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この手で摘みに参りました

念願の1LDKの住み心地は抜群だ。これで1Kだった前の家と家賃が五千円しか変わらないのだから事故物件というのはありがた、違った、恐ろしい。

「ええー…事故物件なの、アンタの家…」

新居を見せろと煩かった友人の勢いが急激に引いていく。心霊系が怖いと聞いたことはないが、やはり気味が悪いものらしい。住んでみれば本当に大したことないのに。

「なんかね、前の住人が痴情の縺れで恋人刺し殺しちゃったんだって。 事件が起きてから半年も経ってない所為もあって誰も不気味がって住まないって言うから、ちょっとお家賃交渉したら格安になった」
「いやいやいや、アンタなにイイ笑顔で言ってんの…大丈夫? こう、霊障とかないワケ?」
「何にも」

被害者の死体が発見されたのは玄関だと聞いているが、帰宅してドアを開けたら男が佇んでいたとか横たわっていたとかそういうことは無く、キッチンの包丁が勝手に移動していたりもしない。

「アンタの想像が怖いわ…っていうか死んだのって男の方なの?」
「うん。 後ろから刺されて、逃げようと玄関まで辿り着いたけどそこで力尽きたんだって」

うわあと表情を歪めて言葉を失う友人のその顔は、ここに決めますと告げた時の不動産屋と同じものだった。何かあったらすぐに言って下さいと何度も念を押してきたあの人は、多分幽霊だのを信じているのだろう。あの分だと隣人がうるさいんですと訴えても幽霊の所為にされそうで不安が募る。
まあ角部屋だし、唯一の隣室から聞こえてくるのは常識的な生活音だけだからいいのだけれど。

「犯人のカノジョは捕まったの?」
「マンションの非常階段から投身自殺した」

やばいじゃんと悲鳴を上げる友人に、本当に何も無いから大丈夫だよと苦笑いと共に答える。
事件の流れを知って思うところがないと言えば嘘だが、こういう痴情の縺れから刃傷沙汰になるのはフィクションかノンフィクションかに関わらず有り触れた出来事だ。現実に真新しさを求めるのは間違っていると理解しつつもへえそうなんだ、以外の感想が浮かんでこない。

「アンタの心臓、本当に毛でも生えてるんじゃないの…? なんかもう、いっそ羨ましいわ」
「だって赤の他人の私が気にしたって仕方ないでしょ。 事件後にご遺族の人たちが何度も来てしっかり弔ったって話だし、成仏してると思うよ」

結果的に被害者は男性になっているが、暴力に浮気に借金など、それまでの事情を鑑みれば明らかに加害者の女性も被害者と言える人だった。堪り兼ねての犯行だとは警察のお墨付きで、男性側の遺族はむしろ女性側の遺族に謝り倒しだったとか。

「ちなみにさ、そういう事故物件の家賃ってずっとそのままなの? これだけ住んで何もないんだから普通の家賃払って下さいとかって来たりしない?」
「さあ…どうだろ」

なにせこれが初めての事故物件との遭遇だ、そういった事情は何もわからない。マンション全体の賃料を上げるとかでなければ応じる必要はなさそうな気もするが、早めに不動産屋から現地を取った方が良さそうだ。

「あ、そうだ。 このデータありがとね、助かった」
「ああ、いつでも良かったのに」

言って友人が鞄から取り出したのは一本のUSBだ。私が以前担当していた案件の過去データを参照させてほしいというので、上司の了解をもらった上で他部署の彼女へ貸し出していた。新顧客との取引を始める上で初動の数字があまりに適当だとこの先に差し障りがあるのは当然のことで、後の為に都度データを整理するというのは大事なことだと痛感して久しい。これがまた、本当に面倒なのだけど。

