お友だち(偽) | ナノ

ぼくがきみのかさになろう


 事務所の中が急に暗くなった。
 もちろん電気は点いている。突然、空に雲が湧いて暗くなったのだ。雷が遠くで鳴っているし風も吹いてきて、間違いなく雨が降ると思わせる様子。
 嫌な天気だと思う。
 まだ雷が遠いからいいけれど、近付いてきて大きな音になったら落ち着かない気持ちになってしまう。雷鳴は好きではない。まるで砲撃のようで子どものときの嫌な記憶がよみがえってくる。
 午前中に鬼島さんのところと佐々木さんのところへ行って、午後の早い時間に有澤さんが来た。今日の予定はそれで終わりなので、あとは平穏に過ぎればよかったが天気が良くない。雷が近付いてくる前に帰ってしまおうか。
 有能なパラリーガルは俺のそわそわを察して「もう帰るんだったらそのまま事務所閉めちゃいますけど」と言った。眼鏡の太い黒縁を指で押し上げ考える。どうしようか。予定も、この事務所には飛び込みの相談もないので何かが起きることはない。鬼島さんたちも、急に当日入れてくることはほとんどない。
 帰ってもいい、かもしれない。

「帰ろうか」

 と言って、事務所を閉めた。鍵をかけている彼女に、気を付けて帰ってね、と言うと「それは所長のほうですよ」と笑われる。確かに俺の方が危ないかもしれない。雷が確実に近付いてきている。事務所内にいてタクシーを呼ぶべきだった、と思った。配車までに時間がかかれば歩いて帰る方が早い。公園を突っ切れば、普通に歩いて帰るよりもさらに早い。そうすることにして歩き出す。

 今日は鬼島さんたちという慣れた人が来るだけだったので、スーツではなくて私服で出てきた。鮮やかな青いTシャツに黒い細身のデニム、スニーカー。リュックは防水だからいいが、服はびしょぬれになるだろう。今にも降り出しそうな雲を視界の片端に捉えた。ヘッドフォンがないと落ち着かないけれど、公園には人がいないので大丈夫そうだ。

 今時珍しい、豊富な遊具の合間を通り抜けている最中に、ぽつりと雨垂れが頬を叩いた。あっという間に強い雨になり、一瞬で過ぎるかもしれないという期待をこめて大きくて長い滑り台の下へ走って避難する。
 先も見えないような雨だ。乾いていた地面が叩かれ、砂の香りがする。さきほどまでかさかさしていた砂や土はあっという間に泥になった。危惧していたような雷の音はしない。ただ雨が降っている。
 小柄なのが幸いして、土管の中もさほど窮屈に感じない。少し大きめに作ってあるようようだ。強い雨を見ながら、不意に、これがずっと止まないような気がしてきた。不安という気持ち、なのだろう。心臓がどきどきと強く打つ。

 ひとりでこの雨の中にいるかのような。
 みんな押し流されていなくなってしまったような。
 そんな気がする。もとよりひとりでこの国に来たけれど。

 しゃがんでじっとしているだけだと落ち着かず、奥に進んでみた。
 雨の音が反響し、大きなおおきな音がする土管内。雷はだめなのにこの音はあまり怖くないのが不思議だ。後ろを振り返ると、雨が出入り口を封鎖してしまったかのよう。前に進むしかない気がして、歩いた。
 近づいてくる壁。やっぱり俺はどこにも行けないのだろうか。ひとりきりで、ずっと。
 恐る恐る、傍へ。
 雨音が色々な音になっていることに気付いた。それは壁ではなく、はしごがついていて上に抜けられるところ。つまり雨が降っている。空も暗いから、抜けているとも思わなかった。どうも足元がぴしゃぴしゃすると思った。
 行き止まりは上に抜けていた。
 前ばかり見ていたから気づかなかったのかもしれない。

 俺はずっと『普通』になりたかった。完璧な、誰も何も言わない『普通の人』に。
 胸元に手をやる。細身のチェーンの先につけた記章が指に触れた。これがあれば『普通の人』になれると思った。だから目指した。人を助けて、人と関わって、そこには馬鹿にされず下に見られず、対等な関係があるものだと思って。
 実際、今はうまくやれている。社会に溶け込んでいると言えるだろう。

