118:誰かを助けてあげれる自分

あぁ、行ってしまった…。

最後に手を大きく振り、そのまま振り返ること無く真っすぐ歩いていく桜ちゃんの背中は涙でぼやけていた。心地良い音がどんどんと遠ざかっていくのに反比例し、呉服屋の店主の「さっさと仕事に戻れ」という怒鳴り声や町の雑音が大きくなる。

(もっと一緒に居たかった…)

桜ちゃんが完全に見えなくなった後、重い足取りで呉服屋へと戻りながら、桜ちゃんとの思い出に浸り始めた。



桜ちゃんとの出会いは2カ月以上前の事。5人目の彼女に逃げられ、呉服屋で働かされてから二日目の明け方近く。俺は、あまりのキツさから八王子の町を逃げ出していた。見つかる前に少しでも遠くに逃げてやると、八王子の町境にある山を疾走している時、ある小さな音を拾った。耳のいい俺じゃなかったら見逃してしまうような小さな音の正体は、女の子のすすり泣く声。

逃げている最中だと言う事も忘れ、慰めねば!と、進行方向を変え目的の場所に一目散に走った。
声を出しながら音の発生源を覗くと、そこにいたのは真っ白な女の子。大きな岩陰に隠れ涙を流す女の子は、横顔だけでも儚さを感じさせる美人だと分かった。泣いているのに絵になってしまう女の子に一瞬見惚れたけれど、すぐに聞こえてきた音にはっとなる。

その音は、今まで聞いた事がないくらいの、悲しくて苦しくて辛くて今すぐ消えたいと叫ぶような悲鳴の音だった。それを聞いた俺まで胸が押しつぶされ泣きそうになった程の、苦しい音。

ふいに、女の子が驚いたようにこちら顔を向け、視線と視線が重なり合う。

その瞬間。

雷が走ったような衝撃が身体を襲った。電撃に似た衝撃が頭からつま先まで走り、全身が指令を受けたように、ある想いで溢れかえった。
それは、この女の子を慰めてあげたい。助けてあげたい。笑わせてあげたい。という使命感のような気持ち。

だけど、《あいつみたいにうまい言葉なんか出てこなくて》焦った俺は咄嗟に、口癖の「結婚して」を口走っていた。


言ってすぐに我に返った。あぁ、やってしまった…。失敗した。どうして自分はこんなにも馬鹿なのだろうと。けれど女の子の反応は予想と違ったものだった。


女の子は「え?」と驚きを含んだ声で呆然と呟くと、苦しい音を薄め、疑問の音を大きくした。いや、疑問の音へと変えた。それは、苦しい音よりはるかにマシな軽い音。


あいつみたいに苦しい音を反転させることは出来なかったけど、軽い音に上書きする事はできた。
一時でも苦しみが和らぐかもしれない、それがこの女の子の助けになるかもしれないと、そう思っていつものように「一目惚れした、運命だ」と騒いだ。苦しい音をかき消すように。もちろんこの言葉も嘘なんかじゃなかった。
そうして俺が騒いでいる間は、女の子の苦しい音は聞こえないくらいに、小さくなっていた。

これが俺が唯一できた慰め方だった。



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