飛び魚、空を飛べ1 | ナノ



飛び魚、空を飛べ 1
 

 
 
 俺には姉と妹がいる。
 姉のことりは3歳年上で、妹の陽菜は6歳年下。当然陽菜が生まれる6歳までは俺は下の子で、わがままいっぱいであった。
 自分よりいろいろ知っていて、いろいろできて、遊んでくれる姉が大好きで、いつもくっついてまわっていた。

 父親は若い頃水泳の選手だったらしく(どの程度の選手だったかは知らないが)、ことりと俺にも小さい頃から水泳を仕込んだ。3歳違うだけあって、ことりの方がどうしたって泳ぎは速く、負けるたびに癇癪を起こしたものだ。そんなときことりは、「でも幼稚園の子の中ではいちばんはやいんじゃないの」と誉めてくれ、母親は「次は抜けるわよ」と励ましてくれた。甘えたチビだった。

 その甘えたチビが6歳のときに、陽菜が生まれ、俺の天下は終わった。
 誰もかれもが小さな妹に夢中になった。大人げないが、いや実際子供なわけだが、それで俺はそりゃあ膨れた。今思えば黒歴史だ。しかし、ことりは陽菜の世話もよくしたが、俺の世話もしてくれた。妹にかかりきりになる母親にかわって風呂に入れてくれ、食事の面倒を見てくれ、一緒に寝てくれた。ますます姉が大好きになる。
 
 他の姉がいる友達は、いかに自分の姉が横暴かを切々と語るのだが、俺に限ってはそういうことはなかった。もちろんことりは優しいだけではない。悪いことをすれば、無表情で岩のような拳骨を落とす。あれは怖い。それでも根本は弟妹思いの優しい姉さんだ。ことり、ことり。おれはことりとずっといっしょにいる。

 こういうのをシスコンというのだと後に知った。


 小5の夏に、父親が海で死んだ。溺れた子供を助けようとしたのだ。
 葬儀だなんだとわけもわからずに日が過ぎて、ふと部屋の海パンに目がいった。父親が教えてくれた水泳。泳ぐことが大好きだったけれど。
 でも。もう。
 もう泳がない、と言った俺をことりはきつく抱き締めた。

「いいよ、ツバは泳がなくて。私は泳ぐ。大丈夫。私が泳ぎ続ける」


 この「大丈夫」は、このあと、延々と続く。ちょっとしたことでも俺がくじけそうになると、ことりはいつも俺を抱き締め「大丈夫」と言った。「私がいる。大丈夫」と。
 中学生になり、背がにょきにょきと伸び始め、ことりに追いついても、追い越しても、それでも何かあるとことりは「大丈夫」と俺を抱き締め続けた。同じようにことりは、ほやんとして頼りない母親のことも、幼い陽菜のことも、いつも抱き締めていた。


 それから約5年、俺は中3、ことりは高3になった。

 それぞれ進路について考えだしたとき、俺はことりが大学に進学せずに高校を卒業したら働こうとしていることを知った。ことりが小学校の先生になりたかったことは知っていたけれど中坊の俺にはどうにもできない。何もできない自分にいらいらする。

 しかし結局、ほやんとはしていてもそこは一応親、の母と、父の勤めていた学校の理事長がことりに進学を勧め、二人の説得に応じてことりは大学進学を決めた。もやもやした気持ちは残りつつもほっとした。ただ、遠方の大学だったためにことりは家を出ることになったが。

「大丈夫だよ、俺もヒナも簡単な料理なら作れるし、高校行ったらバイトするし」
「ツバはサッカー続けな。バイトはせいぜい単発ぐらいにして」
「なんでだよ、ことりだって高校生のときはバイトばっかりしてただろ」
「私はいいの。とにかく部活に入りなさい。このときしかできないんだからね。サッカーしないでバイト三昧とかがわかったら、私大学辞めて帰ってくるから」

 そう脅し文句を吐いて、ことりは家を出て行った。陽菜は泣いて嫌がったが、仕方ない。父親が死んで5年、ことりは家族を支えてくれた。本人はまだまだ支えるつもりだろうが、いい加減俺だって支える方にまわりたい。じゃなきゃ、家族でたった一人の男として情けないじゃないか。

 それでも、ことりの言った通り、バイトは長期休みに単発でちょこちょこ入れるだけで、高校生活は基本部活に力を入れた。勉強もそこそこ頑張った。おかげで高校生活は充実している。あとは現役で大学に合格して、大学生になってたくさんバイトして、勉強もして、社会人になって、今度は俺がみんなを守るのだ。

 大丈夫、このままいけばいい。

 まだ、泳いでいないままだけど。大丈夫。問題ない。

 でも、もやもやする。


***


 そんな風に高校生活を2年続けて、3年にあがるときの春休み。

 そこそこ近所の割とデカい公園、そこにはトラックがあって、昼はもちろん夜でもランナーが走っている。俺も走れるときは夜そこまで行って1時間ほど走る。
 あるとき、不注意で女性ランナーに接触してしまった。街灯はあるものの、トラック自体はそこまで明るいわけではない。しかしそれでも相手の顔はきちんとわかった。同年代っぽい。「大学生?」と聞くと、「そう、ハタチ」と返ってきた。
 大学生か……俺も、はやく。
 そんな気持ちもあって、「俺もハタチ」と答えた。

 それからその彼女にはそのトラックで度々会った。あんまり話すと大学生じゃないってバレてしまうし、まあ相手もよく知らない若い男にそれなりに警戒はしていそうだし、そこまで親しくはならなかったけれど。でも、何故か印象深い女の子だった。


 そして4月。始業式で紹介された新しい養護教諭を見て、心底びっくりする。


 なーにが、ハタチだよ。


 自分のことを棚にあげ、苦笑いした。
 檀上に立つ女性教師は、夜のトラックで出会った彼女だったのだ。


 *


 新学期が始まって1週間。早速、保健室にご挨拶だ。

「センセー、頭が痛いんすけど鎮痛剤くれませんか?」
 保健室の引き戸を開けて、中に入ると、白衣を着た彼女が振り返って瞠目した。けれど、さすがは年の功、すぐに「薬にアレルギーはない?」と微笑んで聞いてくる。

「ありません」
「そう、なら今 錠剤出すね、ちなみに、君は何年何組の誰くん?」
「3年3組、四谷翼です」
 そう、よろしくね、と彼女、雨宮(あまみや)翠(すい)は澄まして頭痛薬を差し出す。

「ウソツキ」
 受け取りながら俺がにやっと笑うと
「キミもね」
 彼女も同じく悪戯っ子のような笑みを見せた。


「で? センセーほんとはいくつなの」
 と、先生に尋ねながら、ここで『いくつに見える?』とか『内緒』とか来るかなと思ってたんだけど

「38」
「えっ」

 思わず素で驚いた俺を見て、先生はふふふと笑った。
「嘘。25。今度26になるのよ」
「……なんというか、すごい絶妙な年齢言ったね」
「それぐらいがほんとに絶妙なのよ。みんな微妙な驚きかたするから面白い」
「みんな?」
「ここに来る子みんな年齢訊くもの。隠すものでもないから答えるけど、普通に答えるの飽きちゃって」

 どうやらみんなこの新しいセンセイに興味津々らしい。

 それにしても。



「俺は5歳もごまかさなかったよ、センセー」
「3歳も5歳も似たようなもんよ」




 



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