飛び魚、空を飛べ 3 結局、俺は泳がないまま秋も終わり近くなる。受験戦争も段々と間近になり、黙々と勉強する日々だ。一浪する気はない。大学に行って卒業してとっとと社会人になる。その気持ちは変わらない。しかし、勉強勉強だと妙に身体を動かしたくもなってくる。 「走ってくるかな……。いや、ちょっとシューズ見てくるか」 とある土曜日。ランニングするには相当ぼろくなっているランシューを思い出し、街中へ行くことにした。 何気に出かけたそんな街中で、自転車に乗った翠先生を見かけた。そういえば、あの公園のトラックで会ったぐらいなのだから、それなりに近所に住んでいたのかもしれない。今更ながらそんなことを考えた。 先生は、市営駐輪場に自転車をとめると荷物を持ってすたすた歩いていく。電車に乗って出かけるのかと思ったが駅の方面ではない。あとを追ってみると、先生が入って行った先は市営のスポーツセンターだった。 決してストーカーするつもりはなかったが、1時間ぐらい本屋やスポーツショップをうろうろしてから、またさっきのスポーツセンターの前まで来てみると、タイミングよく翆先生が出てきた。そこで声をかける。 「翠先生」 「あ、四谷くん……」 「休日の運動ですか? あれ髪ちょっと濡れてる。プール? 先生も泳ぐの?」 翠先生はちょっと言い淀んで、それから言った。 「実は、私泳げないの……」 「え?」 「小中高と水泳の授業は苦労したんだよね。それで、なんとなく、泳げるようになりたいなあと思って、市の開催してる体験レッスンに参加してみたの」 「なんか、翠先生のそういう熱意、初めて見た」 「失礼ねー。私やるときはやるのよ」 単純だが、そんな先生を見て、なんとなく泳ぐ気持ちが少しだけ湧いてきた。 先生の前でかっこつけたい気持ちもあったのだ。 「先生、俺、泳いでみようかな……。……どう思う?」 それでも、まだ決めかねて、つい先生に委ねるように聞いてしまったんだけど。 「なに人に聞いてるの。四谷くんさ、お姉さんのために、家族のために早く大人になりたいんでしょう。だったら自分で決めなさい。自分のことは自分で決めるの。それが大人ってもんよ」 まったく、ほんとに情け容赦ない。ちょっと弱い人間だったら登校拒否モノだ。 しかし、迷うのはやめた。だったら今決める。 「泳ぐ。泳ぐよ。先生、明日ヒマ? またここに来てよ。俺の泳ぐの、見てくれない?」 約束した時間に市営プールで先生と落ち合う。先生はもちろん泳ぐわけではなく、プールが見下ろせる観覧席に。水着に着替えてそこを見上げると、先生は俺をみとめて軽く手を上げた。 飛込み台に上がる。スターターピストルが鳴るわけではない。でも心の中で思い出す。父の声。 『いくぞ、翼』 俺は勢いよく、水の中に飛び込んだ。 俺は狂ったように泳いでいた。父親が見たら、フォームがどうだとかきっといろいろ注意しただろう。クロール、バタフライ、背泳、平泳ぎ。そういえば父親はバタフライの指導は厳しかったっけな……。 水の中は当たり前だが身体が軽い。重い足枷が外れたようだ。気持ちいい。 俺は何にこだわっていたんだろう。つまらないことのような気もするし、大したことのような気もする。とにかく気持ちいい。授業で適当に泳いでいたときとは大違いだ。 小さい頃の記憶の中の、先を泳ぐことり。振り向いて手をこっちに伸ばしてくる。 『大丈夫だよ、ツバ』 ことりの「大丈夫」を思い出す。そうだ、大丈夫だ。俺は大丈夫なのだ。 今、できることを。できることをひとつずつやっていくしかない。あせらずに。とりあえず今は泳げ。こんなにも気持ちいいじゃないか……! 気がつけば2時間ぶっ通し、先生の存在も忘れていた。やべ、さすがに帰ったかな、と見上げると、先生はまだそこにいた。そして俺に向かって手を振る。 ずっと見てたのか…… 「ほんとに上手いんだね。すごい速いし目立ってた」 帰りに先生とファミレスに寄った。 