充足する


庭に咲く紫式部の実が頭を垂れ、地上にしなだれかかっていた。その葉に雨の滴り落ちるのを眺めながら、名前は三味線の弦に指を沿わせた。撥(ばち)で弾かれる音を聴いていると、このような湿り気の帯びた日はどうにも音の調子が出ないなと思うのであった。杏寿郎の屋敷へ来ると、彼女はこうして幾日も重ねた練習の成果を彼に披露した。
杏寿郎はそんな彼女の背中を、何を云うわけでもなく満たされた表情で見つめていた。
彼の屋敷は、男一人棲まいにしては存外にも花が多分に植えられていた。その庭を二人で眺めながら過ごすのが、彼らの安らぎであった。

「此処で共に暮らさないか」杏寿郎は真っ直ぐな眼差しを彼女へ向けて、その華奢な身体を後ろから包み込むように抱き締めた。
彼女は唐突なその申し入れに驚きを隠せず、思わず振り向きかけ、戸惑ったように三味線を脇に置くと、また畳の上に視線を落とした。

杏寿郎はそうした彼女の姿に不安を覚え、「どうした嫌か?」と問いながら、その顔を覗き込もうとしたが、彼女は視線を合わせようとはしなかった。
「いやなんてとんでもありません……。嬉しいのです。けれどもそのような生活を望んでよいものなのか、身に余るほどのお言葉に……どうしたらよいか解らないのです」 握り締めていた銀杏形の撥が音も立てず静かにこぼれ落ちた。彼女は自身を落ち着かせようと、胸もとに位置する杏寿郎の腕にそっと手を添えた。杏寿郎と逢瀬を重ね、自身の中に淡い期待が込み上げる度、時おりこうして彼と寄り添い合い、共に居られることができればそれでよいのだとその心に言い聞かせてきた。それが喩え、永遠と続かなくとも、この時の思いを胸に、彼のあらゆる物を記憶に留めて生きていこうと思っていたのである。

杏寿郎は、彼女の不安を打ち破るように優しく微笑むと、そのうなじに顔を寄せながら、「俺は君とこの先もずっと居たい。夜ごと刀を振るい、もし君を一人残すことになればと、迷いがないわけではないが、それでも君を手放すことが出来ないこの身をどうか許してほしい。君の手に己の手を重ね、こうして君の顔をいつまでも見ていたいのだ。君を困らせたくはない。多くは望まない。唯この場で俺の帰りを待っていてはくれぬか」そうしてもう一度彼女を力強く抱き締めた。

彼女は身じろぎしながら杏寿郎へ振り返り、溢れる嬉しさを幾つもの涙液にかえて見つめ合うと、込み上げた思いを言葉に表すかわりに、その背に腕を回すのであった。




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