「…あ」

受け取ったそれを仕舞おうとして、一冊のノートが鞄の中にあることに気付く。取り出してまじまじと眺め、これはなんだろうと首を捻ったところで思い出した。

「なに、そのノート」
「朝ポストに入ってたやつ」
「は?」

マンションのオートロック前に並ぶポスト郡の中、私のポストは一番奥側の列にある。丁度私の目線と同じ高さにあるので毎朝何気無く目視で確認していたのだが、昨日帰宅した際に空にしたはずのポストに、今朝このノートが刺さっていた。
同じマンションの上層階はファミリー向けに間取り違いの部屋で埋まっている。そこに中学生か高校生か、制服の子がいることは何となく知っていた。だからきっとその子の落し物だろうと思ったが、忙しない朝に見つけたものだからつい持ってきてしまったことを今知った。そのままにしておけば本人の目に留まったかもしれないのにやってしまったなあと溜め息が漏れる。

「ふーん…大丈夫かな。 受験生とかだったりしたら大騒ぎじゃない?」
「それね。 私が帰る頃には管理人さん帰っちゃってるし…管理人室のポストに付箋でもつけて放り込んどこうかな」
「そうしたら? アンタの手元に置いといてもなんにも出来ないでしょ」

この友人の、こういうさっぱりとしたところが好きだ。どうしようかどうしようねという堂々巡りじみたやり取りにならなくていい。
と、彼女の目がじっとノートを見ている。私からしてみたら何の変哲もないノートなのだが、なにか見つけたのだろうか。

「どうかした?」
「…いや、そのノート…裏表紙ぼこぼこしてない?」

ノートを引っ繰り返す。てっきりそういう紙質故の手触りなんだと思っていたが、目で見てみれば筆圧に負けた結果の凹凸が裏表紙一面を埋めていることが分かる。

「これ…裏表紙の内側にも何か書いてる?」
「節約? 区切りが悪いからそこも使ったとか?」

何にせよ熱心な子なんだねと感心しきりな友人を前に、中を見ようとは言い出しにくい。
何だろう。自分でもよく分からないけれど、中を確かめた方が良い気がしている。
…ただの勉強ノートであると安心したい自分がいる。

「ねえ、」
「あ、ごめん、休憩時間終わりだ。 また後でね」

言いながらばたばたと席を立つ友人を引き止めることは出来ない。私もあと五分程で休憩時間が終わるから、続きは終業後に約束している晩御飯の席でいいだろう。

「うん、お疲れ様」

ひとりで温くなった紅茶を啜る。それからノートを鞄の中に仕舞おうとして───辺りを伺う。誰もいない。
私が手にしているのが拾い物のノートだなんて相対していた友人にしか話していないのに、それでも他の目を気にしてしまうのはやはり後ろめたいからだろう。無記名のノートは私の手に余る。故に持ち主を探す為だなんて大義名分も成り立たず、やはり管理人さんに渡すのが最善にして唯一の解決策なのに。
ごめんなさいと、声に出さず口ずさんで表紙を開く。
…そこには私の想定していた数式は無く、黒のボールペンでただ文字が書き連ねられていた。
一瞬国語の勉強ノートなのかと思ったが、少し読み進めて違うと知る。慌ててノートを閉じた。

「日記じゃんこれ…!!」

字の粗さからして、多分男の子だろう。日付に一行使い、改行してその日あったことを書き連ねている。三日分読んだところで日記だと確信した私は、自分が見知らぬ少年のプライベートを侵害していることに気付いて頭を抱えた。
…見なかったことにするしかない。
鞄の中にノートを戻す。デスクに戻ったら付箋を用意して、帰宅したら直ぐに管理人室のポストに放り込む。それで全て終わりにして二度と思い出すまい。



少し、呑みすぎてしまったかも知れない。
あのノートのことを忘れたくてついいつもより酒が進んでしまった。友人が止めてくれなければこうして一人で帰ることもままならなかっただろう。
辺りはすっかり暗い。いつも近道として使っている路地もとっぷりと闇に飲まれており、足は街灯のある大通りへと吸い寄せられた。行き交う車のヘッドライトもあって足元に戸惑うこともない。駅から徒歩十分の我が家を目指して歩く。
と、前方から警察官が二人、歩いてくる。
何かあったのかと訝しみ、そうだあったんだと思い出す。
それは勿論私の現住居に纏わる解決済みの殺人事件ではなく、最近、夜な夜なこの辺りに出没する様になった引ったくりである。女性とお年寄りばかりを狙い、特に女性相手には暴行未遂まで起こしているとあって大々的に注意喚起がなされていた。
とは言っても全国ニュースで取り上げられるには少々パンチが弱く、私もマンションの掲示板をチェックしていなければ知らなかったことだ。そして毎夜行きあう警察官のこうしたパトロールが、その危機感を忘れさせないでいてくれる。

