10
泣いている。誰が?
子どもだ。ひとりで、狭くて暗いところに押し込められて不安で悲しくてたまらない。誰もいなくて怖くて泣いている。
大丈夫だよ。
もうすぐ助けに来てくれるからね。
誰が、誰を?
目を覚ましたら、ベッドの上だった。具合も悪くなく手足も普通に動く。見渡してみるとまるで病院のように白い壁や寝具、身体を起こすとちょうどお向かい、足の延長線上に茶色のドア。その隣にお兄さんが立っていた。長い黒髪黒服、肌だけが白く唇は赤い。
「……目、覚めた?」
彼の口から出たのは明らかに訛った言葉。うなずくと無表情にドアから出ていった。
急にひとりぼっちだ。狭い部屋で、ベッドと本棚しかない。詰め込まれているのはどれも、とても古そうな色あせた背表紙をこちらに向けている。
「えーと、なつくん?」
急に呼ばれてベッドの上で飛び上がってしまった。どきどきしながら見れば、苦笑いを浮かべた若い男の人がドアのところに立っている。爽やかな笑顔、おしゃれなシャツ姿は大学生のよう。
「ごめん、いきなり話しかけて。体調は悪くない?」
「あっ、へ、平気です」
「俺、ヤシロ。虎谷さんにしばらく相手しててって言われてんだ。よろしく」
「はぁ……ヤシロさん」
「ヤシロくんがいいなあ」
ベッドの隣の椅子に座ったヤシロくんとやらはじっとおれを見つめた。細められた一重の目、あっさりした顔立ちはその辺にいそうで、あまり特徴がつかめない。
「車にのせるとき、乱暴にしてごめんねー」
おもむろに謝られ、いえ、と言いかけて止まった。乗せるときとはあの拉致のときの話だろう。ということは後ろから口を押さえて放り込んだのはこの人なのか。
「見られたらやばいからさ、手早くするにはああいうやり方しかなくって。痛くなかった?」
「……なんで、そんなふうに連れてきたんですか」
「さあ? 虎谷さんに言われたら従う。それだけだから、理由はわからない」
ふふっと、まるで普通に話しているこの人。なんだか不気味だ。飛躍しすぎかもしれないけれど、もし「人を殺せ」と言われたらやれる種類の人のような気がする。今と同じく、なんの疑問も持たずに。
虎谷さんやこの人は一体何なのだろう。
固まったおれを見て、ヤシロくんの目がますます愉しげに細められた。
「君はなんだかおいしそうだなー。よく言われない?」
「言われ、無いです」
「食べてみたい」
そう言ってちらりと唇を舐めた舌先は二股に分かれていた。ぎょっとして見つめると、ぺろんと出される。ざっくり、真ん中からふたつに割れた赤い舌がちろちろ左右ばらばらに動いた。
右側には黒い石が光って、余計に怖い。
「趣味」
にこりと笑い、口の中へしまう。そうしていると普通の男の人。なかなか衝撃的だった。なんの会話をしていたか忘れてしまうくらい。
「なつくんは、キシマユウシロウと仲良しなんだよね」
仕切り直すように振られた話題。きしま、というからには鬼島さんなのだろうが、フルネームを言われてもピンとこない。名前など知らないのだから。
首を傾げるとヤシロくんもつられたように真似をする。
「あれあれ、名前を知らないのかもしかして。いつも黒いスーツに白シャツでひょろんとしてて、目つきなんて極悪でくっしゃくしゃに癖ついた髪してる男のことなんだけど」
「きしま、さん?」
「ああ、うんうん。何だ知ってるじゃん」
「下の名前、知らなくて」
「そういうこと。ユウシロウっていうんだ。優しい志に朗らか。何一つ当てはまらない」
顔をしかめるあたり、もしかしたら鬼島さんが嫌いなのかもしれない。あの虎谷さんも鬼島さんが嫌いで、嫌がらせにおれを誘拐したのかも。
「ヤシロくん、は、鬼島さんが嫌いなんですか」
「嫌いっていうか……うん、苦手、だな」
「どうして?」
「わかんない人だから。のらりくらりして、事実も真実も言わない。なんか怖い」
