残照を胸に


千寿郎は走り出していた。杏寿郎がこの世を去ってから、間もなく五ヶ月が経とうとしていた。行く先に彼女が居るなどという保証はなかった。
緊張しているためか、息が上がっているためか、騒がしくなる胸を静めるように、兄の屋敷に残されていた一通の文を握りしめた。
それは随分と前に兄へ宛てられたものであったが、薄い桜色の便箋に、流れるように記された文字は、その人となりを思わせるほど美しいものであった。
あの日、兄は次の任務から戻ったら紹介したい人がいると云っていた。その時の幸せに満ちた杏寿郎の顔を思い出し、千寿郎は足がもつれるのを振り払うように一心に駆けていた。知らせてやらなければと思った。もっと早くに気が付くべきであった。

千寿郎は立ち止まり、文に記された住所をもう一度見返す。
地図を読み違えていなければ、この辺りに家があるはずであった。
近所の人であろうか、道行く親切な人がその住所はこの三軒隣だと教えてくれた。
彼女の置屋は、数十件に及ぶ、他の置屋やお茶屋、和菓子屋などが軒を連ねる料亭街の一角にあった。

しかし千寿郎はその扉の近くまで辿り着くと、ふとこれは正しいことなのだろうかと途端に足が竦んでしまった。その人の状況は何一つとして知らなかった。もう五ヶ月も経っているのだ。もしかしたら余計なことかも知れない。
そう思い巡らし扉を見つめ動けずにいると、静かに扉が開き中から人が出てきた。
その人は千寿郎を見て一瞬驚きを露にしたが、どこか切なげに微笑み、彼のことを見据えた。その表情から、千寿郎は何故だか彼女がこの文の、その人であるのだろうと思った。優しそうな女性であった。

「あの」

千寿郎はそう云いかけて口を噤んだ。

彼女の後ろから、千寿郎と同い年くらいの幼い少女が、その着物をそっと掴みながら心配そうにその人を見上げている。
彼女は少女に向き直り、「大丈夫よ。これを持って先に行っていてくれる?」と優しく微笑みながら、自身の持っていた風呂敷を少女へと手渡した。
少女は千寿郎を一瞥し、腰を折り曲げて一礼すると、小走りに駆けていった。

「苗字……名前さんですか」

彼女は「はい」と静かに頷いた。泣き出しそうな何とも云えない表情で、千寿郎へと二三歩み寄り、杏寿郎よりも幼さの残るその顔に思わず手を伸ばした。
そしてはっとして堪えるように自身の手を引っ込め握り締めた彼女の姿に、千寿郎は暫く何も云うことが出来なかった。あれ程、伝えたい一心で駈けてきたのに、何一つ言葉が浮かばなかった。

「ごめんなさい。不躾なことをしてしまって……」

彼女はそっと息を吸い込み、申し訳なさそうに眉を下げた。

「あの、これを貴方に渡そうと思って」

懐から白紙に包まれた深藍色の貝を取り出すと、彼女へ差し出した。
それはいつの日か杏寿郎と名前が川へ出掛けた際に拾ったカラス貝であった。

「兄が懐紙に包んで持っておりましたので」

兄の亡骸が生家へ戻った時、持っていたのは折れた刀と、懐紙に包まれたこの貝だった。
きっと大切なものなのだろうと思った。
それが彼女に関わるものなのかどうかは分からなかったが、この貝の意味するところを自分は知らなかった。彼女なら知っているのではないかと思った。


 *

杏寿郎の音沙汰がなくなって三ヶ月が経とうとしていた頃、名前は彼の屋敷を訪れると、門戸の前に大柄な男が一人佇んでいるのを目にした。
その男は、空を少し見上げて再び視線を落とすと、その場を立ち去ろうとしていた。

最後に杏寿郎と会ったのは、彼の屋敷でのことであった。二人で庭の花を眺め、いつもと変わりない日を共に過ごした。
始めは勤めが忙しいのだろうと、便りを待ちながら日々を過ごしていた。しかしひと月、ふた月と経ち、彼がこれ程までに文一つ寄越さないのは初めてのことであった。
便りが途絶えれば辿る術などないのだと、二人の繋がりの頼りなさに胸が痛んだ。

名前は男へ声を掛けた。もしも知り合いの者であったならば、家族でも何者でもない自分が、こんなことを尋ねてよいものなのか判断などつかなかった。
それでも聞かずにはいられなかった。追い縋るように、男へ杏寿郎を知らないかと声を掛けていた。
男の名前は、宇髄と云った。彼と同じように鬼殺隊の一員であると教えてくれた。
だが杏寿郎の所在のこととなると、それきり口を噤んでしまい、それ以上は教えてくれなかった。
名前はその様子に全てを悟ったように、胸を強く抑え込んだ。

それからどのようにして置屋へと続く道を戻ったのかは覚えていない。

彼が何処かで生きて暮らしているのであれば、もう二度と会うことが叶わなくても構わなかった。
しかしそれであるならば、どうしてこんなにも躍起になって彼を探し求めたのだろう。どこかで分かっていたからだ。信じたくなかったからだ。
彼が自らの意志で居なくなるようなことがあれば、はっきりと自分へ告げるだろう。杏寿郎がどれ程に真っ直ぐな人物であるかを、名前はその身に染み入る程に分かっていた。

自分のことなど忘れて、ただ遠くに行ってしまっただけなのだと、誰かにそう云って欲しかった。

それまで出ることのなかった涙が、とめどなくこぼれ落ちた。



名前はカラス貝を受け取り、手の上で優しく握り締めた。

「ありがとう。此処まで持ってきてくださったのですね」と彼女は微笑んだ。
その笑顔に千寿郎は居たたまれなくなった。悲しいのは自分だけではないのだと思った。皆が悲しみを抱えていた。
兄はこの人と暮らすはずであった。思えばいつも人のことばかりで、自分のことなど二の次であった。
そのことが途方もなく、悔しくて堪らなかった。

気が付くと涙が溢れていた千寿郎を、驚いた彼女は心配そうに覗き込み、目線を合わせるように屈み込むと、そっと涙を拭いてやった。

そうして、小さな身体を慰めるように抱き締めて「生きて、いきましょうね」と云った。
千寿郎の肩越しに暮れなずむ景色を、彼女はいつまでも見つめていた。




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