▼ Episode.7
数ヶ月前のあの日の記憶が蘇ると、雛は今でも気持ちが沈んでいくのを感じていた。
今自分の目の前にいる相手は、間違いなく婚約者である蒼井陽介だ。
雛側が了承をした事により、正式に婚約が決まったのだ。
よく知りもしない相手との婚約など、彼はどう思っているのだろうか。
雛はそっと窺うように、目の前にいる婚約者へと視線を向けた。
多少見た目を変えているとは言え、今話している使用人が自分の婚約者だと気付かない程度には興味がないのかもしれない。
「陽介様は、今からお出掛けですか?」
「そう、家にいても暇だろ。お前も一緒に行くか?」
「い、行きません!お仕事中ですから!」
「真面目だなー」
「普通です…!」
「あっそ。まぁ頑張れよ、新人」
「が、頑張りますっ…!」
雛の真剣な態度に陽介は笑みを浮かべてその場を立ち去ろうとするが、ついでとばかりに声を上げた。
「北村、あんまり気張りすぎるなよ。手抜いたって問題ねーから。屋外はどうせ清掃業者が週一で来てるからな」
にやり、口角を上げてそれだけ言うと、ひらひらと手を振って去って行った。
「えぇ〜…」
一気にやる気が失せる一言を言われ、肩から力が抜けた。
意地が悪いのか親切心なのか、判断ができない。
それでも今は、婚約者との初めての会話が終了した事に安堵の息を漏らした。
「…歩いて出掛けるんだ」
陽介の後ろ姿をぼんやりと見つめながら、一人小さくそう呟いた。
わざわざメイドとしてこの屋敷で働く事に決めたのは、婚約者である蒼井陽介のことを知りたかったからだ。
何せ彼は、婚約が決まったあと初めて行われた顔合わせに姿を見せなかったのだ。
着飾って緊張して待っていた自分が心底馬鹿みたいだったことを思い出し、雛は苦虫を噛み潰したような顔をした。
そっちがその気なら、こちらから出向いてその素顔を丸裸にしてやるんだ。
『そのような事は、あまりおすすめしませんよ。雛さまに使用人が務まるとも思えませんし』
嫌そうな顔でそう口にした葵の言葉も癪に障った。
それでも雛の提案を受け入れ、彼はこうして付いて来てくれたのだ。
葵の優しさを無駄にするわけにはいかない。
この短い期間に婚約者がどんな人物かを見極める。
そして、覚悟を決めて、執事の葵への恋慕を断ち切るのだ。
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