▼ Episode.5
玄関前のレンガ調タイルを箒でせっせと掃きながら、雛は小さく溜め息を吐き出した。
先程の葵とのやり取りが頭から離れない。
葵に負担がいく事は最初から分かっていたことだった。
自分一人でこの屋敷で働くことなど、それこそ執事の彼が許してはくれない。
それでもどうしても、雛にはこの場所で働きたい大きな理由があった。
自分のどうしようもない我儘に付き合わされるのはいつも葵だ。
文句ひとつ言わずに付き従うのは彼の立場を考えれば当然なのかもしれないが、雛にとって彼は執事である以上に「好きな人」なのだ。
今まで以上に多忙にさせているのが自分という事に、胸が痛む。
「とにかく、頑張る」
自分の今やるべき事を頑張るしかない。
風に舞って飛んできた葉っぱなどを一ヶ所に集めるように掃いていると、背後の玄関ドアがガチャッと音を立てて開かれた。
思わず振り返って出て来た人物を確認し、使用人の制服を着ていない私服の若い男を認めると、雛は慌てて背筋を伸ばした。
「お、おはようございます」
「あー、おはよ」
男は上着のポケットに手を入れながら雛を一瞥し、見慣れた光景とばかりに横を通り過ぎていく。
その際に雛と一瞬目を合わせると、ふとその場で足を止めた。
「…初めて見る顔だな。新入り?」
「あ、は、はい。今日から入りました、北村雛です」
「へぇ、若いな。年は?俺と変わんないだろ」
「えっと、十七です。この春高校三年になります」
「タメじゃん。春休みだってのによくやるな」
そう言って笑う目の前の人物に、雛の心臓はばくばくと鼓動を速めた。
明るい茶色の髪をワックスで無造作にセットし、バランスの整ったやんちゃそうな笑顔を雛に向けている。
両耳に光るピアスが印象的な彼は、写真で見た表情の無い顔よりもずっと朗らかで話しやすい雰囲気を醸し出していた。
「あの…あなたは…」
「ああ、新人だもんな。蒼井陽介、この家の息子だよ。ちゃんと覚えといて」
訊ねられたことを不快そうにする事もなく、蒼井陽介(アオイ ヨウスケ)と名乗った彼は楽しげに笑った。
彼の名前を、雛は知らなかったわけではない。
去年の秋頃から、ずっとその存在を知っていた。
この屋敷で使用人として働く事を決めた大きな要因が、彼なのだから。
あの日、唐突に葵が口にした言葉は、今も雛の中でもやもやと渦巻き続けている。
『雛さまと蒼井財閥ご子息の方とのご婚約のお話が出ています。如何なさいますか』
初めて彼が専属執事になった時と同じような、抑揚のない機械的な言葉だった。
表情を一切変えることなく葵の口から放たれた言葉は、雛の心を深く傷付けた。
▼ ▲