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人が無力だと感じるとき。
それはいくら努力しても、自分を見てもらえないときだ。
この町に来たときから、ずっと感じていた。私財を投げ打っても、治療に手を尽くしても誰も感謝してくれない。する相手はもういない相手にだけだ。
いつからか、憎くなった。この町の人が。それで開発した。悪魔の薬を。溺れた人を治療すれば感謝されると思った。
それなのに。
***
七日目。
聴取室の椅子に座るなり、鬼島が言った。
「ねーえ、もう飽きたから俺帰るね」
「飽きたって……好き勝手しておいて飽きるとかあるのかよ」
あるよお、と唇を尖らせる。
「ナツくんには会えないしナツくんのご飯は食べられないし、可愛い子が世話焼いてくれないし毎日見るのはライオンみたいな男だし、ほんと飽きる」
「飽きると言えばお前、出会ってから初めて見るんだが、それ。どうした急に」
「聞かないでくれる……? 俺だってびっくりしちゃったんだから」
鬼島が身に着けている服を、顎に手を当てながら見る直来。鮮やかな青のパーカーを着ている。あの鬼島優志朗が。似合わなくて笑うと「笑うな」と本気の怒りが返ってきた。
「まあいいや。とりあえず俺の予想吐いてあげるね。今回の発信源は右弁天の診療所の医者。一年前に赴任して、力を尽くしたけどあまりに前の前の医者の人望がすごすぎて自分が霞んじゃったんだねえ。調べてみたらわかるよ。多分、どっかの大病院でしくじったか大恥かいて診療所に来たタイプ」
見てきたように言う。
「薬作ってばら撒いてみんなに頼らせて信用してもらおうと思ったけどだめで、もっと強い薬を作るには資金が足りない。それで売りさばき始めた。疲労軽減薬とか言って売人に持たせてるんじゃない? 疲れにくい頭がクリアになる魔法の薬ってんで今は大物だらけの業界に広がっちゃって、本人が結構一番びっくりしてるかも」
人間の欲を侮りすぎたよね、と鬼島。直来は難しい顔で聞いている。
「お金はがばがば入ってくるようになったけど、大物さんたちの子どもやら大物本人やらが診療所に来るようになっちゃって、献金とか言ってごまかしてるけど口座と献金と比べてみたら全く違うと思うよ。資金方面はきっともう陵司くん辺りがおさえてるでしょ? 我が国の捜査組織が形無し出番無し役立たずになる前に譲ってあげてって思ってたんだけど」
ごめんね、と笑う。
「俺もね、見知らぬ罪でごみ溜めに突っ込まれてちょっといらいらしてんの。だからもうけしかけちゃったかもしれない」
かもしれない、と言っただけで確実な告白ではない。やはり上手だ。
「俺を捕まえたのは上からの指示でしょ。そりゃ大物にいきなり事情聴取するわけにいかないもんね。わかる。それでたまたまうろうろしてた、俺。だけど俺にしちゃったのはよくなかったと思うよ。だって上弦が動き出した。そうでしょ」
「あわよくば虎谷も狩れる、それが上の狙いだろうな」
「上弦が証拠残すわけない」
「お前より狡猾」
「そう。だからいつまで経ってもこの俺が、首を取れないでいる」
一瞬だけ、心底憎悪している表情が浮かんだような気がした。しかし瞬きをする間、ほんの一瞬。既にいつものにやにや笑い。
「上弦はあの町も診療所も愛してるし、俺を捕まえたのはいいけどナツくんがしくしくしちゃった。上弦がなにより愛してるナツくんをね。でも思い通りにさせるのは嫌だから先手を打ってけしかけちゃったかもしれない」
「ほう」
「成らぬ恋は執着になって、盲信になる。怖い怖い」
直来が溜息をついた。そこまで知り尽くしているならもっと早く言ってほしかったが、言わないで黙ってにやにやしているのが鬼島だ。
書記担当を見て、お前ちょっとその辺一周してこい、と告げる。慣れているのか初老の署員は笑って席を立った。その向こうにあったパソコンには一切の記録が取られていない。
直来がガラスをじっと見て気配を探り、誰もいないと判断したようだ。鬼島を改めて見て、声を潜める。
「鬼島、お前も甘かったな」
