泡沫の果てに


名前は逸る気持ちを抑えながら、杏寿郎の屋敷へと続く道を小走りに進んでいた。
彼と会うのは、おおよそ一月ぶりのことであった。二日前に届いた文を握りしめ、お師匠さんから頂いた柿を包んだ風呂敷を抱えて、自然と溢れ出る笑みを隠すように口を結ぶ。
秋の日に染まった木の葉が、風に吹かれ身を寄せ合い、道の両脇を埋めていた。
もしかしたらまだ戻ってはいないのかも知れない、と屋敷の門戸を抜けると、家の様子は静まり返っており、彼の名前を呼んでみたが、やはり返事はなかった。
少し開いた扉から家の中を覗くと、床に点々と血だまりのような跡が落ちていることに気が付く。

「杏寿郎さん」名前は不安になり、もう一度名前を呼びながら中へと足を踏み入れた。
廊下を少し抜け、居間へ向かうと、杏寿郎が畳の上に仰向けに寝転び天井を見上げていた。
慌てた彼女が駆け寄り声を掛ける。

「ああ、名前か」彼は微笑み、彼女の頬に手を伸ばした。
「杏寿郎さんどうなさったのです。この怪我は……お医者様を呼んで参ります」隊服の左肩が大きく裂け、血が滲んでいた。名前は傷口を抑えながら泣き出しそうな顔で彼を見つめた。
「大丈夫だ。驚かせてしまってすまない。そんな顔をしないでくれ」優しく微笑みながら云い聞かせるように「じきに収まるから、水を持ってきてくれないか」と、左肩に触れる彼女の手に自身の手を重ねた。「ですが……!お医者様を」懇願するように吐き出した彼女の言葉を静かに制止し、「医者なら決まった者がいる。だが君に早く会いたくて、立ち寄らず帰ってきたのだ。そのように悲しい顔をしてくれるな。心配はいらない」
杏寿郎は目を細めていたずらな笑みを浮かべると、再び天井を見つめ、呼吸を整えるように繰り返し息を吸っては吐き出した。次第にその胸の起伏が落ち着くのを見届け、名前は厨へ行き、水と濡らした手拭いを持って戻ってきた。
吹き出る額の汗を拭ってやりながら、このままでよいのかと、不安で堪らなかった。
そうして杏寿郎は、次第に落ち着き始めた身体の痛みを感じながら、彼女の顔をぼんやりと見つめ、静かに目を閉じた。

そのまま二刻程を眠り続け、目を覚ました時には上体を起こせる程に回復していた。
彼が身体の上に掛けられた寝具を捲り、部屋を見渡すと名前の姿はなく、厨の方から何かを調理する道具の音と、出汁を煮詰めたような独特の香りが漂ってきた。

静かに障子戸が開き、名前が切り分けた柿を盆に乗せて部屋へと入ってくる。
杏寿郎の顔を見ると、安心したように笑みを浮かべて「お身体の具合はいかがですか」と心配そうに覗き込んできた。
「もう大丈夫だ。すっかり大事のようになってしまいすまない」と彼は云った。
名前は首を横に振ると、柿は食べられますか、と一つを串に刺して杏寿郎へ差し出してきた。彼はそれを受け取り、口に含みながら「うむ、うまい!」と声を上げ、そうかもうそんな季節か、と呟いた。

此のところ季節を感じる暇もない程、以前にも増して鬼の出没情報は増えてきていた。
そのなかでも上弦下弦と呼ばれる限られた数体の鬼たちの行方を追っていたが、今だ出くわすことは出来ていない。
人質を取られていたとはいえ、十二鬼月でもない鬼に傷を負わされるなど、不覚であった。その鬼は、いつまでも己の子を手放そうとはしなかった。杏寿郎が斬り込もうとした刹那、鬼の腕のなかで赤子は笑ったように見えた。どのような姿になろうとも、子にとっては親である。子供の目の前で母親を手に掛けるなど、そんなほんの一瞬の躊躇いであった。
もっと鍛錬を積まなくては、と彼は己の手を見つめた。


「先ほど雑煮を作りました。少し落ち着いたら、召し上がってくださいませ」と彼女が気遣うように微笑んだ。
「雑煮か、早速いただこう……。しかし、その前に君の顔をよく見せてくれないか。もっと側に来てくれ」と、彼はその手を優しく引き寄せ、彼女を抱きとめた。
「杏寿郎さん、傷にさわります」と、戸惑う名前には構わず、彼女の髪に顔を埋めその香りを目一杯に吸い込むと、頬や耳もと首筋へと口づけを落とす。
そうして恥ずかしそうに己の胸で俯いた彼女の唇を撫でながら、彼は「会いたかった」と呟き暫くその身体を離そうとはしなかった。




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