疑惑の鬼島 その後
深夜も深夜、息を潜めたような街の片隅。
眠っていたその男の口が、突如なにか布のようなもので塞がれた。目をかっと開き、確認する。自分にまたがっているが、気配がない。しかし白い肌がぼんやり闇に浮かび上がっていた。
誰だ、と聞こうとしてももごもごくぐもり、意味不明の音にしかならない。暗がりに目が慣れると、それが眼鏡を掛けた、見知った男であることに気付く。にい、と口元が笑う。
「やあやあ、我こそは鬼島優志朗なりー」
低い、ふざけたような声音。決して大声ではなく、発せられると同時に闇に溶けて消える。
「先日はハメてくれてどうもありがとうね。俺も気が長くなったからさ、機会、待ってあげたよ。せっかく死ぬならやっぱりお布団が一番じゃない? そう思うのは俺だけかな」
死ぬ、というワードに身体が跳ねる。その時に気付いた。既に手足が拘束され、ばたつくことすら叶わないことに。
汗が吹き出す。
「あらあら、汗まみれ。まあでも、俺に悪いことして無事で済むわけないじゃないね。わかってたでしょ」
まさか命を落とす羽目になるとは思わなかった。
言いたくても言葉は形にならない。
「わざわざ来てあげたんだから無事に死ねるよおめでとう。無駄に苦しませないから安心して」
灼熱のような感覚が腕を貫いた。知覚すると同時に、壮絶な痛みが襲う。叫びたかったが大きな手が喉を絞めたので、ぐぅ、という音にしかならない。
「あ、そうそう。無駄に、は苦しませないけど、ナツくんの大事な食べ物だめにした罰として痛いことはたくさんさせてもらうから」
ひんやりした声を出したと思えば次は、どこにしようかなあ! と明るい無邪気な声に変わる。それがまた恐ろしく、痛みもあってがたがた震える。
「俺ねぇ、結構好きなの。人苦しめるの」
にたり、暗闇が笑った。
「はーやれやれ、鬼島の件が片付いたと思ったら……」
直来が現場で深い溜息をつく。
深夜の凶行、それも最上級にグロテスクな滅多刺し事件だ。静かな夜明けだ、などと寝起きに思った二時間前の自分をぶん殴ってやりたいくらいに凄惨な事件現場である。血が飛び散り、遺体はもはや肉片かと思うくらいに刺されている。
犯人は相当クレイジーな野郎だな、と考え、ちらりと脳裏を鬼島が掠める。しかし頭をゆるく振って霧散させた。直接手を下すような真似はしない男だ。
たた、と若手が走り寄ってくる。
「被害者は……」
この家に住む男であり、東道会系暴力団組長。昨晩は飲酒して早めに床につき、若衆も誰一人訪ねてきた者はなかったと証言。
「機捜が発見したようなんですが、台所の冷蔵庫の中にこれがあったそうです」
ポケットから取り出して見せたのはカラフルな錠剤。袋を手に取り、翳して裏面を見る。
「被害者、ちょっと前の事件と絡みがあったみたいですね」
KとTが重なったような刻印。それを見ながら捜査員に尋ねる。
「台所の冷蔵庫に放ってあったのか」
「あ、いえ。えーと」
玉葱の中に埋め込まれていたらしいです。
ぱらぱら手帳をめくり、そう言った捜査員の声だけが聞こえた。やれやれ、ますます深い溜息が肺の底から滲み出る。
「この事件はお宮入りだな」
「なんでです?」
「賭けてもいいが、探したって犯人の毛の一本だって出てきやしねぇよ」
もともとあったわけでもないやる気がますます、急速に萎む。まだまだあいつの手のひらの上、のようだ。直来は急に、帰ってしまいたくて仕方がなくなってきてしまった。
***
「優志朗、無事に帰ってきてくれてよかったよ」
にこやかに語りかける上弦の方を見ることなく、茶碗蒸しに集中している鬼島はまるで他人事のように「そう」と言ったきり、銀杏探しに夢中になっている。
「ところで、昨晩事件があったんだけど」
「ふーん」
「優志朗は関係あるのかな?」
「あった」
鬼島はつるつるの木の匙へのせた銀杏を、隣に座るナツの茶碗蒸しの器へ投入した。
「ありがとうございます!」
「お食べ」
虎谷邸の広い応接間で、美しい日本食を前にきらきらぴかぴか笑顔、天ぷらをおいしいおいしいと食べていたナツが銀杏を見てにこにこ。その可愛らしさに鬼島はでれでれ。
その鬼島の隣では、有澤がきゅっと、ひとり梅干しでも食べたかのような顔をしている。
「譲一朗は、何か知ってる? 昨晩の事件について」
「自分は……知らないですね……」
ちら、と鬼島を見る。必ず気付いているはずだが、上弦は「それならこの話はやめよう」と言って優雅な手つきで箸を取る。
しばし、食事の時間。
「あのう、虎谷、さん」
「上弦でいいよ、ナツくん」
迫力ある美形に微笑みかけられ、ナツの頬がほわりと赤くなる。どうやらカラス事件で泊まった際に、大いに友好を深めたらしい。蓮の話も聞いたそうで、ナツはすっかり上弦に気を許したようだ。今度は鬼島の顔がきゅっとなる。
「上弦さん、鬼島さんはどうしてやくざやさんになったんでしょう?」
「そんなん本人に聞いてよう」
お隣にいつでもいるじゃない! と鬼島は不満そう。
しかしナツはあくまで上弦に聞くつもりのようだ。
じっと見つめられた上弦は豪奢な箸置きに箸を置き、座椅子の背もたれへ寄りかかる。穏やかな微笑みを浮かべながら。
「ナツくんは、どうしてだと思う?」
「想像したこともなくて……よくわかりません。鬼島さんは自分のことを話しませんし、聞いてもはぐらかされて終わりだと思うんです」
「本人の前で言う? ねえナツくん?」
ぴいぴいとナツに訴えかけていた鬼島が静かになったあと、上弦がゆっくり口を開いた。
「うちに来たとき、優志朗は何も言わなかったからね。申し訳ないけど知らないんだよ。役に立てなくてごめんね」
息を吐くように嘘をつく。そこは鬼島と同じだ。相手をどう騙すかということも、この稼業においては大事なことである。有澤だけが胃の痛そうな顔をしているが、ナツは気付かない。そうですか、と言ってお刺身をぱくぱく。
「急にどうしたの」
上弦に尋ねられ、軽く首を傾げる。
「おれ、鬼島さんのことをもっとよく知りたいんです。す、好きな人のことなので……?」
徐々に小さくなっていく声。
有澤は鬼島をちらりと見て「どこがいいんだろうか」という顔、鬼島はにやにやでれでれ、上弦はにこにこ、ナツは照れ照れ。
昼食会は一気にほんわかした空間となった。
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