先生と生徒で、まあファミレスだけど、こんな風にメシとか食ってていいのかな? と思ったけど、先生曰く「今日はすっぴんだしわからないんじゃないかなあ。まあそれに別にやましいことがあるわけじゃないし、いいんじゃないの?」だ。ある意味実に男らしい。 「特に、バタフライ。きれいな飛び魚みたいだった」 「バタフライの名前の由来知ってる? まあ一応そのまんま蝶なんだけど」 「え、蝶って泳ぐの?」 「泳ぐというよりは、飛んでる蝶のイメージらしいよ」 「どこが!?」 目を丸くして驚く先生はすっぴんのせいかひどく幼い。そう、あのトラックで会ったときのような。 「蝶かあ…。うん、でもやっぱり飛び魚みたいだったよ」 先生の中では飛び魚で決着がついたようだ。 「翠先生のおかげかな……泳ぐ気になったの」 「やめて。私恩着せ“られ”がましくされるの嫌いなの」 もう笑うしかないポリシー。 確かに、泳ぐことを決めたのは自分だ。やってみたらあっさりアホみたいに気持ちが晴れた。きっと、あれから時間が経ったことも大きい。そんなタイミングでたまたま翆先生に出会っただけといえばそれまでだ。 でも、それでも、無理やり誰かのせいにしたいときもある。 後々、それを惹かれた理由のひとつとして箇条書きに揚げたいからだ。 でも、今はいい。黙って引き下がるよ。 泳ぎすぎて腹が減り過ぎた俺は、ハンバーグとスパゲティとピザをがつがつと貪る。 「それはともかく先生、感想ぐらいは聞かないの? 泳いでどうだった? とか」 「ん? どうだった泳いでみて」 「言われて聞かないでくださいよ……」 翠先生はドリアを突(つつ)きつつ、トマトジュースを啜りながらにやにやこっちを見ている。 「気持ちよかった。大丈夫。それだけ」 「そう」 「姉貴に……泳いだこと、言った方がいいかな」 そんなことを聞いたところで、この人から返ってくる答えなんか、 「言いたければ言えばいいんじゃないの?」 まあ、こんな感じに決まってる。 「出たよ突き放し」 「背中押してほしいならそう言って。そしたら押してあげる」 「……ん、いいや。言うときがきたら言うよ」 この人はいっつもそうだ。ああしろこうしろとも言わず、いつもこちらが能動的にするように誘導する。 先生がドリアひとつを食べ終わる前に、俺はすっかり3つの皿をたいらげて、「さすが、男子高校生ねえ」と感心されてるんだか、呆れられてるんだか、そんな先生にいつものように言った。 「翠先生ってさ、ほんと、こうアドバイスとかしないよね。普通さあ、いや普通って言い方が合ってるのかわかんないけど、人に訊かれたら、どうにか考えてああしてみたら? とか言っちゃいそうなもんじゃん? 特に、保健の先生とはいえ教師の仲間なんだからさ」 今まで翠先生に向けて何度となく繰り返したフレーズだ。返ってくる台詞は大体同じ、 『でも私はカウンセラーじゃないし』 だ。 ところがこのときの翆先生は、顎に拳をあて目線を落とし、少し考えるような素振りをしてから、内緒話をするように俺の方に身を乗り出して「あのね」と話し出した。 「私ね、実は結構なお嬢様なの。小さい頃から、ああしなさい、こうしなさい、こうした方がいい、ああした方がいいってそういうのばっか。ずっと人の言いなりよ。それこそ親の決めた婚約者とかまでいてね。あるときね、突然それが嫌になって、爆発して、家出同然で実家を出て、でもっていろいろあって養護教諭になって今に至るというわけ」 そこまでひそひそ声で一気に言ってから、先生は背を自分の椅子の背もたれにゆっくり戻し、 「今では何でも自分で決めてる。大変なときもあるけど、以前よりずっといい。だから、私は人にどうしなさいとかああしたら、とか言わないの」 と、にっこり笑った。化粧のひとつもしていないはずだが、すごくきれいな顔だった。 予想外も甚だしいとんでもない方向の話を、どうにかこうにか脳みそで処理を終えてから俺は先生に聞く。 