飛び魚、空を飛べ 2 若くて綺麗な翠先生は、あっという間に思春期真っ盛りの男子生徒を虜にし、じゃあ女子生徒に嫉妬されるかと思いきや、意外にも女子にも好かれていた。 若者に対して(先生も若いと思うが)結構容赦なく、冷たいときは冷たい。変な色気もない。恋の相談などを女子がしても、「10代の恋愛なんか忘れた」とそりゃもうどうしようもないらしい。でもかえってそれがウケていた。 要はみんな、話したいだけなんだ。友人ともちょっと違う、ちょっとだけ大人の人に。翠先生は話を聞くだけなら、いつでも受け入れてくれていたから。 俺も、そんな奴らに紛れて、つい保健室に足を向ける。赴任する前からのちょっとした知り合い、なんて関係に甘えたい気持ちもあったが、先生はそんなこともどうでもいい態だった。 俺が「先生って名前の漢字に羽がつくね。俺もなんだよ。おそろいだね」なんて、ちょっと色めいた戯言を言ってみても、「この間、四谷くんと同じクラスの佐々木緑さんにも言われたわよ、おなじ『みどり』だねって」とあっさり返される。 夜のトラックの話を持ち出しても、そんな話はするなと言うでもなく聞いて頷き、かといって自分からその話を出すことはない。 春で部活も引退して、受験とはいえ、まだ気持ちに余裕があったのでちょこちょこ保健室に顔を出す日々を過ごす。 顔を出して軽口を叩いてあっさりかわされるかスルーされるかして退散するの繰り返し。 何も深く考えず。ふわふわと。 *** 月日は流れる。 9月のあるとき。何とはなしに、放課後保健室に顔を出した。 遅くまでゲームやってて寝不足なんだよね、とベッドに横になると翠先生は、だったら早く帰って寝なさいよ、受験勉強は大丈夫なの? と言いつつも机に向かって何やら書いている。それを見ていたらほんとに眠くなってきてついウトウトしてしまった。たまに女子生徒が出入りする声や音がするが、暫くすると人気(ひとけ)もなくなり学校自体が静かになってくる。 「四谷くん、起きてるの?」と翠先生が声をかけてくる。んー、と返事をしたら、珍しく翠先生から話をふってきた。 「そういえば、四谷くん、泳ぎが上手いんだって? 市井くんが言ってたよ。ずっと水泳部に誘ってたのにとうとう全然なびいてくれなかったって」 「泳ぎが上手いって……いつの話だよ。小学生の頃だよ」 水泳部の市井とは小・中と同じ学校だった。小学校の頃の大会の記録をまだ忘れていないらしい。 「でも中学生のときも、授業でタイム計ったらダントツで速かったっていうじゃない」 泳ぐことは辞めていたのだが、学校の授業はそうはいかない。 別に俺は父親が海で死んだことで泳ぐのが怖くなったわけではない。そういうことで泳がなくなったわけではないのだ。ただ、泳ぎたくなくなっただけなのだ。 だから授業では普通に泳ぐ。何も考えず。なまっているかと思いきや、速いものは速い。才能かねこれは。 「サッカーの方が好きだったんだよ」 「ふーん、そうなんだ。じゃ、しょうがないね」 あまりにあっさり引いたので、思わず笑ってしまった。 「なんで笑うの」 「いや、あまりにあっさり話が終わったから。そういうとこ、ちょっと俺の姉貴に似てる」 「四谷くん、お姉さんがいるんだ」 「うん、3歳上の。今は、東京の西のほうの大学いってるから家出てるけど」 「ふうん。じゃあお姉さんも泳ぐのうまかったりするのかな」 「……そうだな。子供の頃は敵わなかったな……」 ことりは今でも泳いでいる。バイトでスイミングスクールのインストラクターをやっていると言っていた。おばちゃん相手の水中ウォーキングから、子供相手のキッズスイミングまでやっているらしい。 ことりは強い。エラい。スゴい。それに比べて俺ってさあ……。 「どうしたの? なんか物思いにふけっちゃって。もう帰れば?」 「帰れば、って……冷たくね? センセー。なんか悩み事でもあるの? とか聞くでしょフツー」 「聞いてほしいなら聞くけど……」 こういう人なんだよね。 「なに、恋の悩み? 受験に影響ない程度にがんばって」 「違うよ。そんなこと一言も言ってねーよ。もしそうだとしても全然励ましてねーし」 「あ、そ。それはスミマセンでした」 「俺が考えてたのは、なんで泳ぐ気にならないのかなってこと」 そのまま俺は、今まで誰にも言ってなかったことをついつらつら喋り出してしまった。 小さい頃から父親に泳ぎを仕込まれていたこと。大好きな姉と一緒に泳いでいたこと。父親が海で死んで泳ぐのを辞めたこと。姉は続けていること。姉が精神的に家族を支えていること。自分も早くオトナになりたいこと。日々は充実していて楽しいと思っているけど、どこかがもやもやしていること。 翠先生は黙ってそれを聞いていた。 「泳ぎたいって気持ち、自分の中にあるのかな……。俺が泳いだら、ことりの気持ちは軽くなるかな。泳いだら……何か変わるかな」 ひとりごとのようにポツンとつぶやくと、翆先生が言った。 「泳いでみたかったら泳いでみれば? そんな気になれないならやめれば? 自分の気持ち次第でしょ」 相変わらずの突き放しっぷりだ。 「なにそれ。突き放すねー。保健のセンセイって生徒の悩み相談にのってくれたりするもんじゃん」 「私はカウンセラーじゃなくてただの養護教諭だからね。ま、保健のセンセイとしては、できることといったら、あなたが泳いで、溺れたときに人口呼吸するぐらいかな」 油断してたところに、さらっと一撃がきた。 「な……」 「あれ、赤くなってる? 結構純情なんだ、四谷くん」 「あ、あのねえ、子供扱いしないでくれる? これでも俺全部経験済みなんだけど。なんなら先生のお相手もしようか?」 ま、そうなのだ。経験はある。高校に入ってから彼女がいなかったことは実はない。何人か替わっているが今も一応いたりする。とりあえず彼女は欲しいお年頃だ、本気で好きかとか聞かないでほしい。 そういうわけで反撃を試みるも、 「あ、そうなの? じゃあ私は初めてだからちょうどいいね。四谷くんがきちんとリードしてくれると助かるなあ」 「…………」 「ほーらまた赤くなった!」 「そんな風に言う人間が未経験なわけないだろ! まったくあなたの言うことは何が本当なんだよ!」 もうなんなんだ。 翠先生はさんざん笑って、そしてポツリ言った。 「そっか、君は羽の怪我している鳥かと思っていたけど、羽を持っている魚だったんだね」 保健室に挿し込んだ夕日が翆先生の横顔を照らした。 羽をケガした鳥? いや、羽を持った、魚……? 「まあ、泳ぐ気になったなら、教えて。見てみたい、四谷くんの泳ぐところ」 「……もう、水泳シーズンは終わったよ」 「今どき、温水プールだってあるでしょ。年中無休ですよー」 さあ、ほんとに帰った帰った、と今度こそ保健室を追い出された。 [prev][contents][next] ×
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