「今お帰りですか? お気をつけて」
「ありがとうございます、お疲れ様です」

すれ違いざまに声をかけられ、会釈と共に定型文を返す。実際ありがたいと思っている。
彼らのパトロールがあるから私もほろ酔いで帰ろうなどと思えるのだから。

「…だめだよね、やっぱ」

つい路地に入りそうになった足を慌てて戻す。直線距離にして十メートルも無い路地ではあるが、右手には空きの多い駐車場がある。下手に変質者に出くわしてそこへ追い込まれでもしたら袋の鼠だ。若しくは駐車場で待ち伏せられていて、通り過ぎる瞬間後ろから襲われたらひとたまりもない。
やはりより安全をとって大通りを行こうと踵を返そうとして───足を止める。
何やらガシャンガシャンと、フェンスを揺らす様な音が聞こえた気がしたのだが。
そう言えばあの駐車場は猫の溜まり場でもあるから、もしかしたら乱闘でもしているのかもしれない。何にせよ近づかないに越したことはないと足早に離れた。
もう我が家はすぐそこだった。



「ただいまー」

返事がある訳も無いのにこう発してしまうのは習慣で、もっと酔いが深ければお帰りも自分で補っている。
シミひとつ見当たらない白のタイルが敷き詰められた玄関に靴を脱ぎ捨てて、鍵をかけてチェーンをかける。いくら酔っ払っていてもここまでは出来るから習慣というものは大事である。
リビングに入り、灯りをつける。
今朝は少し寝坊してしまった為に出しっ放しになっているコップを先ず片付けようとソファに鞄を放り、弾みで飛び出したノートを見てあっと声を上げた。
しまった、すっかり忘れてた。

「…明日でいっか」

我が家に入ってしまったからにはもう出たくない。明日は休みだが管理人室のポストに突っ込むくらい、寝巻きの上に何か羽織って走ればいいだろう。
気を取り直してコップを、と。

「あれ?」

コップがない。百均で買った安物ながら側面に細工があって、麦茶なんか入れると涼しげな見た目になるのがお気に入りの逸品が。
流しに置いたっけと思ってキッチンに回るもそちらにも無い。
否、正しくは流しに無かったのであって、コップはキッチンにあった。あったのだが。

「なんで…」

洗い物の水切り用カゴに、逆さにされてコップはあった。
おかしい、有り得ない。
ほろ酔いの頭を必死に働かせて今朝の光景を思い返すが、そんなことしなくても私は絶対にコップを洗ったりなんかしていないと断言出来る。だってそんな余裕など無い程に切羽詰まって家を出たのだ。
軽く水洗いした後にカゴに置いたというのも無い。水を飲んだだけにしろ、使用した食器類は必ずスポンジで洗えと躾けられてきた自負がある。

「…誰が」

ぽっと頭に浮かんだのはここが事故物件であるという事実だ。しかし食器を代わりに洗ってくれる心霊現象などお笑い種だし、そうであるならこれからも頼みたいくらいである。
むしろ怖いのは、これが生きた人間の仕業だった時だろう。
この部屋に入れる、私以外の人間は限られている。
しかし誰の仕業にせよ、コップを洗うなんて、そんな侵入の形跡を残す様なことをしたのか理解に苦しむ。まるで自分の存在をアピールしたがっている様だと考え、再び事故物件の四文字が頭に浮かんでくる。幽霊って、自分の存在に気付いて欲しくてポルターガイストやらを起こすんだっけ。
そっと足音を殺してソファに戻り、スマートフォンを手に取る。先程まで共に飲んでいた友人にかけようとして、止めた。
彼女を危険に晒したくは無いし、加勢を頼むなら男性の方が良いだろう。腕っ節はまるきり頼れないけれど、顔の広さには定評のあるあの友人に電話をかける。

