式の当日-A
こんなにも咲弥と仕事以外の件で会話をするのは初めてではないだろうか。
咲弥の心理が分からず、加賀美はどきどきと早鐘を鳴らす心臓部を手で押さえた。
『…加賀美、お前は俺の唯一の良心だ』
「え……?」
『乃愛がお前を大切に想っている。だから俺はお前をもう傷付けない。だが、すべての人間にそうできるわけじゃない』
「……どういう、意味でしょうか…?」
『…俺は隙を作れない。乃愛の存在を親父は知っている』
低く呟かれた咲弥の言葉に、加賀美は目を見開いた。
それが何を意味するのか、分かってしまったからだ。
『知っていると言っても、乃愛の事は俺のお気に入りの玩具とでも思っているだけだ。特別な何かであるだなんて微塵も考えていない』
淡々とそう口にしながら、咲弥はネクタイを結び始めた。
後ほど着替えるとは言え、きっちりとスーツに身を包むところは咲弥の潔癖な性格を表している。
『俺が今までと違う素振りを見せれば、乃愛の存在を疑問に思う可能性が出てくる。目を付けられたら終わりだ。乃愛がどんな目に合うかは、お前には分かるだろ』
ぞっとした。
それだけは絶対に避けなければならない。
『…まぁ、手は出させない。そうなる前に乃愛を殺して俺も死ぬつもりだ』
「そ、そんなこと…、仰らないで下さい…!」
『万が一の話だ。俺はこの屋敷の長男で、親父の跡を継ぐ。親父には逆らえない…そういう風に育てられている。このふざけた結婚も、乃愛を守る為なら喜んでする』
『…俺はこれからも、お前と乃愛以外には残酷であり続ける。だからお前は、人間としての俺の唯一の良心だ』
自分に背を向けている主の顔が、今は分からない。
どんな顔で言っているのだろうかと、加賀美は呆然とする意識の中でそんなことを思った。
「咲弥様…どうして私に、話して下さったのですか…」
『…さぁ、知っておいて欲しかったんだろ。一人ぐらい。俺にとって、どれだけ乃愛が大切な存在かってことを』
そう言うと咲弥はスーツの上着を羽織った。
ピシッとした黒のスーツが、長身の彼には良く似合う。
『それと、もうひとつ』
隙なくスーツを着こなすと、咲弥はゆっくりと加賀美の元へと近付いた。
口許に笑みを浮かべているが、目が笑っていない。
そのどこか冷淡な表情が、綺麗な顔立ちのせいか迫力を増している。
『…加賀美、俺のことはいくら裏切ってもいい。乃愛のことだけは…、裏切るなよ』
顔を近付けてそう静かに笑うと、加賀美は躰を硬直させた。
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