忘却に佇む


大桟橋から望む海は、夕暮れに染まり水面をあかね色に滲ませていた。
くっきりとした地平線を臨みながら、海がこんなにも広いものだと、名前は知らなかった。お師匠さんと暮らす置屋は、此処から差ほど離れてはいなかったが、港へ来るのは初めてであった。また杏寿郎も、鬼殺の任務で様々なところへ出向いてはいるが、それは大概夜のことであったし、緊張に張り詰めた日々は、ゆっくりと景色を眺めるなどという状況ではなかった。
海沿いのつめたいそよ風が頬を掠めた。行き交う人々の波に押されながら、二人は自然と手を取り合った。
杏寿郎はふと、二人が出会ったのもこんな人混みのなかであったな、と昔の記憶を掘り起こした。
杏寿郎が名前と出会ったのは、彼がまだ平隊士の頃、今からちょうど二年程前のことであった。


 *

行灯の光がたなびき、眩いほどの色とりどりの着物と、うつつに夢を見出だす男女たちの掛け合う声が、道中を一層明るく賑わいを持たせていた。

杏寿郎は立ち込める女たちの匂いに顔をしかめた。化粧の甘い香りが漂い、手招きされ羽織の裾を掴まれる。任務でなければ訪れることはないであろうと、一人砂利を踏みしめた。
目の前を歩く数人の女たちがこちらを振り返る。何かを探しているようで、釣られて己もその方向に目を移すと、先を行く女たちよりもまだ幼さの残る若い女が慌てたように駆けていた。
その足はおぼつかず、今にもこけてしまいそうである。人混みに埋もれてしまい、段々とその姿は見えなくなってしまった。
一瞬辺りがざわつくのを感じ無意識に足を止めた杏寿郎と、案の定こけてしまった若い女が、その場に取り残されたように道に浮かび上がった。女は気を取り直し着物の土埃を二三度払うと、その場にしゃがみ込み、膝の上で風呂敷の綻びを直そうと結び目に手をかけた。
杏寿郎は、彼女のそばに何かが落ちているのを見つけ、そばに寄ると「怪我はないか」と云いながら金塗りの雅な絵柄を施された蛤貝を手渡した。
彼女は慌てたように頭を下げ「申し訳ありません。おたおたとしていたもので……」と眉を下げると恥ずかしそうに微笑んだ。
彼女とはそれきりであったが、落としたものを渡す際に触れあった手の心地よさを、杏寿郎は忘れることができなかった。


それから幾月が過ぎたのか定かではないが、河川敷でもう一度、彼女の姿を見つけたあの日、杏寿郎はそれまで会話を交わしていた仲間たちを置き去りにすることなど気にも留めず、走り出していた。その姿を前にすると、朧気であった彼女の輪郭がくっきりと浮かび上がるのを感じ思わず微笑んだ。




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