『…はーい? もしもし、どちらさまー?』
「白石!」

この能天気な声にここまでほっとさせられる日が来るだなんて思わなかった。へ、と間抜けな声を上げる白石に先ずは謝らなければならない。

「私、かなみ。 連絡遅くなっちゃってごめんね」
『え、ええ!? かなみちゃん!? うわあ久し振り! 元気だった?』
「まあ何とかね。 それより白石、急で悪いんだけど〇〇町の〇〇駅付近に知り合いがいたりしない?」
『え? どうしたの急に?』

当然戸惑う白石に、手短ながら事情を説明する。通話したまま向かう先は玄関だ。
最悪の場合、侵入者はこの部屋の中にいるかもしれない。寝室や風呂場を単独で確かめる勇気は私には無く、交番に行くにしたって酔っ払いの勘違いで済まされたらやはりひとりで帰らなければならない。
それくらいなら白石に知人を紹介してもらってその人についてきて欲しいと、手前勝手な算段を私はつけていた。

『…かなみちゃん、あのさ、ポストにノートとか入ってなかった?』

無事に自室を脱出し、エレベーターホールの前でゴンドラの到着を待っていた時。
全てを聴き終えた白石の第一声に私は言葉を失った。

「…なんで白石がそれを知ってるの」

私のポストにノートが差し込まれていたのは今朝のことだ。どうして、今数ヶ月振りに連絡をとったはずの白石がそれを把握しているのか。

『かなみちゃん、直ぐ電車に乗って××駅に来て! 俺と、あと牛山っていうガタイの良いの連れて待ってるから! 着替えとかはこっちで買えばいいからそのまま、直ぐ来て!』

白石の、こんなに切羽詰まった声は初めて聞いた。
なんとかそれに分かったと返して、到着したゴンドラに乗り込む。私の住むフロアから一階までは一分かからないはずなのに、今はとてつもなく長く感じた。

「白石、あのノートなに? 何を知ってるの?」

通話を繋げたままでエレベーターを降り、自動ドアを潜ってマンションを出た。先程辿った帰り道を逆走する心地も正反対で、ポストの前を通りかかる時は思わず顔を背けてしまった。またノートが差し込まれていたら、私は泣き出さない自信が無かった。
…あれ。そういえば私、あのノートはどうしたっけ。

『会ってから聞いた方がいいかな…これ、ひとりで聞くのは無理だと思う』

ノートの所在をはっきりと思い出せなくて不安に駆られる私に、白石が追い討ちをかけてくる。
てっきり男子中高生の日記とばかり思っていた物がそれ程に恐ろしい代物だなんて信じたく無いが、そもそもどうして私のポストに差し込まれていたかに思い至って息を呑んだ。

「あのノート…私宛なの?」

誰かが落し物のノートを拾い、床に戻すのを躊躇って手近なポストへ突っ込んだのだとばかり思っていた。
でももしそれが、手紙をポストへ届ける様に、私宛の物だから差し込まれていたのだとしたら。
…夜の大通りを見渡す。先程すれ違った警察官二人はまだ折り返して来ていないらしい。

「誰から、なんで白石は知ってるの」

駅へ足早に向かう傍ら、殆ど涙声で白石を問い詰める。事情を知っているということは白石もグルなのだろうかという疑いが首を擡げるが、今の私には白石しか頼れる人間が居ないのも事実だった。逃げて来いという言葉を信じて駅を目指す。

『かなみちゃん、それは会ってから話すから。 今はとにかく駅に行って。 電車に乗るまで電話は繋いで…あ、ちょっとごめん』

電話の向こうで白石の声が遠く聞こえる。あともうひとり、誰かの声も。
牛山、いたか。いやいなかった。じゃあ間違いないアイツだ、急いで出るぞ。尾形のヤツどうやって居場所を探り当てたんだ。

