Episode.3
『リリー。百合の花』
一瞬、自分の名前を呼ばれたのかと思って、心臓がどきりと跳ねた。
まるで愛おしいものを呼ぶかのように優しく甘い響きで、昔から大嫌いな名前を呼ばれた。そんな気がしてしまったのは、彼の瞳が私だけを真っ直ぐに映していたからだ。
小さい頃は、“りり”でよかった。可愛く女の子らしい響きで、口にするのも容易く、呼ばれることに違和感などなかった。『可愛い名前だね』なんて、友達に言われて舞い上がっていた時期だってある。
『りりって、うちの犬と同じ名前だな。りりなんて柄じゃないだろ、お前』
中学生の頃、クラスメイトの男子にはっきりとそう言われた。教室中に響き渡った大きな声は、一斉に私へと注目を集め、向けられたみんなの視線に恥ずかしさと悔しさを覚えたものだった。
あの日以来、私は自分の名前がずっと嫌いだ。
例えば今、初対面の女性がこの名前を名乗ったら、きっと可愛らしい名前だな、とすんなり受け入れることができるのだろう。
自分の名前であるから、許せないのだ。私以外の別の女性であったなら、それは素敵な名前だと思えたのに。
「…高嶺さん、いきなりぞわっとするようなこと言うのはやめてください」
唐突に“マドンナリリー”だなんて、花の知識を殆ど持ち合わせていない私に言われてもいまいちピンと来ない。
それでも“マドンナ”というその言葉だけはいただけない。どう考えても私とは不釣り合いな言葉だ。
「ん?なんでぞわっとするの?君にぴったりだよ、マドンナリリー」
「もういいですから、それ以上言うのはやめてください」
「じゃあ、お互いの名前が分かったところで、お付き合いということでいいかな?」
「お付き合いもしません!」
「え〜、まじか。ショック」
凡そ本当にショックを受けているとは思えない声の調子で呟くと、高嶺さんは椅子を引いて徐に立ち上がった。
私の横にBlue Cloverの文字とロゴが入ったコーヒーカップスリーブが付いたプラカップを持って、マスターの増永さんがやって来たからだ。
「高嶺くん、あんまりうちの看板娘をときめかせないでね。この後使い物にならなくなっちゃうから」
「マスター!」
「白井ちゃん、ときめいてくれてたの?」
「ときめいてませんっ…!」
必死になって否定する私に高嶺さんは楽しそうに笑顔を向けながら、マスターからコーヒーを受け取って、代わりに財布から取り出した小銭を渡した。お釣りのいらないぴったりな金額だ。
「ねぇ、白井ちゃん。リリーって呼んでもいい?」
「ぜったいに嫌ですっ…!!」
「そっか、残念。じゃあ、リリ。今度はデートの誘いに来るから、よろしく」
「えっ」
放心する私を他所に高嶺さんはマスターに挨拶を済ませると、コーヒーを手に爽やかに去って行った。
「リリー」と「リリ」なんて、何が違うと言うのだ。伸ばさないだけマシなのか。
まるで話の通じない高嶺さんに私は愕然としながらも、手に持った青いバラを呆然と見つめた。