「それ……ほんとの話?」 「さあどうだろう。本当だと思う?」 その次に見せたのは、いつもの悪戯めいた微笑み。 *** 一度泳ぎ始めると、今度は水に入らずにはいられなくなった。 受験勉強の合間に、市営プールに泳ぎに行く。 残念ながら、それから翆先生に街中でばったり会うことはない。 付き合っていた彼女とは別れてしまった。 そうして冬が来て、大学受験して、3月中旬の合格発表前の3月1日、高校の卒業式だ。 式が終わって、友人らと教室などで写真を撮る。国公立大を受験している連中はまだ進路が決まっていないから、感傷にひたるよりも、やれ受験だ浪人だの話題ばかりだ。 トイレへ行った帰りに廊下で市井に出くわした。 「おー翼、さすがに大学は分かれたな。元気でいろよ」 市井は明るくてさばさばしたいいヤツだ。 「市井もな。──そうだ、市井。俺、泳いでるよ」 市井が目を見開いた。それから破顔した。 「そっかー。やっと我が水泳部に入る気になってくれたか!」 「卒業だろーが」 笑ってお互い肩や頭をバシバシ叩きあう。 「今度、泳ぎにいこーぜ。今なら俺翼にも負けないぜ」 「ざーんねん。それが俺、ブランクもなんのその、絶好調なんですヨ」 そんな軽口をたたきながら、それでも、泳ぐ約束はしっかりして、別れた。 そして、次に目の前に立ったのは、年が明ける前に別れた彼女だった。 「翼」 「おー」 「翼、元気でね」 「お前もな」 そのまましばしの沈黙。わざわざそれだけ言いに来たのか。他に何かあるのか、目で促すと、彼女は口を開いた。 「翼、なんか変わったね。うまく言えないけど……なんか柔らかくなった」 前は、どこか殻があったから、と彼女は少し淋しそうに笑った。 「今の翼、いい感じ。そのままでいて。幸せになってね……」 「お前もな」 俺はそれしか言えないのか。気の利いたことも言えず、彼女を見送る。心の中でごめん、と呟いて。真剣に向き合わなくてごめん。いい加減に付き合っていてごめん。幸せになってくれよ。ごめん。 さて、そして俺は行かねばならないところに向かう。 一応コンコンとノックをして、ガラッと引き戸を開ける。 翠先生は、振り向いて俺をみとめると、特に驚くでもなく微笑んだ。 「卒業おめでとう」 「ありがとうございます」 「四谷くんは、進路決まったんだっけ?」 「まだ。発表待ち」 そっかー、じゃあまだ落ち着かないわね、と相変わらずのマイペース。普段と違うのは、今日はさすがに綺麗な色のワンピースを着ていることぐらいか。 「翠先生。俺、結果わかったら、またここに来ます」 「そう」 「でも、とりあえず、今日卒業だから……何か、餞別の言葉をくれませんか?」 自分の翠先生への気持ちはもう自覚している。わかりきっている。でも、まだ、生徒だから。それ以上は求めない。 「そうねえ……」 先生は、以前のように、顎に拳を当てて目線を落とし、それから俺に向かって言った。 「飛び魚さん、空を飛びなさい。自分の可能性を信じて。どこまでも。高く」 それは、人にああしろこうしろと言わない先生の、初めての進言だった。 俺はまだまだ大人じゃない。 けど、気負わず無理せず自分で決めて一歩ずつ。 大人になっていこう。 *** ──1ヶ月後 「翆先生……翠さん。俺翠さんが好きだよ。翠さんは俺のこと、どう思ってる?」 「え」 「ね、どう思ってる? これは、うそつかないで本当のことを言ってほしいんだけど」 「えー。……うーん、まだ、わからない。嫌いじゃないけど。可能性がゼロとは言えない。それが本当のところかな」 「じゃあとりあえず付き合ってみようか」 「なんでそうなるの」 「自分の可能性を信じてるから。翆さん言っただろ、可能性を信じて高く飛べって」 「それをここに持ってくるわけ……」 根負けした翠さんと恋人同士になるのは、それから1年後だ。 [prev][contents][next] ×
|