その声は残念そうな、いい気味だと言いたそうな、なんだか複雑な思いが混ざっているように思われる。それに鬼島の目が細くなった。
「あらやだ、もしかして」
「ああ。件の医者はもういない。それに、おそらく最初に薬へ飛びついた政治家も姿を消した」
「うわー、やられた……くそ」
先越された、と呟く。
「医者だったやつの写真だ」
内ポケットから取り出された写真がテーブルに並べられる。診療所ではない。どこかの室内であることは間違いないが、床が焦げ茶色だからすぐわかる。診療所は床が白い。
その上に転がされた白衣、いや今は血まみれだから白衣だったもの、になる。親指同士を拘束され、爪がない。足も縛られていた。
「殺害後に縛ったものだろうな。縄にあんまり血がついてないだろ。あっちこっちに血液の足跡がついてたから多分、足だけ自由にして室内を逃げ回らせたんだろうな。じわじわ殺していった。ちなみにやった側……拷問した側の足跡や痕跡は一切なかった」
ふうん、と声を漏らす鬼島。引きちぎられた指を見てもなんとも思わないようだ。
「今回の薬は自分が作ってばら撒いた、多くの中毒者を出したことに対して医者として謝罪する。命を持って償う。……遺書だ。今時手書きだぜ」
筆跡も一致した、と吐き捨てるように言う直来。
「似たような殺害方法で他に二人、見つかってる。おそらく政治家も生きてはいない」
「そうだろうね、まあ人間やめようとしたからしょうがないんじゃない?」
先に取られたのでもう興味がないようだ。鬼島がよいしょと両手を前に出す。
「俺もうお役御免じゃん。はーなして」
迷っているらしかった。直来の目が手錠に注がれる。
「ライ、迷うのはいいけど、そろそろ来ると思う」
ごつごつしている腕にはまった時計を見やる。鬼島のは没収されているので留置場の管理室だ。聴取室にも時計はない。来る、と言われて直来が嫌な顔をした。
「あいつか……」
ノックの音。顔を覗かせたのは一周してこい、と言われた署員。渋い顔だ。
「失礼します」
押しのけるように入ってきた、ネイビーの細身のスーツを身に着けた男。きれいに髪を整え、ネクタイに高そうなピン、スクエアレンズで黒い太縁の眼鏡。
「また会いましたね、直来さん」
「どうも。鬼島のお迎え毎回ご苦労さんだな、カモ」
仕事ですので、と微笑む。幼い顔立ちだがきちんとジャケットの襟に、弁護士記章がついている。色褪せてはいるが正当な身分証明だ。
「これ以上勾留しておく理由がありませんので、もう釈放していただかないと人権問題になります」
「人権? こいつがそれを一番どうでもいいと思ってるのにか」
「本人の思想と法的に保証されている権利とは関係ありません」
私服で会う時はおどおどしているくせに、スーツで会うと別人のようだ。永遠に合わないと思うような視線が真っ向からぶつかり、挑んでくる。両手を上げ、鬼島の手首から鉄の輪を取り去った。足元の縄は署員が。
「うあー、手足がかるーい」
立ち上がり、自由に曲げ伸ばしをする。
「今回、あなた方と陵司くんたちが得たものは?」
肩を回しながら訪ねる。直来はふんと鼻で笑った。
「過去最長勾留記録。お前のな。それから新しい薬の製造方法、化学式を加賀たちは得た。どこから原料得てたかもわかったろうな。診療所もパソコンも携帯電話も一切荒らされてなかったから、根こそぎ浚っていった」
「上弦は立件できそう?」
「無理に決まってんだろ」
鬣のような髪をぐしゃぐしゃにかき回した。不完全燃焼だといつもそうだ。
「悲しいねえ組織のわんちゃんは。上の言うことを、見え透いていても聞かなきゃいけない」
やけくそのようにライオンが「わん」と鳴いた。
「優志朗さん、青も似合うよ」
「カーモちゃん。次は普通に白か黒の、せめてTシャツ持ってきてね」
「新しい自分に出会えるでしょ」
**
「カズイチ、先ぃ越されたな」
開店前の『グイダオ』で有澤が笑う。佐々木は、別に、と酒を呷った。
「優志朗先輩の言うことはちゃんとやったし」
「二人仕留められりゃめちゃくちゃ褒めてもらえたぞ」
