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恵みがなければ枯れるのです

契約更新料を支払うよりも引っ越した方が通勤事情も改善されて良いと気付き、三日で引越し先を決めたのが一ヶ月前。引越しシーズンから外れていたこともあって格安で引越し作業も終わって、荷解きもひと段落着いたのが今日だ。住民票やらの住所変更なども面倒だったが、この荷解きというのが中々進まなくて困る。一人暮らしだと自分の手しかなく、そういう意味では前の引越しは楽だったなと苦笑が漏れた。
前の時は元恋人が手伝ってくれた。女の荷物は服が多いとぶちぶち言いながら、それでも二馬力でやればあっという間だった様に思う。
その時次の引越しまでには荷物を減らすと決めていたのに、なんだかダンボールの数が増えていた様に思うから上手くいかなかったらしい。

「心機一転、切り替えないとね」

最後のダンボールを畳んで玄関に仮置きする。このマンションは平日ならいつでもゴミを出して良と説明を受けている。ゴミ捨て場として指定された場所へ持っていけば夜に出しても良いのだとか。
駅も近いし、前より格段に住みやすいところへ移れたなと改めて嬉しくなりながらまとめたダンボールをすずらんテープで縛る。明日の朝にでも持っていくとしよう。流石に今日はもう疲れた。
と、スマートフォンが鳴る。この音は電話だな。

『もしもし、かなみちゃん? 遅くにごめんね、引越し終わった?』
「うん、終わったよ。 どうかした?」

表示された名前は私の引越しを知る数少ない知人、いや、まあ友人の一人だった。ちゃらんぽらんの恋愛脳で、ヒモとして生計を立てて食いつないでいる年上のろくでなし。大学時代のバイト先で出会ったコイツは、その時も片手間程度にバイトをして主な生活費を当時の恋人にたかっていたっけ。バイトをしていた理由だって飲食店なら廃棄品を持ち帰れるというものだったから本当にろくでもない。それでも正月やお盆なんかにシフトに入ってくれるから店長には重用されていたらしいけど。

『えっと…俺が首突っ込む筋合いじゃないんだけどさ、きっかけ作ったのは俺だから流石に気になるっていうかね? うん、単刀直入に聞くけど尾形と別れた?』

いつもより早い口調に、潜めた声。まるで辺りを憚る様子に訝しむ。一体白石はどこから電話をかけているんだろう。

「うん、別れた」

尾形とは私の元恋人の名だ。下の名前を百之助と言い、白石とバイト先が同じだった頃に知り合い、大学を卒業すると同時に付き合い始めた白石の友人、いや、本人曰く知人である。

『ええー…』

電話の向こうで白石が謎の声を上げる。がっかりした様な、驚いた様な。しかし戸惑いの声とは思えないそれに首を傾げる。
尾形とのことは散々白石に愚痴ってきたから納得されこそすれ、そんな煮え切らない反応をされるとは予想外だった。

「それがどうかした?」

尾形との付き合いは、付き合いたての頃でもどこか馴れ合いの延長の様なのんびりとしたものだった。手を繋いで歩くし、会えばほぼ必ずキスをした。けれど相手のことで頭がいっぱいなんて浮かれた恋の歌みたいな時期がなくて、ただ一緒にいるのがしっくりくるから寄り添っていて、ずっと一緒にいる為に付き合い始めた様な関係。そうなのだと、思っていた。
というのも終わりかけの頃、つまり最近では噛み合わないことが多くなっていたからだ。
尾形が転職を考えていたことは前から知っていた。それが終わったら同棲しようと持ちかけられていて、その為の新居探しに胸を弾ませていたこともあったけれど、まさかそのまま単独での引越し先探しにシフトすることになるとは思わなかった。
…尾形は転職活動を理由に、私と滅多に会ってくれなくなったのである。
最初の頃はそうでもなかった。
転職エージェントと合わないと言って苛立つ尾形の話を黙って聞いて、尾形の転職願望を知って引き止めにかかってきた今の職場の愚痴やら対抗策の相談やらにも向き合った。会う度にそれでも頼られている様で嬉しかったし、そんな忙しい中でも会ってくれる恋人が愛おしかった。
それも今となっては単なるガス抜きの場に使われていただけかもしれないとさえ思えて、それでも会って話をして、疲れたと言う尾形の抱き枕となるのは悪くなかった。
尾形の仕事好きというか、自分への評価がわかりやすい仕事という手段を好んでいたことを知っていたから、良い転職先が見つかるといいなと思っていたのだ。本当に、こころから。

