100:幸せが壊れる時にはいつも、血の匂いがする

足が震え何度も縺れそうになりながら、山道を全力疾走した。
乱れた激しい息遣いと暴れる心臓の音が、最悪の想像ばかりしてしまう自分をより自覚させた。

怪我をしただけかもしれない。そう思いたかったのに、家から濁流の如く流れてくる匂いは、父さんが吐血した時の何百倍も濃かった。

「はぁっ、はっ………!!」

家まであと少しの距離にある目印の木。その根元が視界に入った瞬間、息が止まり瞳孔が開く。声にならない叫びをあげながら、走った。六太を庇うように倒れた禰豆子と六太の元へ。

「禰豆子!どうしたっ!どうしたんだ!何があったんだ!」

禰豆子の額や寝間着の様子から推測出来た、致死量に近い出血跡。けれど、まだ温かく呼吸もあった。禰豆子を木に寄り掛からせ、禰豆子に庇われるようにうつ伏せで倒れていた六太を仰向けにする。

「六太っ!!……………ろ、…くた…」

いつもは離れまいとぎゅっと握り反してくる小さな手は、冷たく固いまま動かない。明確な死だ。
一度小さな身体を強く抱き締めてから地面にそっと横たわらせ涙を拭い、家の方角に顔を向ける。

「禰豆子待ってろ。必ず助けてやるから」

禰豆子に羽織を被せ、更に濃い匂いの発生源に向かって走り出した。


(母さん、竹雄、花子、茂、……桜さん。頼む、頼む!どうか皆無事で…!無事でいてくれ!!)

冷え込んだ空気の中全力疾走したせいで、嗚咽が込み上げる度に喉の奥で鉄の味がした。それでも一秒でも早く家に着けるように走り続ける。父さんどうか家族を、桜さんを守ってくれ。そう願いながら。















家について、戸のない入口の柱を掴んで身体を滑り込ませる。まず最初に感じたのは、むせ返る程の血の匂い。そのあと一瞬遅れて認知した光景は、願いと真逆の地獄絵図だった。

「ぁああ…」

柱を掴んでいた手から力が抜け、その場にへたり込む。
壁も床も天井も襖も障子も、血で汚れていない所などない血海の中、その4つは転がっていた。

「母さん……花子……」

母さんと花子は壁にもたれかかるように、

「竹雄……茂……」

竹雄と茂は床に重なり合う様に、絶命していた。この瞬間、暴力的な量の血の匂いは、死の匂いなのだと気付く。
現実とは思えない、思いたくない、けれど現実。言葉では言い表せない絶望に、目の前が暗くなり、吐き気を催す。

「…………桜さん」

居間は、桜さんのあの変わった血の匂いが一番濃くあるのに、桜さんはどこにもいない。過呼吸気味に目配せで探すと、ふと、奥の部屋………父さんが寝室に使用していた部屋に続く戸が倒れていた。その先からより一層強い匂いがする。きっとそこに桜さんはいる。それなのに、物音は一つもしない。

行きたくない。見たくない。受け入れたくない。それを見るのが恐い。…見たらきっと俺は狂ってしまう。そう思いながら、懐の薔薇の首飾りを上から握り締めるように押さえ付けて、力の抜けた足で歩きだした。錯乱を起す寸前の過呼吸の音だけが、空間に響く。

(今日は、桜さんの、誕生日で、禰豆子が料理を、薔薇を送って、喜んで、皆笑って、幸せなはず、なんだ…)

居間に上がって三歩目で、何かにつまづき蹴ってしまう。

「あ、…」

それは、人間の腕だった。着物ごと切断された、二の腕から爪先まである細い腕。

「……あ?」

着物は赤黒く変色していたが、すぐにわかった。それは母さんが昔着ていたお古を桜さんにあげたもの。桜さんが毎日大切に来ていたもの。

そう。この、人間の腕は、桜さんの腕。




「うわあぁあああ!!!」

発狂しながら、一気に奥の部屋へと走った。
部屋に入ってまず目に入ったのは壁に咲く赤い花。赤黒い血が放射線状に飛び散り、歪な花のように見せた。
そのまま恐る恐る目線を下げて行くと、二の腕から先のない右腕。紫に変色し、ぐにゃりと曲がった左腕。胸に風穴を作り、首を下げ壁もたれ掛かる桜さんがいた。



「あ、ああぁ!!!桜さんっ!!!」

死に物狂いで駆け寄り、桜さんにもらった青い首巻きを風穴部分に押さえつけて、哭き叫ぶ。

「大丈夫です!必ず助けます!桜さんは死にません!死なせ…な……」

桜さんを背負って医者に連れて行こうと、肩に手を置いた時。桜さんは頭から力無く横に倒れた。骨が硬い物にぶつかった時の嫌な音を立て、床に倒れた桜さんは一つも動かない。

家の惨劇など知らない、外の野鳥が爽やかに朝を告げ、障子窓からは僅かに朝日が射し込んだ。日の光に照らされた桜さんは光ない虚ろな目をして、息絶えていた。
誕生日を迎えることも、薔薇の首飾りに喜んだ笑顔も見ることも、幸せに花を咲かすことも、炭治郎君と名前を呼ばれることも、二度と訪れる事はない永遠の別れ。

その日、壊れた幸せと共に、一生分の大切な何かを失った。


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