 けれど、本当は、寂しいと思っていた。
 今も、誰も、本当の俺を好きじゃない。
 本当の俺は何もできなくて、気持ちをうまく言葉にすることもできなくて、目を合わせることもできなくて……できたら人と正面から向かい合いたくない、陰に隠れていたい、と思っている。
 我儘な話だ。自分で勝手にもうひとりの姿を作り、壁を越えたと思い、周りにも思わせておきながら、一方ではひた隠しにしている本当の自分も好きになってほしいと思う。そんな都合の良い話があるわけないのに。
 壁を見上げる。上は空に向かって開けている。

 あの日の空はどうだっただろう。
 俺を幽霊といじめた子どもたち、泣く俺の手を引いてくれた幼馴染、穏やかに励ましてくれた両親、優しかった近所の人、みんなを一度に焼き消してしまったあの日の空も、確かあまりきれいじゃなかった。

 大きな音が鳴った。
 爆発音によく似たそれが鼓膜を震わせる。土管もびりびりと震えていた。
 一気に連れ戻されてしまった。戦火と瓦礫の、あの時に。足がすくんで動けない。もう一度、大きな音が鳴る。何もかもが消えていく音。

「イェスタ」

 声に、呼ばれた。
 柔らかな低い声に気付くと、身体が湿っていることにも気付く。服が濡れていて、急にこみあげてくる不快感。土管の中に倒れているようで、髪も湿っている。目を開けるとれにーの赤銅色がすぐに目に入り、すっと土管の褪せた銀色に視線を逸らす。

「頭打ってない? 帰りましたよってあの……パラリーガルの子に連絡貰ったけど全然帰って来ないから」
「うってない」
「これ何本?」

 視界に入ってくる手。

「三本」
「ここどこ?」
「公園の土管の中」
「今日の朝、何食べた?」
「お味噌汁。あぶらあげとお豆腐とにんじんの」
「大丈夫そうか」

 手を貸してくれたので、頼って起き上がる。背の高いれにーには土管の中ではずっとしゃがいこみの姿勢に近い中腰を保たねばならず、辛そうだ。

「雷の音がしたから心配はしてた。でも、倒れてる姿見たときは本当に心臓が止まったよ……」

 しっかりと意識が戻ると、まだ雨が降っていることがわかった。ざあざあと音がする。

「雷は、今のところ大きいのが二回だけ。どうする? 帰る?」

 こっくり頷く。れにーの広い背中や赤銅色のふわふわの髪を見ながら、入ってきた穴へと足を進める。
 れにーが傘をさしてくれて、俺と一緒に歩く。一本しか持ってこなかった理由を尋ねたら「焦りすぎて」と言っていた。部屋を出ようとしていたときに一度目の雷が鳴って、慌てて飛び出してしまったそうだ。その時につかんだのが、たった一本の傘。

「でも、傘役にだったらいつでもなるし。筋肉薄いから、傘さすの疲れるでしょ」

 ふふと笑う声。
 れにーだったら、全部好きだと言ってくれるだろうか。
 オンだろうが、オフだろうが、全部の俺を好きだって、言ってくれるだろうか。

「すぐシャワー……うーん、お風呂にしよう」

 ごうごうと降る雨の中、公園を出て左、商店街の裏側を歩いて右に曲がって踏切を過ぎ、間もなく見えてくるアパート。階段を上がり、れにーが玄関のドアを開ける。

「ちょっと待ってて」

 と先に部屋に入ろうとする背中の、黒いTシャツの端を掴んだ。

「ん? どしたの」

 声が出ない。今まで、人に聞いたことが無い。
 俺のことを全部好きかどうか、なんて。
 みんな嘲笑うだけだったから、好きだなんて言う人なんていないと思っていたから。

「……いーちゃん? どした?」

 手をTシャツの生地につけたまま振り返ろうとする。慌てて離した。
 俯いている俺の頬に手のひらが添えられる。びくっとしてしまって、一瞬離れてためらった手。けれど、またそっと触ってくれた。

