小さく息をする


 四.

 *

彼女は、沈んでゆく水のなかで、金色の揺れるあの人にもう一度会いたいと願いました。
初めて目にしたその人の面差しを思い浮かべていると、不思議なことに彼はあまり長くは生きられないのだろう、と思いました。
どうしてそのように感じられるのか、到底わかることのないまま、此の世には説明のつかぬことがたくさんあるのだと、以前おばあさまが申していたのを思い出しました。
そう思うと堪らなく切ないような心持ちがして、じっとしていられなくなり、地上へもう一度行かなくてはならないと、胸が急き立てられ落ち着かなくなるのでした。

あの日みた一切のことを包み隠さず、おばあさまに告げました。
おばあさまは、人間のいのちは短いのだよ、とやさしく云いました。そして、わたしたちは三百年のあいだ生き延びて、いつかは泡になって消えてしまうが、人間は繰り返しみじかい生を積み重ねて、たましいという形を引き継ぐのだと、話しました。
だから何も哀しいことはない、人間は皆そうして巡りゆくのだと付け加え、手に持っていた光の粒を地面に撒くのでした。
瞬く間に小さな芽が生えて、辺りは色とりどりの新しい息吹に満ち満ちてゆきました。


池の中の生き物たちは、これまでと何ら変わりなく生活しておりましたが、彼女だけは何処かぼんやりとして塞ぎ込むようになっておりました。
そんな姿を聞きつけた池の淵に棲む魔女が、ある真夜中に彼女の前へと現れました。

魔女は彼女に魅力的な提案をしてきました。
わたしはお前のうつくしいその声がほしい。お前は地上へ行きたいのであろう。ある者に会いたいのであろう。その声を差し出すかわりにその願いを叶えてやろう。会わせてやろうではないかーー

彼女は、その囁きに彼に再び会うことができるのだと思いました。
それが叶うのであれば、この三百年の永いいのちも、うつくしいこの声も、必要はないと、差し出しました。
魔女が彼女の尾びれに触れ、地上にゆくための二本の足をさずけると、みるみるうちに呼吸がままならなくなり、からだが渦潮のなかに吸い込まれてゆくような激しい眩暈を覚えました。
彼女は、おばあさまの哀しい叫びが聞こえてくるような気がしました。
どうか、どうか哀しまないでほしいと思いました。

小さな魚たちが群れをなして、彼女のからだを地上へと打ち上げました。
一瞬の煌めきを目にすると、藤の花びらの敷き詰められた土の上に寝かされ、しなやかな尾びれは人間のような二本の足にかわっていました。ぼんやりとした意識のなか、うっすらと目を開けると、鋭い足の痛みが全身を駆け巡りました。
そうしてのたうち回り、痛みに悶えたからだはそっと意識を手放したのです。


 *

彼女はおもむろに立ち上がり、足の痛みや身に付けていた着物が濡れるのも厭わず、池のなかに踏み入ると、その水へ手を伸ばしました。
まるでこの浅い池の水に浸ろうとしているように見えました。
驚いた杏寿郎は彼女を引き戻そうとその手を掴みました。
さらに驚いたのは、いつもはこちらに構いもせず思い思いに泳いでいる庭の魚たちが、不思議なことに彼女の前へ次々と集まってくるのでした。
それは餌を求める姿とはちがいました。はっきりとしていたのは、魚たちの動きがまるで踊り出しているかのように豊かであったことです。
そのような光景を見たことはありませんでした。

「よもやよもやだ」


共に暮らすようになり、ひと月、ふた月と経っても、彼女について知る手がかりは全くと浮かばないのでした。
この奇妙な生活がいつまで続いてゆくのか、いつしか名前もわからぬまま、行く当てのない彼女と暮らすようになるのは、自然の流れのように営まれてゆきました。
それは、不思議な力に後押しされるような、これまで味わったことのない衝動によるものでした。彼はそれを何と呼べばよいのか、浮足立ったような説明のつかない感情を持て余し、己の中に何かと理由をつけては彼女との生活を続けてゆくのでありました。


杏寿郎は華奢なその身を抱え上げ、やさしく縁側に座らせました。彼が庭で摘んだつゆ草の花を手渡すと、彼女は青色の小さなその花を初めて目にでもするかのように、おそるおそるそっと触れました。
それは驚きなのか少し目を見ひらいて、嬉しそうに微笑む彼女の表情を、彼はいつまでも愛おしそうに見つめていたのです。




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