Episode.8



「ふわぁー!疲れたぁー!」

ベッドに腰掛けた雛はぼふっと背面から柔らかな弾力に倒れ込み、躰を伸ばすように両手を上にあげた。
夕食を複数の使用人達と済ませ、やっと自室でのんびり過ごす時間がやってきたのだ。

初日はひたすらに掃除掃除の一日だった。
蒼井邸には使用人が多くいるらしく、新人である雛の仕事はほぼ広い屋敷の掃除に割り当てられた。
給仕や家人との接触は一切なく、とにかく掃除だけをしていたのだ。
これも恐らく雛にできる仕事を葵が割り振ってのことだろう。

「雛さま、着替えを済ませてからベッドに横になるようにしてください」

「分かってるよ〜、少しだけ許して」

雛に用意された使用人専用の一室で、躰をベッドに横たえたまま疲れた声でそう答えた。
当たり前のように執事の葵は雛に付いてこの部屋に入り、ティーポットから紅茶をカップに注いでいる。

「働くって大変だね。葵、いつもありがとう」

横になったことで急激に眠気に襲われ、うとうとと目を瞬きながら言葉を発する雛の元へと葵は静かに近付いた。

「…お疲れだとは思いますが、このまま寝てはダメですよ」

口許に薄っすらと笑みを浮かべて雛の耳にかかる眼鏡を外すと、彼女の開かれた大きな瞳を覗き込む。

「やはり着替えのお手伝いが必要でしょうか?」

冗談混じりにそう口にする葵へじっとりと睨むような視線を送るが、思いのほか近くにある自分を見つめる端正な顔に雛の頬は徐々に熱くなる。

「着替えはいいから、葵も少しは休みなさいよ」

「雛さまの傍にいられるだけで、充分休息になっていますよ」

「もぉ〜、そうやって誤魔化すんだから。じゃあ座って一緒にお茶してくれる?」

「ご一緒してよろしいのですか」

「うん、それが葵の仕事だから」

「それはまた…、役得ですね」

「ふふ、そうでしょうとも。はい!」

「…なんですか、その手は」

「起こして」

両手を葵の方へと上げて、ベッドに横たわったままにっこりと微笑む。
雛のあどけない表情に葵は困ったように口角を上げると、彼女の伸ばされた両手を掴んで優しく引っ張り上げた。
起き上がった躰はベッドに腰掛ける形となり、雛は嬉しそうに笑って葵の手を握り締めた。

「…まったく、いつからこんなに甘えん坊になったのですか。それとも、もうホームシックにでもなってしまったんですか?」

「ホームシックになったって言ったら、一緒に寝てくれる?」

「業務時間外ですから、高くつきますよ」

「この仕事のお給料が出たら払ってあげる」

思いがけない雛の返しに葵はほんの一瞬虚を突かれた顔をすると、すぐにいつものように笑みを浮かべてその場にしゃがみ込んだ。
ベッドに腰掛ける雛と目線の高さを合わせ、握ったままの手に僅かに力を込める。

「雛さまが苦労して稼いだお金で、私の時間を買うんですか?」

「そうだよ、いい提案でしょ?私の働いた時間とお金を全部葵にあげるから、葵の時間を私に頂戴」

「……価値が見合いませんよ」

「じゃあ、いいってこと?」

「雛さまから金銭を頂くことはありません」

「なにそれ。結局だめってことなのね」

「そうなりますね」

楽しそうに含み笑いをする葵を見て、雛はぷくっと不満気に頬を膨らませた。
からかわれているのだろうか。

「そんな顔をしてもダメですよ。さぁ、紅茶が冷めてしまいますから、こちらへ」





  
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