「頭痛い? 不安? 怖い?」

 首を横に振る。
 怖いと言えば、怖い。聞いて、正直なれにーがもし、どこか好きじゃないって言ったらどうしよう。ここは好き、ここは嫌い、と。全部が好き、な人なんていないのかもしれない。

「いーちゃん。言えそうなら言ってみな」

 ね、と言われて、ふうと息を吐いてから、声を出した。いつもながら小さいちいさい声。自分でも嫌になるくらい、自信もなにもない細い声だ。

「れにー」
「ん?」
「すき? 俺の、こと」

 声が震えた。

「好きだよ。だーいすき」

 すぐに返ってきた柔らかい声。

「ぜ……」
「うん?」
「ぜんぶ、あの、いちばん、すき?」

 怖くて、具体的に言えなかった。全部、かどうかとしか尋ねられない。精いっぱいの質問だ。
 少しの間。
 れにー、迷ってるのかもしれない、と思った。優しいから、本当のことを言えないのかも。そう思うと、ざあっと背中が冷えた。血流が全部下に行ってしまったようにくらくらする。
 ばかなことを聞いてしまった。こんなこと聞かなくても、一緒にいられたのに。

「迷うねえ」

 何に、とは聞けない。涙が瞳に滲む。

「全部好きなんだけど……やっぱりご飯食べてるところと、かっこよく仕事してるところかねえ、一番好きなのは。いやでも迷うなーいーちゃん、可愛いしかっこいいから」

 結局ぶわりと涙が出てきた。「あええ? なんで?」という声と、あせあせと俺の両頬をむにむに撫でる大きな手。

「何を考えてたかはわからないけど、どんなとこも好き。家に帰ってきてよわよわしてるところも、スーツ着てかっこよく仕事してるとこも。全部いーちゃんでしょ」

 だから大好きだよ。
 れにーの言葉が、ちょっとだけ心を軽くしてくれた。
 誰かが、たった一言かけてくれたら、俺の心は軽くなっただろうか。ぽたぽたと床に垂れる涙が、滲んだ視界に見える。――いや、きっとそんなことはなかっただろう。俺にだってわかる。
 ずっと一緒にいて、面倒を見てくれたれにーが言ってくれたから、心が軽くなったのだ。

 顔を上げる。
 生まれて初めて、両親以外の人と、目が合った。初めて見るれにーの目はきれいな褐色で、髪より薄く透明でとてもきれいだ。人の顔をよく見たことが無いので、あまりはっきりは言えないけれど、たぶん、かっこいい。びっくりしたように、ふさふさと睫毛が生えた目が丸くなってぱちぱち。

「……イェスタ」
「れにー、ずっと、いて、一緒に……いやに、ならないで」

 いやにならないで、と、先日言った。同じことをまた口にしたけれど、また少し違う。それをわかってくれたようで、にこにこと笑った。

「喜んで」

 濡れた身体を、れにーの腕が抱きしめた。温かい。
 雷が鳴ってびっくりしても、また過去に引きずり込まれても、きっとれにーがここに戻してくれる。不安になっても怖くなっても、ずっと隣にいてくれるだろう。
 嫌になってほしくない、信頼している、ずっと一緒にいてほしい。愛だとか恋だとか、まだ全然よくわからないけれど、れにーは『いじめないしお世話してくれて大事だって言ってくれて、全部好きだと言ってくれる親切な人』になった。
 俺も、れにーがいてくれたらとても嬉しい。

「いーちゃん、お風呂入ろうな」

 ちょうどよく、ふぇくし、とくしゃみが出た。血相を変えたれにーにお風呂場に放り込まれ、身体を洗いながら溜めたお湯の中でごしごし身体をこすられた。

「だいじょうぶ、だけど」
「イェスタの体調が悪くなったら、俺が鬼島さんに殺される」

 どうやら心配なだけじゃなくて、優志朗さんが怖いらしい。ふむ、優志朗さんのこと、考えてたんだ。





「カモちゃん、お待たせ」
「……ふんっ」
「あら? どうしたの」
「優志朗さん、やだ」
「あらら? あら? えっなんで?」



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