……ああ」
「キースは……、わたしのこと、好き?」
「さァな」
「意地悪しないで教えてちょうだい」
 絹水は甘えるようにキースの腕を引くとそのまま抱きついた。絹水はスキンシップが多い方だが、最近は特に距離が近い気がする。出会ったばかりの頃はここまでベタベタとくっついてこなかったはずだ。それが今は、キースが少しでも動けば触れてしまうくらいの距離にいることが増えた。
 絹水はキースの首筋に頬を寄せてぐりぐりと額を押しつけている。キースは絹水を引き剥がすことなくされるがままにしていたが、絹水は一向に離れようとはしなかった。むしろ、キースを抱き締める腕に力を込めてきた。
「キース……?」
「…………」
 絹水はキースのことを好きだと言うが、キースは彼女のことが好きなのかよくわからなかった。ただ、嫌いではない。
 好ましい分類ではあるが、自分の言葉を口にすることがどうしてもできないのだ。絹水に好意を伝えることができない理由は明白だった。
 キースは絹水に恋をしているわけではない。ただ、絹水を失うのが怖いだけなのだ。
 絹水はいつもキースに優しい言葉をくれる。それは絹水にとっては当たり前のことだったかもしれないが、キースには新鮮だった。今まで誰にもされたことのないことだったからこそ、その優しさが特別なもののように思えた。
「キースから好きって言われたことない気がするの」
「そうだったか」
 絹水はキースから離れないまま、ぽつりと言った。少し寂しげに聞こえる声音にキースは何も言えなかった。
「キースが嫌なら無理強いするつもりはないんだけど、でも、いつか言ってほしいわ」
「……」
「わたしは、キースが好きよ。あなたが何を思っていても、どんな過去があっても、わたしはキースのそばにいたいの」
 絹水は柔らかくほほえんでそう言うと、手でキースの顔を探りあてた。いつものように冷たい小さな手だ。
「愛してるわ、キース」
 彼女はそう言って唇を重ねたあと、すぐに離れて行った。そして再び首元にすり寄ってくると、小さくため息を吐いた。
 キースは彼女の体温を感じながらぼんやりと考えた。この女が欲しいと思ったことはないが、それでも手放したくないとは思った。
 いつまでたっても答えを出せない自分がむず痒く仕方がなかったけれど、そんなキースを絹水は許してくれるような気がしたのだ。だから、キースは絹水を手離さないように、彼女を受け入れ続けた。
 絹水と過ごす日々は穏やかで緩やかで、とても心地が良いものだった。あれほど荒みきっていた生活さえ絹水がいるだけで少し落ち着いた感じがある。
「気が向いた時でいいから聞かせて欲しいわ」
 絹水はそう言ったが、キースは未だに彼女に返事をすることができずにいる。
 ちゃんと言いたいとは思う。けれど、キースにはそれを伝える甲斐性はない。キースにはわからない。なぜ彼女がこんなにも自分に構うのか。こんなにもキースを愛してくれるのか。
「……テメェ、なんでオレなんかと一緒にいたいんだ」
 思わずそう問いかけると、絹水はキースのほおに触れながら胸にもたれてくる。甘えたようにくふくふと笑う仕草は猫のようだった。さながらよく懐いた子猫のようだと思う。
「キースのそばが一番安心できるからよ」
「わかんねェな」
「わからなくてもいいのよ。それでいいわ」
 彼女はそう言い切ると、キースに寄り添ったまま目を閉じた。絹水が眠ろうとしていることに気がついて、キースは彼女の頭を撫でてからそっと離れる。
 絹水は眠るとき必ずキースに抱きつくようにして眠る。最初は寝相が悪いだけだと思っていたが、絹水が眠りにつく前にキースを探すような素振りを見せることが増えてきた。きっとキースがいなくなったことに不安を覚えているのだろうと思う。
「……キース」
「あん?」
「好きよ」
「……おう」
 絹水はキースを見上げると、あまく微笑んでそう言った。それにキースが答えることは未だに出来ていない。ちゃんと答えられる時は来るのだろうか。
 絹水の目が見えないことは承知の上で、共に生活することを選んだのは二人だ。
 キースは絹水に恋をしているわけではない。絹水を失いたくなくて、彼女の傍にいることを決めた。ただただ依存しあっている奇妙な関係を続けている。
 絹水もキースもお互いのことを好いているのだと思う。けれど、絹水とキースの間に恋愛感情は存在しない。少なくともキースにはない。それでも、絹水はキースと共にいることを望んでいるようだ。
 絹水はいつもキースに好きだと伝えてくる。それがどんな感情なのか、キースは知らない。
 絹水はキースが何を考えているかなど興味がないようだ。
「タバコでも吸うか……」
 キースの腕の中で寝息を立て始めた絹水を見て、彼は静かに立ち上がった。
 窓を開けてタバコに火をつける。いつもなら換気など気にしないのだが、今日はなんだが気になった。ゆっくりと吸い込み、煙を吐き出す。
 絹水はキースが何も言わなくとも、何がしたいかを察して行動する。だから、絹水に家事を任せても特に問題は起こらない。
 だが、絹水は盲目だ。キースがいなければ一人で生きていけない。
