踏み潰されたのは悲しみ
「へえ、面白いこと言うね」
イルミはこれでもかというほど目を見開き、口元だけで笑いながらそう言った。
圧倒的なオーラが全身を襲う。まったく身動きがとれない。まるで巨大な蛇に巻きつかれているかのようだった。
「ナマエがここまでオレに歯向うなんて驚いたよ」
あごを掴んでいた手が離され、ものすごい力で突き飛ばされた。背後の壁に背中をしたたかに打ちつける。あまりの衝撃に声も出ない。
突然襲った痛みに堪える暇もなく、今度は片手で首を絞められた。
「かっ、はっ!」
「ナマエには分からないだろうけど、あれは教育だよ。余計な感情を抱かないようにするためのね」
「くる、し……っ!」
「仕事をするときの俺たちは道具と同じだ。そこに感情なんて持ち合わせちゃいけない。だから針で矯正するんだよ。人を殺すことに疑問なんて持ち始めたら面倒だろ?」
ギリギリと、容赦ない力で喉を締められる。
浴びせられる言葉の羅列は、酸欠で朦朧とした頭ではほとんど意味を理解する事は出来なかった。ただただ、イルミの怒りだけが伝わってくる。その怒りにあてられて体が震え上がるのが分かった。恐怖と、それを凌駕する衝動。
耳元で心臓の音がバクバクと鳴っている。まるで警鐘のように。あるいは、何かを鼓舞するかのように。
「じっ、自分がっ、そうやって育てられた、から、だからキルアにもっ……?」
狭まれた気管から必死に声を出した。捻り出したそれはひどく掠れていたけれど、それでもイルミには届いたようで「うん、そう」と端的に返される。
「っ、じゃあそれは……間違ってたってことだ、ね」
ピタリと。イルミの動きが止まる。
その隙に、ありったけの力でイルミの手を引き剥がした。
「はぁっ、はあ、はぁ……っ!」
大きく息を吸い込むと、生理的な涙が浮かんで視界が滲んだ。ぼやけてるぐらいがちょうどいい。今のイルミの顔をまともに見たら怯んでしまいそうだ。
咳き込みそうになるのを堪えながら、もう一度息を吸い込んだ。
「っ、イルミのやり方を、この家の誰もが正しいと思っているんだとしたら……私は、二年前のあの時点でとっくに処分されてるよ」
「……」
「それが今もこうして生かされるってことは、針で操ることに疑問を持ってる人がいるってことだよね」
少なくともシルバさんは、キルアの育て方を考えあぐねているように見えた。
「ずいぶんと都合の良い解釈だな。単にナマエに殺すまでの価値がないってだけだろ」
「そうかもね。それだったら、イルミがここまで私を気にかける必要もないんじゃない?」
冷え込んだ空気がさらに温度を無くしていくのが分かった。
一触即発の空気の中、視界の端にいる執事が顔を青くしてるのが見て取れた。いつもの私だったら彼と同じような反応をしていただろう。今日の私はまともじゃない。
どうしてここまで頭にきているのか、自分でもよく分からなかった。イルミがキルアの感情を切り捨てようとしていたという事実が、ひどく腹立たしくて、悲しくて。そして無性に遣る瀬無い。
――それはまるで、裏切られたかのような気持ちだった。
自分でもおかしいと思う。けれど、これまで経験したことのない激しい感情を抑え込む術を私は知らない。衝動に従う他なかった。
「私からキルアに何かする気はないし、この家に背くような事をするつもりもない。それでもどうしても私のことが気に食わないって言うんだったら無理矢理にでもこの家から追い出せばいい。イルミには造作もないことでしょう?」
顎先をあげて言い放つ。挑発めいた言動だと自覚している。もう、どうにでもなってしまえ。
そんなやけっぱちな態度に、イルミは予想外の反応を見せた。