「尾形?」

横断歩道の手前で足が止まる。青信号が点滅を始めて、程なくして赤に変わった。

『ごめんねかなみちゃん、直ぐ行くから、とにかく落ち着いて』
「白石、尾形なの?」

白石の息を飲む音がはっきりと聞こえる。

「なんで尾形が…?」

言いながら私の脳内には、数ヶ月前に聞いた声が反響している。
かなみと、泣き出しそうな子供の声で私の名を呼んだ元恋人の声が。
てっきり受話器を耳から離した所為で声が変質して聞こえたのだと思っていて、それでも、聞き間違いでも貴重なものを最後に聞いたなとしか思って居なかった声だ。
私からケリをつけられて悔しさのあまり地団駄でも踏んでいればいいと思ったきり、ここひと月は名前を思い出すことさえ無かった。

『…尾形は、かなみちゃんのこと全然諦めてない。 別れないって喚いて、ずっと探してる』
「はあ?」

白石が何を言っているのか、よくわからない。
尾形が私を諦めていないってなんだ。一発殴るのを諦めていないと言いたいのか。それとも俺がお前を振るんだと宣言したいのか。それまでは別れを認めずに、面と向かって振る為に探しているということだろうか。
白石の話に耳を傾けながら、青になった信号を小走りで渡る。

『尾形はまだ…っていうか、ずっとかなみちゃんのこと好きなんだよ。 バカな嘘吐いてたのはかなみちゃんの気を引く為で、優しく構ってもらう為に鬱じみた演技してたんだ。
最後に連絡取った後、かなみちゃんに振られるって気付いてアイツ完全にぶっキレた。 完璧にイカれてる、だから早く逃げて!』

…なに、それ。

「…なんで、ノート、」

鞄の中で紙の擦れる音がする。ノートは鞄の中だと気付いて、泣きたくなった。

『俺もちゃんと中身読んだことは無いけど、尾形に言わせればラブレターなんだって。 かなみちゃんが居なくなった日から毎日なんか書いてたよ。 多分まともなこと書いてないから読まない方が良い、でも証拠になるから捨てないで持ってきて!』

白石も移動を開始しているらしく、声が振動に揺さぶられて上下している。走っているのかも知れない。それに分かったと返す私の目の前には駅の改札口があり、震える手でパスケースを取り出した。その時にやはり鞄の中にあったノートを視認してしまい、どうして帰りがけに管理人室へ放り込むのを忘れたのかと呪わしくなる。
いや、そんなこと言っていても始まらない。
今は一刻も早く電車に乗らないと。
改札口を抜けた勢いのままにホームへ駆け上がる。幸い電車は間もなく来るようで、ベンチに座っていた人々が白線間際に列を成し始めていた。
私もその最後尾に並びながら、ふとマンションの方を見る。周りの建物より高さがあるから、ホームからでも私の部屋は分かる。流石に窓が開いているかどうかまでは分からないが。

「あ」

私の直前に並んでいたサラリーマンが振り返る。しかしそちらに構えない程、私は動揺しながら目が釘付けになっていた。
消してきたはずの家の灯りが点いている。
夜の闇の中にあって煌々と光るそれは間違え様がなく、況して我が家は角部屋とあって位置が分かりやすい。上から四番目だと、何度も数えて絶望する。心無しか窓辺に人影が見える気がする。嫌だ、もう見ていたくない。いっそ心霊現象でいいから。

『かなみちゃん?』
「…電車、来たから、乗る」

白石の声で我に返り、ホームへ滑り込んできた電車に乗る。通話終了のボタンをタップして、スマートフォンを上着のポケットへ仕舞う。
帰宅ラッシュの時間は過ぎているはずなのに、妙に混み合う車内の中をかき分けて反対側のドア脇を陣取った。これで××駅までは安泰の位置だと胸を撫で下ろす。
が。

「顔色悪いぞ、大丈夫か」

心から心配していると言いたげな、気遣わしげな声と共に頬を撫でられる。危険を察知して警鐘を鳴らしているのが理性なら、声と手の主を確かめるべく視線を巡らせてしまうのは本能なのか。或いは逆なのか、よく分からない。

「見つけた」

がらんどうの闇を凝らせた様な瞳に、悲鳴も恐怖も飲み込まれる。場違いな燕尾服の元恋人の、傷と血に塗れた手に手を取られたまま、電車がゆっくりと走り出すのを感じていた。

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