55:好きだった花
肩が激しく上下する程に乱れた呼吸と、精神的なものもあるのか顔には汗が滲んでいる。私を絡み付けるように見つめてくる紫がかった瞳には、涙が少し滲んでいた。表情はとても苦しそうで、今にも泣きだしてしまいそうだった。
周りの視線が集まっているのを横目で確認しつつ、そっと声をかけた。
「あ、の……どちらさま…でしょうか…」
目の前の女の子は、はっとして苦悶の表情を浮かべ手をギュッと握りしめた。そして、肩と顔をガクリと下げた。力が抜けたような姿からは、目に見えないはずの落胆や悲しみといった感情が可視出来る程に伝わってくる。
「大丈、夫ですか…?」
女の子は数回深呼吸をして、答える。
「…いきなりすみません。知り合いに少し…雰囲気が似ていたもので」
私を《姉さん》と言ったのに、あえて《知り合い》と言い直した。そして彼女の暗く切ない雰囲気。もしかしたら、私と間違えた《姉さん》は亡くなられたのではないか。なんとなく察することができた。
「大変失礼しました。では」
「あ、待ってください」
足早に去ろうとする彼女を咄嗟に止めてしまう。
「え、と。その…」
元気出して下さいって言うのは、事情を知らないのに、失礼というか、なんだか違う気がして。なんて言えばいいのか分からないけど、なんだか放っておけない。
「あ!そうだ!このお花差し上げます!」
左手に持っていた手提げ籠の中から三つの花束を取り出し前につきだす。
「それは、ミムラス……」
「知ってるんですか?かわいいお花ですよね」
「………」
「あ、花言葉も可愛いんですよ。えーと…、あれ何だったけ?たしか…」
最近花言葉も調べるようになって勉強中なのだけれど、一度に知識を詰め込んだせか、色々な花言葉がごちゃまぜになり、思い出せずに唸っていると、女の子がポツリと言った。
「………笑顔をみせて」
「あ!そうです!それです!」
はい。と笑顔と共に手渡すと、女の子は受け取ったミムラスを見て、静かにポロポロと涙を流し始めた。
「え!え!?ごめんなさい!なにかしちゃいました?!」
周りの視線が一身に集まるのをひしひしと感じる。焦りながらハンカチを女の子の涙を拭うように押し当てると、女の子はハンカチを受け取り、貴女のせいではないといった風に左右に首を振る。
どうしても女の子の涙を止めたくて、咄嗟に宣言をした。
「あの!私、お花を売ってるんです!」
「花……」
「隣町、じゃなくて、この町から西にある町に隣接している山に普段は住んでるんですけど、これから、この町でもお花を売ろうと思ってて…!だから、もし、また会うことがあったら!次もお花プレゼントします!もちろんタダで!」
「………」
「タダですよ!お得ですよね?!」
「………」
「花もちいいんです…、色んなお花あります…よ?」
「………」
「スマイルもゼロ円です…」
「………」
あまりの反応の無さに冷や汗が流れる。どうしよう少し気まずいかもと内心焦っていると、女の子は小さな声で呟いた。
「……つぎは」
「はいっ!?」
「次はいつ来られるのですか…」
細められた目に微かに宿る、切望の色。
「え!つ、つぎは…、」
瞬時に次に来れそうな日を計算して声を出す。
「二週間後の火曜日水曜日!10月21、22日に来れると思います!」
女の子は、再度うつむいて何も言わなかった。なんだか、元気に出した声が空回りしている気がしなくもないけど、女の子の涙は止まったようで、少しほっとした。
ふと、女の子の背後の時計台を見ると、長い針が約束の時間から数マス程進んでいるのに気づき、大変!と声を出す。
「ごめんなさい!私、急いでいるので失礼しますね!またどこかでお会いできたら、一番かわいいお花プレゼントします!」
そういって頭を下げてから、宿に向かって走り出した。
「……未熟者。しっかりしなさい胡蝶しのぶ」
蝶の少女は、返しそびれたハンカチを握りしめ眉間に皺を寄せた。
最愛の姉を亡くしてから四十九日法要も終えぬ日。心が焼け付くほどの殺意と憎悪を身に宿し、必ず復讐を果たすためのある決意を宿し、この町を訪れていた。
その中での出会い。あの女性が自身の目の前を横切った時、思わず追いかけて叫び手を引いてしまった。
一瞬、姉が生きていたのかと思ってしまったのだ。
そんな事はあり得るはずはないのに。憎い鬼に殺され、それでも鬼に慈悲を抱いたまま永遠の眠りについた優しすぎた姉。けど、現実を直視したくない認めたくない気持ちが、実はどこかで生きているのではないか、長期任務に出ているだけではないか、きっとあれは悪い夢だったのだと空望も捨てられずにいた心が勝手に動いたのだ。
けれど、やはりそれは夢幻でしかなかった。
振り向いた女性の顔立ちは、物言う花と例えらえる程の佳人だった姉と同じ系統の顔立ちで似てはいたが、同じではなかった。姉より可愛らしさが強く、背丈も姉ほどはない。眉の形、目の大きさ、鼻筋、唇の色、骨格、髪の長さ、話し方、肌の色も違う。当たり前だ。
でも…、と意識的に作った眉間の皺がゆるむ。
ほんの数分の短い邂逅。姉が好きだった花を差し出し明るく笑う姿と、花のような優し気な雰囲気が姉と重なり、ぽっかりと空いた穴から温かい水が流れ込むように心を満たした。
「また眉間に皺寄せて。幸せが逃げちゃうぞ〜」
「姉さんは、しのぶの笑った顔が好きだなあ」
「このお花の花言葉、笑顔をみせてって言うんですって。かわいいわね」
「人の心は花開くから大丈夫」
「鬼も人も仲良くできたらいいのにね…」
別人だ。姉ではない。そう思っても、また会いたいと感じてしまった。あの花のような優し気な女性に一目で強く惹かれてしまった。
「二週間後にまたここにくる………」
姉の想いを引き継ぎ、自分自身を殺して閉じ込めて作った笑顔の仮面から、姉が生きていた頃の自分が顔をのぞかせていた。