未完成の狂気




「ナマエはこの家を出たいの?」
「――は?」

 予想していたどのパターンとも違う反応に思わず気の抜けた声がもれた。

 さっきまでの夥しい殺気はどこへやら。イルミはいたって平然とした様子に戻っていた。
 あまりの切り替えの早さに呆気にとられてしまう。

「えっと……そこって、いま掘り下げるところ?」
「うん。気になったから」

 なんという自由人ぶり。まったくついていけない。
 あれだけ啖呵を切ったのだから瞬殺されてもおかしくないと思っていたのに、なんだか思い切り肩透かしを食らった気分だった。同時に、頭に上った血が一気に冷えていく。

(出たいのかって……)

 イルミの問いかけが頭の中をぐるぐると巡る。さっきまでのテンションだったら、勢いに任せて答えていたかもしれない。だけど冷静になった今では簡単に肯定する気にはなれなかった。
 出て行きたい訳ではない。むしろ、今追い出されるのはかなり困る。この家に長く居すぎたせいで、外で生きる術などとうに忘れてしまっていた。

「ねえ、聞いてるんだけど。ナマエはこの家を出て行きたいの?」
「いや、そういうわけじゃ」
「そうなの? さっきは追い出されてもいいって言ってたのに」
「それは勢いっていうか、頭に血が上ってつい挑発的なこと言ってしまったというか……」
「つまり、本心じゃないって事?」

 真っ黒な瞳がじっとこちらを見つめている。そこに先程までの殺気は微塵も感じられない。ただ純粋にこちらの返答を待つ姿に、つられて本音がこぼれでた。

「正直、この家を追い出されるのは勘弁してほしいかな」
「へーそうなんだ」

 しつこく聞いてきたわりに、ものすごくどうでもよさそうに返される。
 なんなんだ本当に。一体何がしたいんだ。

「……」
「……」

 意味不明な問答が終わると、唐突に沈黙が下りた。
 おかしい。ついさっきまでお互い殺気を滾らせて対峙していた筈なのに。今私たちを包むのは、なんとも言えない奇妙な空気だった。

(き、気まずい!)

 猛烈にこの場から逃げ出したい。
 けど流石に「じゃ、私は部屋に戻るんで!」と言い出す勇気は出ない。

 目の前に立つイルミは相変わらずの無表情のまま。
 本当に、いったい何を考えているんだろう。七年も一緒の家で暮らしてるけど、イルミの思考回路が理解できた事なんて一度もない。そもそも極力関わらないように過ごしていたから、こうして向き合って話すのも初めてに近いかもしれない。

(きっと、今後はこうして絡まれる機会が増えるだろうな……)

 はてしなく憂鬱な気分になる。
 いっそのこと家を出て行くのもアリだったかもしれない。生きて出してもらえるか分からないけど。

 そんなことをぼんやり考えていると、イルミの方から沈黙を破ってきた。

「ま、いっか。今日はやめておこう」
「え」
「ナマエが生意気なこと言うからどう懲らしめてやろうか考えてたけど、やっぱりやめておくよ。さっき親父に釘さされたばっかりだしね」
「そ、そうですか」

 なんだかよく分からないけど、とりあえず命拾いしたらしい。……ていうか、黙っている間にそんなこと考えてたのか。おそろしすぎる。

「最後に言っておくけど」

 ぬうっと音もなく近付かれ、耳元に顔を寄せられる。唐突に詰められた距離に全身が強張った。

「ナマエもいずれ思い知るよ。オレが言ったことが正しいって」

 囁かれた言葉は、まるで呪いのよう。

「忘れるなよ。お前はオレに監視されてる身だ。少しでも不審な行動を見せれば次は容赦しない」

 そう言い捨てて、イルミは廊下の奥の闇に消えていった。

  

「…………は、はぁ〜〜〜」

 完全にイルミの姿が見えなくなってから、思い切り息を吐き出した。膝から力が抜けてその場に崩れ落ちる。

「助かった……」

 あのイルミにあれだけ歯向かって五体満足でいられるなんて。
 イルミの頭の中でどういう結論に至ったのかは分からないけど、とりあえず最悪の事態は切り抜けられたみたいだった。

「生きててよかったー……」

 全身がカタカタと震え出す。今になって漸く、自分のしでかした事の恐ろしさを自覚していた。
 まさか、自分があんな風になると思わなかった。恐ろしい。一旦キレるととんでもない命知らずになる自分が末恐ろしくて仕方がない。

「とにかく、部屋にもどろう」

 今はとにかく一人になって休みたい。後悔も反省もその後だ。

 震える膝を叱咤して、なんとか立ち上がった。が、上手く力が入らずよろけてしまう。もつれる足を壁に手をついて支えながら、よろよろと歩き出す。この分だと部屋に着くまでかなり時間がかかるだろう。今日ばかりは、この広すぎる屋敷を恨みたくなった。

『ナマエはこの家を出たいの?』

 ふと、さっきのイルミの言葉が思い出されて微かな疑問が頭をよぎった。

(もしあの時……この家を出たいと言っていたら、どうなっていたんだろう)

 問いかけてきた時の底知れない瞳を思い出して、なぜか背筋に悪寒が走った。

(深く考えるのはやめておこう)

 よく分からないけど、考えることを脳が拒否しているような気がした。触らぬ神に祟りなし。今は、生き残れた事を喜ぼう。
 そうして胸の内に残る僅かな違和感を封じ込め、私は部屋までの果てしない道のりを歩き始めた。


 ――この日を境に、そのあと数年にわたるイルミの壮絶ないびりが始まったのだった。


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