 もう一度絹水の元へ戻って彼女をベッドへ運んだ。絹水は起きる気配もなく、穏やかな表情で眠っている。絹水の顔にかかる髪を指先でどけてやる。絹水はくすぐったそうに身を捩ったが、そのまま再び眠りについた。
 絹水は本当に不思議な女だ。
「……っ、絹水」
 その穏やかな寝顔を見ていると不思議と涙が溢れてきた。どうして自分は泣いているのか。
 わからない。
 ただ、キースは泣きたかった。泣けば何かが変わるかもしれないと思って、けれど結局何も変わらなかった。
 自分のことなのに自分で理解することができないのが情けなかった。
 それでも絹水を失うことを考えたら怖くて堪らなくなった。
「……好き、なんだ、絹水……っ、……」
 キースは声を殺して涙を流した。
「……キース?どうしたの、 悪い夢でも見た……?」
 起こしてしまったのかぼんやりとした絹水はそう言ってキースのほおに触れた。ひんやりとした指先がキースをなぐさめていく。
「だいじょうぶ、わたしがいるわ……」
 絹水はそう言って優しく笑みを浮かべた。
 ああ、やはり自分は彼女が好きだ。
 ──こいつからは、逃げられねェな。
 キースは絹水に口づけをした。
 それはひどく不器用で、拙いものだったけれど、キースは生まれて初めて自分から誰かを求めた。口付けなんて何度もしてきたはずなのに、うまく出来なかった。うぶなティーンになってしまったように、触れるだけの口づけをした。
「キース……?」
 絹水が戸惑ったように名前を呼ぶ。
 キースは返事をする代わりに、再び彼女にキスを落とした。今度は先程よりも長く、深く。
「絹水……好きだ、好きなんだ……」
 キースの言葉を聞いた絹水は驚いたように目を見開いたあと、幸せそうな笑顔を見せた。
「わたしも……大好きよ、キース」
 絹水はそう言うとキースを抱きしめた。そして、甘えるような声で囁く。
「ねえ、キース、もっとキスしたいわ……」
「ん」
 二人は顔を見合わせると、お互いに唇を重ねた。ついばむように軽く何度も唇を重ね合わせる。
「キースとのキス、好きよ」
「……そうか」
「えぇ、……キースは?」
「オレも、嫌いじゃねェ」
「ふふ、よかった」
 絹水はそう言いながら嬉しそうにキースにすり寄ってきた。キースは絹水を引き寄せると、ぎゅっと抱き締める。絹水は抵抗することなく、それを受け入れた。
「キース、好きよ。あなたしかいらないわ」
 絹水はそう言ってキースの胸に頭を預けると、目を閉じた。キースは絹水の体温を感じながら、絹水を離さないよう強く抱き寄せる。きっとこれからもこの関係は変わらないのだろう。それでも、それでいいと思った。絹水がいれば、それだけでいい。
 絹水にはキースしかいない。
 キースには絹水しかいなかった。
 そんな歪んだ関係に名前をつけられる日が来るのだろうか。
 それでも、絹水はキースの傍にいたいと望んだ。
 絹水はキースを愛していると言った。
 ならば、それでいい。このぬくもりさえあれば、他には何もいらなかった。
 絹水とキースの奇妙な生活は続いている。
「やっと好きって言ってくれたわね、キース」
「……ケッ、二度と言うかよ」
 絹水は満足げに微笑んだ。
 キースは絹水のことが好きだ。
 しかし、それを言葉にして伝えることはしなかった。
 絹水に愛していると言われたとき、キースは彼女のことを愛していたのだと自覚した。今まで感じていた感情は愛情だったのだと思い知った。けれど、絹水はキースに好きだと言ってほしいのだ。キースに愛してほしいのだと思う。絹水の望みは叶わないとわかっている。だから、キースはそれを口にすることはないと思う。
 絹水は盲目だ。
 けれど、絹水は盲目であることを嘆いたことはなかった。むしろ、キースが傍にいることで安心できると言っていた。キースがいなくなったら、彼女は不安になるとも言った。
 絹水はキースに依存しきっている。キースがいなければ生きていけない。
「わたしは何度も言うわ。あなたが好きよ、キースがいないと生きていけないわ」
「……本当に物好きだな、テメェは」
 絹水はそう言ってキースにすり寄ると腕の中に収まった。絹水はキースのことが好きだ。だから、キースが離れていくことが怖いのだという。
 絹水にとって、キースは世界の全てだ。
 彼女にとってはキースだけが唯一のひかり。
 キースは絹水のことを愛しているのだろう。
 けれど、その気持ちを伝えるつもりはなかった。絹水が望むならいくらでも愛の言葉を紡ぐことができる。だが、キースは絹水のように素直になれないから。
 それに、絹水はキースが何を考えているかなど興味がないようだ。
「物好きなのはキースもだわ」
 絹水はそう言うとキースの頬に触れて、そっと口付けた。その手つきは優しく、慈しみが込められている。
 絹水はキースが何も言わずとも、何がしたいのか察して行動する。だから、絹水に任せていれば特に問題は起こらない。
「いいから寝ろ……」
 キースは絹水を抱き寄せた。絹水はキースの腕の中で幸せそうに笑う。絹水はキースの温かさを感じながら眠りについた。
 絹水はキースに依存している。
 それはキースも同じことだった。