『…えっと…なんでかって訊いてもいい?』

けれど尾形はその内転職に関して何の話もしなくなり、それどころか連絡がつかないことが増えていた。
たまに外出してデートしようなんて約束をしていた日も約束の場所に現れず、何かあったのかと思ってスマートフォンをいくら鳴らしても応答が無い。思わず近隣で事故が無かったかネットで当たったりして、何か知らないかと白石に連絡を取ったりもした。
結局尾形は私との約束を忘れて白石とパチンコにいたという、最高に最悪の顛末に至ったのだけれど。
それでも当時の私は尾形の無事に本当に安堵したし、普段の尾形なら約束を忘れるなんて有り得ない事態に体調を心配さえしていた。三時間の待ちぼうけに文句一つ言わず、ゆっくりしてねと言って帰った自分が信じられない。あの時にがつんと言っていたら今も尾形と付き合えていたのかなんて考えて、どうやらまだ未練があるらしい自分に驚いた。

「なんでも何も…白石には散々話したでしょ?」

そのすっぽかし事件を皮切りに、尾形からの連絡は更に少なくなっていった。比例して会う頻度も減り、たまに会っても尾形が構ってくれることは無かった。それに追い縋ってしつこく絡み続けられる様な性格ではなかった私は、じっと沈黙を守る尾形に何かあったのか、せめて返事をしてくれないかと時折話しかけることしか出来なかった。
そして少し席を外した間に尾形が忽然と姿を消していることも珍しくはなくて、最初は本当に尾形が転職活動のストレスから心を病んだのではないかとすり減るくらい心配した。方々を駆け回り、その行方と安否が知れるまで何度眠れない日々を過ごしたことか。
…だからそれが杞憂だとわかった時、私は自分でも驚くほどすんなりと尾形との別れを決めたのだった。

「愛想が尽きたの。 尾形もわかりやすく別れたいって言ってくれたら良かったのにね」

尾形の転職活動がとうに終わっていたことを、私はある日白石から知らされた。既に新しい職場で辣腕を発揮しているらしく、上役からの覚えがめでたいとは同じ職場にいる白石の今の恋人の談だ。
じゃあどうしてと、先ず尾形への信用が崩れた。
寡黙で底意地が悪いけど、人として見損なうべきところは何一つ無いという最低限の信頼が塵となる。
一体なんでと、次いで愛情が枯れた。
転職が終わったら同棲を始めるという話は尾形から持ちかけてきたもので、だから尾形は忘れずにこういう手段に出たのだろうと納得出来た。私に転職出来たことを知られたら、同棲を迫られると思ったに違いない。それを忌避しての嘘なら、つまり尾形は私と同棲したくないと気が変わったということ。

『尾形に訊かないの? どうして黙ってたんだって』
「聞かないよ。 もうどうでもいいもん」

尾形に真意を確認すべきという理性は、その答えによっては関係を継続させるのかという怒りが殴り殺した。
何事も無く転職出来たのなら良かったという慈愛は、なけなしの情と共にお疲れ様と捨てた。
一晩泣き濡らした私の心にそうして残ったのは疲労感だけで、もう尾形と関わりたくないと投げやりに願った。しかしその願いを叶えるのは自分でしかなかったと気付き、重い足を引きずる様にして不動産屋を訪ね、新居を探して今に至る。この連絡先も明日には捨てて、番号もメールアドレスも一新する予定だ。
迷うのは白石に連絡先を教えるかどうかということ。
今更尾形が私に連絡を取ろうとしているとは思わないが、一切の関わりを断ちたいのなら唯一の接点である白石ごと断ち切るのが確実ではある。まあ最悪、メールアドレスだけ渡しておけばいいか。

「で、なんでそんなこと訊くの?」

全ては白石がどうしてこんなことを訊いてきたのか、この答えにかかっている。この付き合いやすい友人を惜しむ気持ちはあれど、私は平穏な暮らしの方に重きを置く。

『…今ね、尾形と、元かなみちゃん家の前にいる』

…その答えは予想外だった。
何の用事があっているのだと訊こうとして、躊躇う。
もうこのまま電話を切って電源を落としてしまえばそれきりに出来る。明日の今頃には新しい連絡先が手元にあって、新居の住所を知らない白石は、尾形も、ここに来ることは出来ない。ほとぼりが冷めた頃も白石の連絡先が変わっていなければ連絡が取れるのだからそうすべきだ。

「ごめん白石、暫く連絡とれないけどまたね」

口早に言ってスマートフォンを耳から離す。画面を見てタップすべき場所を確認しないと通話を終えられない不慣れさが災いして、私は直後の声を拾ってしまった。

『かなみ』

久方振りに聞く元恋人の声は、泣き縋る子供の様だった。



「…尾形? ね、俺のスマホ、返して欲しいなーって…」

ツー、ツー。
その無慈悲な単音は白石の耳にも聞こえている。掛け直しても出てくれないだろうことは想像に容易く、友人と呼べる年下の友人との交流が途絶えたことは素直に寂しかった。
しかしそんな感傷に浸らせない脅威が目の前にいる。
昔から変わった男だと思いながら付き合いを続けてきたが、今日程どこかで関係を切っておけば良かったと思ったことはない。

「かなみは何処だ」

通話終了と表示されたスマートフォンを見下ろして、男は、尾形は低い声で唸り声を上げる。握り締められた自身のスマートフォンが軋む音を聞きながら、白石は努めて剽軽に肩を竦めてみせた。

