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ナツくん。
優しい声はいつからおれに向けられていたのか。高校入学の辺り? 違う。もっと、もっと前からあの声は確かにそばにあった。
どうして? いつ、どこで。
思い出せない。思い出そうとするとなんだかひりひりとして悲しくなって、頭が考えるのをやめてしまう。
鬼島さん。鬼島さんはこの気持ちの正体を知っているのかな。
目を開けた。木目がきれいな天井が見える。
「おはようございます、ナツさん」
とは言っても、夜なのですが、と、視界に入って来た男の人は笑った。きらきらした明るい金髪のイケメンさん。びしっと正座でそこにいる。その後ろには白い障子。
「すみません。鬼島社長は仕事で出てしまいました。呼び出しがあるまではずっといたんですけど……。それからは及ばずながら自分がそばに」
「そうですか……」
いなくてよかったような残念なような、複雑な気分。室内に鬼島さんの名残はない。いつでもどこでもそうなのだろう。俺の部屋にだって、あの人が来た形跡は一切ないのだから。
「……ダンさん? でしたよね」
「はい。相羽談です。手相の相に羽に、言う炎の談です! 談って呼んでください。お水どうぞ」
「ありがとうございます」
身体を起こして手渡されたコップから水を飲む。そうだ、お風呂場で意識がなくなったんだった。考え過ぎてのぼせたのかもしれない。
そう思うとなんだか水が欲しくなって図々しく二リットルペットボトル分を飲み干した。
談さんは穏やかに微笑んで、ただ傍らに座っている。
「あのう」
「はい」
話しかけるととても嬉しそうな顔をする。なんだか申し訳ない。
「この服、着せてくれたのも談さん? ですか」
「いえいえまさか、触ったりなんかしたら鬼島社長に何されるかわからないです。それはもう丁寧に身体を拭いて写真撮って服、着せてましたよ」
「……写真ですか」
「写真です」
「それは全裸の」
「写真ですね」
丁寧に拭いてくれたのも服を着せてくれたのもありがたいが、写真は撮らないでほしかった。そして談さんのこの、疑いひとつないきらきら目が怖い。
着せられている少しゆるいシャツはどうやら鬼島さんの物らしかった。いつも黒いスーツの下に身に着けている、あの白いシャツ。なんとなく鼻に袖を近づけても、ただ清潔な匂いがするだけ。
目元まで伸びた真っ黒の髪、黒縁眼鏡の奥の意外と鋭い目、高い鼻、白い肌、長い首、しっかりした身体つき。
昇る黒龍、踊る朱雀。
ナツくん、と呼ぶ声、鬼島さんは、と話す声。
「……談さん」
「はい」
「談さんは、鬼島さんのこと、よく知ってますか」
「知ってるか、と言われるとなんだか自信がなくなってきますが、それなりには」
「鬼島さんについて、少し教えてもらえませんか」
談さんが話してくれた鬼島さんのことは当然、知らないことばかりだった。
鬼島さんから聞いたという、少し若いときのこと、そこから救い出してくれた人のこと、談さんと鬼島さんが出会ったときの話は当事者だからかひどく盛り上がっていた。それがあまりに熱くてつい引き込まれ、一緒に涙しそうになったほど。
「ナツさんと社長……鬼島社長は、古い知り合いなんですよね」
一通り話してくれたあと、談さんが思い出したように言った。古い知り合い?
「鬼島さんがそう言ったんですか」
「はい。鬼島さんが珍しく深酒されて、ナツくんは今も可愛いけどちっちゃいときも可愛くって後ろついてきたり膝に乗ってきたりしてやばかった、って、写真も見せていただきました。確かにすごく可愛らしかったです! あっ、もちろん今も充分可愛いですよ!」
「そういう励まし大丈夫です……あの、その写真って見られますか、今?」
「書斎にあったと思います。お持ちしますね」
さっと出ていった談さんを見送り、深呼吸。深く、心持ち速めに打つ鼓動。小さいときを知っている? 鬼島さんが?
おれが失った、記憶。どうしても思い出せない、以前のこと。
おぼろげに思い出せるのは誰かの後ろにくっついて歩いているところ。その人は気づいて足を止め、優しく撫でてくれた。その顔は、もやもやとわからない。
もしかしてその手の持ち主は。
「お待たせしました。どうぞ」
その写真は縁側で撮られたようだった。
狭いが清潔そうな廊下に座り、足元の水が入ったたらいに足を浸しているのは、今より若い鬼島さん。眼鏡もないけれどその目ですぐにわかる。
そしてその膝の上に、子ども。目がくりくりしたその子は後ろから抱かれて嬉しそうにしている。
ざわり、と、心が震えた。
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