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急に目の前に現れた律を見るなり、澄の涙は引っ込んだ。
どうしてこんな所に律がいるのか分からず、頭が混乱する。
「…律、どうしているの…?」
涙で濡れた澄の瞳を見て律は眉間に深い皺を寄せると、問い掛けに応えることなく強い力で彼女の腕を掴んだ。
「来い」
「えっ、ちょっと待って、律…!」
短くそれだけ吐き出して強引に手を引いて走り出す律に対して、訳も分からず澄は掴まれた腕と背後の涌井を交互に見やる。
呆気に取られて立ち尽くす涌井を他所に、律は真っ直ぐにグラウンドを後にした。
「律…!待って…、どこ行くの…!」
掴まれた腕を振り解くこともできないまま前を走る背中に投げかけると、目的の場所もなく走っていた律はその場に立ち止まった。
息を切らしながら澄に一瞬視線を向け、探るように辺りを見回す。
「ねぇ…、どうしたの…」
ぐるぐると疑問が頭の中を巡るが、応えを聞く暇もないまま律はまた澄の腕を引いた。
「えっ…、ちょっと待ってダメ…!まずいよそこは…!」
体育館横にある運動部の古い部室棟が目に入り、律は迷うことなく開いたままになっている一室へと澄を押し込んだ。
澄に続いて自身も中に入ると、躊躇いなくドアを閉める。
「律…、勝手に入って見つかったら大変だよ…」
「…荷物がないから使ってない部屋だろ。鍵を開けたままにしてんのが悪い」
澄の言葉など気にも留める様子もないまま、後ろ手でドアの鍵を回した。
呼吸を整えながら額に滲む汗を手の甲で拭い、不安そうにしている澄を一瞥する。
部屋にはロッカーが壁を背にみっちりと立ち並び、背もたれの無いプラスチック製の長椅子が二つ置かれていた。
他に物がなく今は使われていないその部室は、小窓から光が中に入り込んではいるが仄かに薄暗い。
「私…戻らないと…」
「……さっきの誰。なんでお前は泣いてんだよ」
「…泣いて、ないよ…。さっきのは陸上部の先輩で、誘われて見学に行ってただけで…」
低く咎めるような声に威圧を感じて、澄は視線を泳がせる。
静かな口調ではあるが、律が苛立っているのを感じて意味もなく指を絡めて動かす。
「お前…、俺がなにも知らないとでも思ってんのか」
「……え…?」
「…お前が中学の時、走れなくなって一人で泣いてたの知ってんだけど」
思いもよらない律の言葉に、澄は頬に熱が走るのを感じた。
走れなくなったのは律とは会話をしなくなった後の話だ。
一人でグラウンドで泣いていたことは多々あったような気がするが、まさか見られていたなんて。
知られたくなかったことを知られていた恥ずかしさで俯いた澄へと、律はゆっくり近付いた。
顔を伏せる澄の頬に手を触れ、既に涙の乾いた目尻を指で拭う。
「…泣いてんのに傍にいれないのはきつかった。やっと近くにいれんのに、他の男の前で泣いたりすんなよ」
優しく触れる指先の温かさに澄は顔を上げると、律の真意を推し量る。
感情の読み取れない瞳と数秒見つめ合い、先に視線を逸らしたのは律だった。
「俺は…、お前が礼以外の男と付き合うのは許さない」
どこか突き放すような律の冷たい声色に、澄は表情を強張らせた。
優しい言葉の後に、いきなり突き放してくる。
律の考えてることが、最早全く分からない。
「…なんで、律にそんなこと言われなくちゃいけないの…。礼のことは…ちゃんと考えてるよ…。律は、ただの幼馴染なんだよね…?私が誰と付き合ったって、律には関係ないでしょ…!」
再びぶり返しそうな涙を堪えて言葉を振り絞ると、頭上で短い舌打ちが響いた。
二の腕の辺りを強く掴まれ、背後のロッカーへと乱暴に押し付けられる。
「…お前、ほんとムカつくな」
低く唸るような短い言葉と共に、噛み付くようなキスが澄の唇を塞いだ。