「さ、さあ…? 引っ越すとは聞いてたけど、もう引っ越してたなんて今日初めて知ったしさ…新しい住所もまだ教えてもらってなかったんだよね〜これが」
「その引越し自体、なんでお前が知ってて俺が知らないんだよ」

それは自業自得だろうと返しそうになった口を噤む。今の尾形は白石を殴ることは勿論、三階建てのこのハイツから突き落とすことも躊躇わないだろう。それで彼女の、かなみの居場所が知れるというなら絶対にやるという確信があった。
だってこの男は愛して止まない彼女の為ならなんだってする、そういう男だ。

「…かなみちゃん、別れたって言ってたぜ」
「別れてない。 別れるワケねえだろふざけんな」

最初に彼女から相談を持ちかけられたのはいつだったか。
転職活動に励む恋人の心配をする彼女は本当に健気で、あの偏屈な友人がよく彼女を射落とせたものだとほとほと感心する。最近連絡もままならない程に忙しそうだから気にかけてやってくれと頼まれ、任せろと頷いた時は自分も無邪気だった。
しかし注視していると友人の動きは中々奇妙で、辞めたがっている職場の仕事をしながら器用に転職活動をする姿には疲労も気負いも、罪悪感すらない。定時に仕事を上がって家にまっすぐ帰っていることは探偵気取りの尾行で把握したことだ。
じゃあどうして彼女に連絡をしないのか。
毎週末のお泊りも無くなったと寂しげに吐露した彼女の憂い顔を思えば、別の女の影があると疑うのは自然なことだった。

「なんで、なんでだよかなみ。 俺のこと好きだって言ってたのに、なんで」

虚ろな声が呪詛にも似た泣き言を口走る。何度も白石のスマートフォンを操作して何とかもう一度連絡を繋げようとする姿のなんと悄然としていることか。
それでも同情は出来ないと内心で断じて、この場から逃げ出す算段を立てる。先ずはスマートフォンを返してもらわないことには始まらないけれど。

「だから言ったじゃん。 いい加減にしないと愛想尽かされるよって」

結論から言えば尾形には他に手がける女はいなかった。なにか資格の勉強をしている様で、しかしそれは尾形が生業とする職種にはあまり関係が無い。まるで時間を潰す様なそれを訝しんでいる内に、なんと尾形が白石の恋人と同じ職場に入ってくるという奇跡が起きた。
よく分からないけれど、転職が済んだのならこれでかなみの憂いは無くなるだろう。そう安心していた矢先、相変わらず浮かない顔の彼女に呼び出されて驚いた。
彼女は嘆く。転職活動が難航しているからか、尾形がふらりと姿を消すなどして様子がおかしいと。
確かにおかしいと白石は頷いた。同棲を求めた恋人に転職が完了したことを告げない尾形の奇行の真意を知るには、最早本人に問い詰めるしかなかった。

「かなみ、かなみ。 頼むから出てくれ。 かなみ」

白石の声など聞こえていないとばかりに、尾形は呟きながら絶えずスマートフォンを操作している。しかし手が止まらないということは応答が無いということで、白石は先程のかなみの言葉を思い返す。
曰く、暫く連絡は取れないけどまたね、と。
尾形ごと切り捨てられなかったことを喜ぶべきか、ただの方便だと諦めるべきか迷う。切り捨てられるだけのことをした自覚はあるが、白石のそうした行動を彼女はまだ知らないはずだから。

「かなみ」

尾形の鞄の中には指輪がある。婚約指輪として今夜彼女に贈るはずだったそれが。
普段淡白な恋人が心配してくれた、甘やかしてくれた。ただそれが嬉しくて増長して、やり過ぎて振られることとなった間抜けな男の所為で行き場を失ったそれが可哀想だ。
自分の為に振り回されてくれる恋人の姿に愛を見出す気持ちは分からないでもないが、相手が苦痛に苛まれているだろうことを思いやれなかった罪は重い。
それでも白石は我が身が可愛くて、目の前の不気味な男に諦めろと告げることが出来ない。自分がどうこうしたところで彼はかなみを諦めないだろうことも分かるから。

「ごめんね、かなみちゃん」

かなみの苦悩にとどめを刺したのは自分だ。恋人の職場に尾形がいることをうっかり漏らしてしまった。
それを聞いて、呑み込んだ時の彼女の色の抜け落ちた顔を今でも覚えている。今の今まで情に縛られていた彼女が解き放たれる瞬間を。
…死ぬんじゃないかと危ぶんで、今夜尾形を連れてここへ来たのは本当に失敗だった。別の死の気配が彼女に忍び寄っている。

「かなみ、なんで、いやだ、別れない」

ぶつぶつと繰り返す尾形の瞳には正気が薄い。愛と狂気は紙一重とはよく言ったものだと、他人事の様に思った。

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