17
家に帰ったら誰もいなかった。談さんは今日、仕事で帰って来られるかわからないって言っていたっけ。制服を脱いで部屋着になり、こたつに入って横になる。眠くてたまらないけれど眠れない。
一日体調は悪くなかった。頭の中にあの、朝見た白黒の男の人がちらつく以外は。あの人は何かおれの記憶に関係あるのかもしれない。が、接触するのも怖かった。底なし沼の淵に立たされ肩を押されそうな、そんな怖さ。
寝返りを打つ。古びた床、古びた玄関ドア。もうずっとここにいる。ひとりぼっちなのにこうしてドアを見ると、誰かが開けて帰って来てくれるような気がする。そんなことがあるはずもないのに。
トン、とドアが鳴った。
風かと思ったが、トントン、と、明らかに人が叩いているだろうリズム。談さんは合鍵があるはずだし、時間が早すぎる。誰?
「……夏輔さん」
木の板越しでくぐもった低い声。聞き覚えが、かすかにある。どこだっただろう。
「ナツくん。いる? 開けてくれると嬉しいんだけど。男子高校生の部屋の前に怪しいおっさんがいるって通報されちゃう」
「……どちら、さまですか」
「開けてくれたらわかるよ」
怪しいのに、足は立ち上がる。糸で引かれるように玄関へと立った。声がいけない。低い低い穏やかな声。
「おれのこと、知ってるんですか」
「知ってるよ、何もかも。小さい時はミニカー集めにハマってたとかコーヒー飲んじゃって苦さに泣いたとか、夏に水遊びしてて泥まみれのまま部屋に入って叱られたりとか。中学生になってから大食いチャレンジしすぎてお店で断られるようになったのも知ってる」
「……わかんない」
「俺はわかるよ。全部覚えてる。夏輔さんが、ナツくんが忘れちゃったこと、全部」
「……あなたは」
ドアノブに手をかけたまま、おれは聞いた。
「あなたは、誰?」
「……聞きたいことは全部話すよ。もう、ナツくんの前から消えたりしない」
声を聞いているうちになぜだか涙が溢れてきた。声を押し殺しているのに「泣いてるの」と尋ねられる。
「ない、てな」
「ひとりで泣かれるの、やだなぁ。ナツくんのかわいい泣き顔は鬼島さんだけのものって、ナツくんがちっちゃい頃から決めてるんだよね」
鬼島さん
その響きに胸がきゅう、と甘くなる。同時に悲しくも切なくも、苦しくもなった。胸がいっぱいになり、押し出されるように溢れる涙。
「……きしまさん」
「なぁに、ナツくん」
甘い低音は、心の蓋に貼られたテープを丁寧に剥がす。涙でふやけていたから簡単に剥がれた。もういっぱいいっぱいで破裂寸前だったから、というのもあるんだろう。
そこからぽろりぽろりこぼれては積もる様々なものが、空白だった部分を満たした。
そうだ、おれはこうしてたくさんの言葉や想いを出せないまま抱え続けていた。
「……ひとりにしない?」
「ひとりに、しない。もうおいて行ったりしないから」
「ほんとに?」
「うん。嘘ついたら焼き肉おごってあげる。ナツくんが満足するまで」
「……消えたり、しない?」
「しないよ。ナツくんが嫌になっても離さない」
「……っ」
「ナツくん」
「……もう、ともだちなんて、言わない?」
「なんて言ってほしいの」
「……わかんない。けど、おれ」
「うん」
「おれは、鬼島さんがすきだから……友だちは嫌だし、ひとりも嫌だ……」
膝が砕けた。玄関にしゃがんで、身体を震わせながら泣く。すると頭上で音がした。鍵が開き、軋むドア。強い手に二の腕を掴まれ、倒れ込むように抱きしめられた。白いシャツ、黒いコート。おれはこの白と黒の人を知っている。
「ごめんね、ナツくん」
「きしま、さ」
みっともないくらいに流れる涙、ひきつる喉。しゃくりあげていたら大きな手のひらに両頬を包まれた。涙の向こうに、黒縁眼鏡を掛けた顔がある。ずっと好きな、鋭い目元。いつだっておれを見てくれていた人の変わらない目。
「ごめんね」
ちゅ、と、軽く唇が触れた。それからまたきつく抱きしめられる。コートの生地を掴み、こんな風に泣いたことがないくらい激しく泣いた。きっとこれが、長い間ずっと溜まっていたものだ。
「落ち着いた?」
「……は、い」
泣きすぎてあちこちが痛む。重たくて熱い目で目の前にいる鬼島さんを改めて見た。変わらない、姿。おれを見てやっぱり口元だけが笑う。
「ナツくん、ごめんね」
「……もう、いいです」
「良くないよ」
「いいんです」
鬼島さんの手を取り、頬に当てる。温かくて気持ちがいい。いつも助けてくれた手は間違いなくこれだった。
「……ナツくん、どこまで思い出してる?」
「……おとーさんのことはよくわかんない。でも死んじゃったことは、わかる……」
勝手に、また涙が出てきた。急に突きつけられたような父親の死。しかもぼんやりぼんやり、している。
鬼島さんの指が拭ってくれ、目元に唇が落とされる。
「ナツくんが知りたいことがあったら全部話す。だからなんでも聞いて。大丈夫だから」
「……はい」
鬼島さんの腕で抱き上げられた。連れて行かれた先は居間のこたつ。一旦休憩、と言ってお茶を淹れてくれた。
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