わからない人、というのはわかる。いつもふらりと現れふらりと消えて連絡を寄越し、こちらのことは知っているのにあちらは明かさない。
何を考えているのかなどもさっぱりだ。けれど怖いとか嫌だと思ったことは、どうしてだろう、一度もない。考えれば考えるほどに謎。ただそれだけ。
「ほいで、なつくんは仲良しなの」
「あ、ええと、うーん……」
なかよし。鬼島さんがいつもあの、いやらしいことをする前に囁いてきたことを思い出す。
『ナツくんといちばんなかよしの鬼島さんしか、こういうことしちゃいけないんだよ』
「……なかよし、なのでしょうか」
「俺が聞いてんだけど」
質問に質問で返してしまい、困ったように笑う。なつくんなかなか硬いね、と呟いてからヤシロくんはゆっくり椅子から立ち上がった。
「虎谷さんが来たみたい」
猫のような目のまま、壁へ下がる。動きを止めると同時に、ノックの音が響いた。ドアとヤシロくんを交互に見るとおかしそうに笑っている。何者なんだろう、この人。
そして、ドアが開いた。
「はいおはよー。ナツくん、どう?」
虎谷さんが、明るい笑顔で入ってきた。さきほどまでヤシロくんが座っていた椅子に座る。
「さて、ナツくん。ここに連れてきたのは、ちょっと聞きたいことがあるからなんだ」
優しげな眼差しがおれを見つめる。簡単には逸らさせない強さを持って。きっと拒否はできないのだろう。
「……おれに、わかることなら」
溜息混じりの声になってしまった。しかし虎谷さんは、ナツくんはいい子だね、と笑う。その響きにぞわりとした。なんだ、なんの感覚? 危険などではなく、もっと違う。でもよく知っている。けれどその正体を追えないうちに、虎谷さんは次の言葉を口にした。
世間話と同じ口調で。
「ナツくん、蓮さんは本当に死んだ?」
「はち、す?」
「そう。蓮さん」
はちす。その言葉を聞いたとたんにどきどき、動悸が激しくなる。まるで耳に心臓を押しこまれたかのように。
指先が冷えて寒い。でも身体は熱い。おかしい。
「あの日、傍にいてすべてを見ていたのはナツくんだけ、らしいんだよね。知ってたら教えてくれないかな」
変化に戸惑って整えられないうちにその動悸は、どこか奥底にあった何かの蓋を外した。
次から次へと瞬間的に移り変わる場面、目の前にいるはずの虎谷さんはもう見えていなくて、見覚えのあるものばかりがどんどん見える。忘れていたのだ、と、なんとなく理解した。
ああ、そうだ。
おれには、そう、鬼島さんがいたのだ。優志朗くん、大好きな、人。いつも傍にいていろいろなことを教えてくれた。寂しくても、大丈夫にしてくれた。
それからもうひとり。明るい笑顔が印象的な大柄な男の人。髭と髪がもじゃもじゃしていていつも楽しそうで料理が上手で、仕事が忙しかったけど少ない時間を楽しく一緒に過ごしていた、世界で一番好きな
「おと、う、さん……」
大切なことなのに忘れていたのは、あまりに大きな悲しいことがあったから。どこへ行ったかなんてわからない。ただ、あの日、真っ赤な温かい液体がおとうさんとおれの身体を染めた。
赤く濡れて震えるおれに、あの優しい声が囁いた。
「夏輔さん、大丈夫だから。大丈夫――これは、夢だ」
夢じゃない。
あの日の感触が今ここにある現実のように蘇る。手が赤い。服も、なにもかも。
「……っあああああああああ!!」
鬼島さん。優志朗くん。そう、おれの中では優志朗くんだった。
優志朗くん。あの日みたいにおれの目を覆って、優しく逸らして。
喉が破れそうなほどに叫ぶ自分を、どこか遠くからもうひとりの自分が見ている。
おとうさん
おれのせいで、痛い思いさせてごめんね。
急にコンセントを引き抜いたテレビのように、ぶつんと何もかもが途切れた。
「気絶しちゃったね。ヤシロ、様子見といて。目が覚めたら教えてね」
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