Episode.6



どうしてそんな、まるで何でもない事を言うように。

『婚約って…、結婚するってこと…?』

『正式にご婚約が成立すれば、いずれはそうなるという事です』

相変わらずのポーカーフェイスでそう口にする葵からは、感情が何ひとつ読み取れない。
雛は突然鈍器で殴られたような衝撃に眩暈を覚えながらも、彼の言葉の意味を懸命に考えた。

父である拓郎が、雛の意思を無視して勝手に婚約を決める筈がない。
だからこそ葵は『如何なさいますか』と尋ねたのだ。
断ることができる、という事なのだろう。

『お相手のこともよくご存じではないと思いますので、お断りいたしますか?』

僅かに声に主を気遣う気配を滲ませる葵へと、雛は俯いていた顔をゆっくりと上げた。

『……葵はどう思うの?』

たった一言。
欲しいのは、知りたいのは、葵の感情のこもった本心だ。
淡い期待を込めて口にした雛の言葉は、いとも簡単に裏切られた。

『決めるのは雛さまですから、この件で私が発言できることはありません』

なんて従順。生真面目にも程がある。
助言のひとつもくれないなんて。
自分の発言ひとつが雛の選択を揺るがす可能性を秘めている事を、彼は知っている。
自らの意志で決めろと、この執事は暗に言っているのだ。

発言しない事が、雛の選択を決定づけているとも知らずに。

『…今決めることが難しいようでしたら、旦那様にはお時間を頂けるようお伝えしておきます』

単調な葵の言葉に、雛は小さく首を横に振った。

『いい、必要ない。お受けしますと、伝えておいて』

思いのほか冷たい声が自分から出たような気がした。
怖くて葵の顔を見ることができない。
あの美しく整った顔が、今も尚なんの感情もなく自分を見ていたらと思うと、息が苦しい。

『……どういう意味か、きちんと理解されているのですか?』

『分かってる、ちゃんと理解してる。分からないほど、子供じゃない』

『正式に決まれば、もう簡単に破棄することはできなくなりますよ』

『分かってる…っ!分かってるから…、もう出てって…』

涙を堪えて力無く俯いた雛を葵は暫く静かに見つめていたが、『分かりました』と小さく息を吐き出した。

『旦那様にはお受けする旨をお伝えしておきます。失礼いたします』

言葉の後にぱたんと閉まったドアの方へ雛は顔を向けると、そこに葵の姿はなかった。
自分が追い出したのだから当然だ。

最後まで彼は、雛の欲しい言葉をくれなかった。

『やめろ』と言ってほしかった。
ただそれだけ、その一言だけでよかった。

自分が誰と一緒になろうと、葵にとっては関係のないことなのだと思い知らされた。
彼がいつも傍にいてくれるのは、執事の仕事を全うしているだけなのだ。

つうっと堪えていたものが一筋頬をつたうと、それを合図に堰を切ったようにぽろぽろと瞳から大粒の涙が溢れ出した。

『受ける』と言えば、止めてもらえるとでも思っていたのだろうか。
勝手に期待して、勝手に傷付いている。

どうしようもない惨めさが、酷く心を蝕んだ。





  
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