85:ユルシテ
「……桜さん。手、が……血…」
禰豆子ちゃんは、今にも倒れてしまいそうな蒼白な顔で、私から下に視線を移した。
「お母さん…花子…」
視界から暴力的に入り込む情報と理解したくない現状が拮抗しあうかの様に、禰豆子ちゃんの目が極限まで見開く。
「竹雄…茂……」
大きな目からは透明の雫が零れ落ち、信じられない、信じたくないと、頭を小さく左右に振っている。
「……うそ、そんな……」
「おかあさん?お兄ちゃん…お姉ちゃん。……お、おかあさん!!」
六太くんがお母さんを求めて葵枝さんの元に向かって走ろうとしたのを、禰豆子ちゃんは繋いでいた手で引き留め、自身の後ろに隠した。
「まだいたか」
男の注意が私から禰豆子ちゃんと六太くんに完全に移行してしまった。
「禰豆、子ちゃ、ん逃げて…」
考える事を放棄してでも、倒れる家族の元に駆けつけたいだろうに、禰豆子ちゃんは六太くんを隠すようにして強く前を向いて叫んだ。
「桜さん…!!今、助けます!!」
禰豆子ちゃんの正義感と優しさは彼女の長所だ。禰豆子ちゃんなら、私を助けようと必死に……例え自身が傷つこうとも立ち向かってくれるのだろう。けれど今は状況がまずい。この男は人外じみた力を持っている。勝てない。ただ不様に殺されるだけだ。
「ダ、め!逃げて、二人とも、殺されち、ゃう」
禰豆子ちゃんが涙を零しながら拒絶気味に「嫌です、嫌です!置いていけません!」と首を左右に強く振った。
「状況を見、て。私はもう助か、らない…。早く、後ろを…向いて、逃げて」
「でも……!!!!」
「でもっじゃない!!!」
怒鳴りつけるような口調で叫び返すと、口から大量の血がごぼりと溢れ咳き込む。
家族の死に直結したばかりなのに私を助けようとする禰豆子ちゃん。葵枝さんも竹雄くんも花子ちゃんも茂くんも……竈門家の皆は優しすぎ…た。もう死なせたくない。このままでは本当に《ここに居る竈門家全員》殺されてしまう。そんなの絶対にだめ。だからすべての力と想いを魂に込めて叫ぶ。
「炭治郎君を一人にしちゃダメ!!!!」
禰豆子ちゃんは、衝撃を受けたように息を呑んだ。
二人を死なせたくない。それに、もしここで皆死んでしまったら、炭治郎君が一人になってしまう。そんな事は絶対にさせない。させちゃいけない。
「早、く、炭治郎…君、と一緒に、…逃げ、て……!」
と、《六太くんを見ながら》言った。
禰豆子ちゃんは苦渋に眉を寄せ、悲痛な顔で心の中で激しい葛藤をしていたのだろう。呼吸さえ苦しそうにしながらも、覚悟を決めたように六太くんの手を強く握りしめ、《「炭治郎いくよ」と六太君に向かって言った》。
あぁ、良かった。ちゃんと分かってくれた。
禰豆子ちゃんは六太君を抱え、一瞬迷うように振り返った後に「…ごめんなさい」と血反吐を吐くように苦し気に呟き、外へと駆け出した。それを見た男は私を床に落とし、禰豆子ちゃんと六太くんを追いかけるために歩きだす。
絶対に行かせるかと、両手が使えない私は男のズボンの裾に強く噛みつく。
後ろに引かれ、違和感を感じたのだろう。確認するように下を見た男は、私をゴミを見る目で蔑んだ後、振り払い強く歩き出す。死んでも放さないと覚悟を決めたのに意図も容易く剥がされてしまう。
(だめ、行ってしまう。なんとかしないと)
少しでも禰豆子ちゃんと六太くんが遠くに逃げれるようにしたかった。死ぬくらいならせめて、禰豆子ちゃんと六太君だけでも助けたかった。………炭治郎君を一人にしたくなかった。だって、炭治郎君の幸せは家族の幸せなんだよ。
「行く、な、行…くな」
アドレナリンが痛みを鈍くしていても、身体はもう死の直前なのか指一本動かす事は出来なかった。視界も霞み全ての音が遠くなる中、男の気をこちらに向かせようと、必死で汚い言葉を投げかける。
「人殺し、ゴミ…カ、…ス」
男が止まる気配はない。
「悪く、ま、…おに」
一歩一歩進み、男が外に足を踏みだした。
「死人…顔…」
二歩目を歩きだした瞬間動きがピタリと止まり、ゆっくりと振り返った。その私を見下す男の顔はまさに鬼そのもの。
「私の顔は死人のように見えるか?」
赤い瞳の瞳孔は細長く開き、青筋を立て私に向かって歩き出した。
「長ー生ーーえれなーように見ーーか?」
もう音もあまり聞こえないが、この男の逆鱗に触れる事が出来たのだろう。
「ーーう違ーーう」
良かった。これで少しの間でも禰豆子ちゃんと六太くんが遠くに逃げれる。
「私は限ーーく完璧にーー生ーだ」
私の勝ちだ。
「青…白、顔で…、病弱…通り、こして、死人みた、いな顔……弱そ、う」
「血を分け与える価値もない。無様に死ね」
私の首を鷲掴みにした男の爪からは、先ほどの様な赤黒い血は出ていなかった。………この事が何を意味するのかなぜだか理解できてしまった。
私は殺される、のだと。
(あ。私、本当に死んじゃうんだ…)
死を目前にして走馬灯が過った。