小さく息をする


 二.

その澄み渡った明るい青は空というのだと、おばあさまが云っていたのを彼女は思い出しました。それはどこまでも果てしなく、頭上へと広がった縁取りのない世界を見ていると、心がすうっと清らかな思いに包まれるのでした。
初めて目にした外の景色は、あらゆるものがきらきらと耀き、うつくしく見えました。
ふと、彼女はその景色に金色のやわらかな曲線が揺れるのを捉え、それはわたしの背中と同じ色をしている、と思いました。
何故だかいつまでも見ていたいような思いがして、視界のなかから消えたその面影を追うように、からだを揺らし後をついて泳いでゆきましたが、とうとう追いつくことはなく、池の果てに阻まれて、それ以上は先へ進むことができませんでした。


水のなかもまた、外の世界とはくらべることのできないくらいにうつくしいところでした。何層にも透き通るやわらかな色を重ね、角度を変えるたび溶け合いきらめく景色に、初めて訪れたものたちは夢のような心地がしました。
奥深く沈む池の底には、空と呼ばれるものはありませんでしたが、生き物たちは笑いあい、毎日を宴のように賑やかに過ごしていました。
この池には鯉の長がおり、その長には一匹の娘がありました。その娘は大層うつくしく、誰もがその成長を楽しみに見守っていました。鯉の一族は一様に、同じ群青色の光沢のあるからだをしていましたが、この娘だけは何故だか白く、生まれつき背びれから尾びれにかけた辺りに特徴的な模様がありました。
また性格は大人しく、いつも何処か物憂げで、思慮深い物の考え方をするのでした。
この池の底で一番物知りな彼女のおばあさんは、目を耀かせて外の世界について尋ねてくる孫娘を大変に可愛がっていました。
彼女は、地上では淡い紫色の花が鈴なりに蕾をつけ、辺りを包み込むように優しく咲いているのだと知りました。さらにこの花から漂う甘い香りは、生き物たちをうっとりとさせる魅力があるのだと聞き及び、香りを感じたことは一度もなかったので、香りを嗅ぐということが一体どういったことなのか、どうしても経験してみたくて仕方のない気持ちになりました。
鯉の一族は、それぞれに先祖から受け継がれたうつくしい声を持っており、池の底の限られた歌い手でもありました。一年に一度、地上で祭りの開かれる夜に呼応するように、その歌声は響き渡りました。池の底のものたちは、皆がその日を楽しみにしていましたが、地上では池の底から響く歌声をもののけの類だと疑われ、恐れられていました。

池の底の生き物たちは、生まれ落ちてから地上に顔を出すことはなく、日の光の届かない深い底に等しくいのちを散らして過ごしていました。けれども誰しも生きているうちのたった一度だけ、池の底から浮上することを許される日がありました。それは地上の太陽と月が重なる日、夜のように一瞬暗くなり、明けたように辺りに光を放つ、その限られた一日だけは池から顔を出し、外の世界を見にゆくことができました。
彼女は、おばあさまから聞かされる外の景色を見てみたいと、長い間その日が来ることを心に願ってやまないのでした。
五千四百七十五回目の朝に、新たに掻き消した砂の数字を名残惜しそうに撫でながら、ついにその日を迎えようとしていたのです。

外の世界は想像していたよりもずっと穏やかに、たくさんの色に滲んでいて、思わず見上げた自分とは異なる生き物のうつくしさに息をつきました。




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