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「逢坂さん、ちょっと走ってみる?」
涌井に付いて陸上部の練習を見て回っていた澄は、唐突な提案に足を止めた。
真意を探るように涌井に視線を向けるが、返ってきたのは相変わらずの屈託のない爽やかな笑顔だ。
「いや、なんか走りたそうだったから。その格好だし、無理にとは言わないけど…軽く流すぐらいで気軽に走ってみたら?」
他意の無い涌井の言葉を聞いて、澄は戸惑ったように瞳を動かした。
傍から見て走りたそうにしていると思われるのは、なんだか気恥ずかしい。
そんなつもりはなかったが、走る生徒達を見て羨ましいと思った気持ちも嘘ではない。
「……じゃあ、一回だけ…いいですか?」
さっと慣れた様子で軽い準備運動をし、涌井に促されるようにトラックのスタートラインに立った。
制服だし、靴はローファーだ。
とても走るような格好ではない今なら、気楽に走れるような気がした。
ただ普通に走るだけ。体力測定の時と変わらない。
タイムさえ計らない今の方が、それよりずっと楽なはず。
「大丈夫?」
「はい、お願いします」
目の前を真っ直ぐ見据える。
見慣れた景色がそこにはあった。
“澄の走ってるところ、好きだったよ”
礼の言葉が、澄の背中を後押しした。
涌井の合図と同時に、構えていた澄が勢いよく走り出した。
走り出した瞬間、練習していた複数の生徒が思わず彼女に視線を向ける。
制服のスカートを靡かせながら走る姿に目を奪われ、釘付けになった。
ほんの数秒の出来事ではあった。
まるでガス欠を起こした車のように、100mのゴール目前で速度を落とすと澄はピタリと動きを止めた。
軽く流す程度には見えない瞬発力で走り出した彼女は、その場の人達の視線を一斉に浴びたまま動かなくなってしまった。
呼吸を整えながら俯いて身動きひとつしない澄の元へと、涌井は急いで駆け寄る。
「逢坂さん!どうしたの?大丈夫?」
慌てた様子の涌井を視界に捉えると、澄は困ったように笑顔を向けた。
「すみません、大丈夫です」
「怪我とかしてない?」
「はい、なんともないです。急に止まっちゃってごめんなさい」
「いや、それは全然いいよ。…というか、びっくりした。逢坂さん…すごく綺麗なフォームで走るから」
驚いている涌井を前に、澄はなんとも言えない表情で力無く微笑んだ。
それと同時に、ぽろりと目の端から涙が零れ落ちる。
「……逢坂さん?」
「っ…、あれ…なんで…、」
澄の意志に反してぽろぽろと無数に流れる涙が、頬をつたって地面に落ちた。
泣くつもりなどなかった筈なのに、涙が勝手に溢れ出て止まらない。
走れるはずだった。
走れていたはずなのに、中学時代に植え付けられた恐怖が一瞬頭を過り、足が竦んだ。
「逢坂さん、ごめん。俺が無理言ったから…」
「ち、違うんです…、先輩のせいじゃないです…ごめんなさいっ…」
心配そうにおろおろしながら、涌井は優しく澄の背中に手を回し顔を覗き込む。
涙を隠すように手で目を擦る澄の姿が痛々しく、胸が締め付けられる。
「―――…澄!」
突如少し離れた位置から呼び声が聞こえ、澄はそっと顔を上げた。
息を切らして走って来る律の姿が目に飛び込んできた。