一瞬静かになり、ひとりはやったから褒めてもらおう、と本気の様子で言う。
「さて、どこに捨てようかな」
「うちの庭、最近元気ねぇんだよな。満和くんが花に元気がないって悲しんでる」
「じゃいい肥料になるよ。ちょっと土壌のバランス変わるけど」
「ところでお前、店の名前変えたほうがいいぞ。さすがに気持ち悪すぎる」
「譲一朗も大好きだから、森のやばくまさんにしてあげよっか」
「やめろ」
**
「ナツ、おかえり」
「ただいまー」
「無事に帰ってくるんだってね。よかった。談さんもお帰りなさい」
「ただいま帰りました」
「北山さんは?」
「お買い物。最近ぼくが体調崩してたから自分で行けなかったらしくて」
「今は大丈夫なの?」
「大丈夫だよ。ありがと」
ナツと満和が頬をすりすりするのを見て、ここしばらくで気持ちがずいぶん荒れていたようだと自覚した。癒される。
「満和のところに今日は泊まろうかな」
「いいよー」
「ではオレも」
「もちろんですー」
帰宅した鬼島は、家に誰もいないことに驚いた。着替えてからすぐ有澤邸に行ってナツに抱き着きぐりぐりと頭を擦りつけながら「冷たいじゃないのお」と悲しみ、ナツは「まさかこんなに早く帰ってくるとは思わなかったんです」と言い訳した。だが実際にそうなのだ。連絡もなかったし、通常、釈放はいつ、どの程度で帰ってくるかなどわからない。
「釈放されたら即日帰宅できるのよ。覚えておいてね」
「もう二度とないようにしてくださいね」
鬼島はうんともううんとも言わず、代わりに、ナツくんに久々のキッス、と首に口づけた。
帰宅してしばらくは、味が濃い……と世間の味に驚いたような顔をしていたので、それが新鮮でナツは笑い、談は「健康にいいんじゃないですかね」と言う。
たまたまつけていたテレビから小さな音でニュースが流れる。不正献金疑惑を掛けられた政治家が行方不明。しかし具体的な内容には触れられないまま短く終わってしまった。
「政治家さんはどこへ行っちゃったんでしょう」
ナツが呟く。鬼島と談は静かに視線を交わし、さてね、と鬼島が言う。
「悪いことして鬼に細切れにされちゃったのかもねー」
「やめてください……」
その日の夕食はキーマカレー。ナツは食べたくなくなりますね、と言いつつ幸せそうにもりもりと平らげた。保護者二人は微笑ましくその様子を見守る。
やっと帰ってきた平和な夏の夜、だ。
きちんとうめちゃんとマスター、弁天町に住んでいて協力してくれた人々にマスターのお店『ムジナ』でお礼会をした。ナツ主催だけあり、全員が参加してナツを思うように抱き締めたり撫でまわしたり。さすがに鬼島は口を出せず、二階の吹き抜けから下のにぎやかな様子を見てギリギリと悔し気な顔をすることしかできなかった。
数か月後の東道会会合。
やってきた上弦に近付いた有澤。丁寧な挨拶ののち、低い声で静かに言う。
「総長がやったんですか」
問い掛けに、聞かれた本人は穏やかな笑みを浮かべる。水若はいつものように美貌の極道の傍らに立ったまま、ただ一言「悪いことをした人は罰を受ける必要がありますので」とだけ言った。
なんだか釈然としないまま、会合の予定を終えて帰宅した有澤の目に入ったのはきれいに咲いた庭のひまわり。満和が立派ですねえと見上げている。それをにこにこ見ていた北山と目が合った。
上弦は手を出さない。
だけど今の東道会には、証拠を残さず処刑できる人材はいない。引退したのは表から。自分がいない時間に北山が家を出ても、誰も言わない。満和が体調を崩して寝ていれば知らないまま。
自分を動かしたのは、鬼島がいずれこちらになにかを伝えると思ったから?
結局それが遅すぎて『簡単な方法』に出た。つまり、知っている人間に吐かせること。
吐かせ慣れているのは。
確実な口の堅さを備えているのは。
どちらもついこの間、この目で見た。
「お前がやったのか」
声を出さずに口を動かす。
北山は、そっと唇に人差し指を当てて首を横に振った。
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