good boy | ナノ
何となく、何かを掴めた気がしたのに完全に消えてしまった。
自分が考察した筈なのに、何処へ行ってしまったんだろうか。
多分これはまた大きなきっかけがないと思い出す事はなさそうだ、と諦めてから目の前のスプーンを口に運ぶ。
ふと視線を上げた先、同じ動きをしている冨岡先生に、溜め息が出そうになった。

「それ食べたら帰ってくださいね」

半分程減ったカレーライスに視線を落としてから、また一口運ぶ。
相変わらず無言で食べ続けている姿に今度は溜め息が出た。

例によって、一緒に帰るという状況下で、この人が大人しく玄関先でハイサヨナラをする筈もなく
「今日の名前の夕飯は何だ?」
そう訊くものだから
「カレーです」
つい馬鹿正直に答えた途端、瞳をキラキラさせた。
「俺もカレーの気分だ」
そう言って、制止も効かずほぼ無理矢理上がり込んできたのは今より少し前。
仕方ないと冷蔵庫から出した鍋に、勝手に定位置と決めた椅子へ座る姿が若干驚いていた。
「作ってあるのか」
「帰ってきてから作ると遅くなる上に、やる気も起きないだろうと思って昨日の内に作って寝かせてたんです」
ただでさえ疲れてる上に卒業式で気も遣う。
カレーなら匂いにそそられて少しは食べられるんではないかと思って作っておいたが正解だったと思う。
コンロへ掛けてから帰宅と同じ位に炊けるよう予約した電気釜を開ければ問題なく白米が出来ていて、しゃもじで軽く混ぜた。
段々と漂ってくるカレーの匂いに更にキラキラしていく瞳。
多分この人に尻尾がついてたら、この時千切れんばかりに振っていただろう。


good boy


「美味かった」
ぺろりと平らげて水を飲む動作を眺めながら考える。
「そういえばいつもの私の配分で入れちゃったんですけど、足りませんよね?」
「無理を言って上がり込んだ身だ。名前の作ったものを食せただけで有難い」
「そこで急に遠慮するのも何か違う気がするんですけど…。おかわりします?」
「良いのか?」
「えぇ。多めに作ったんで」

2日目、出来たら3日目もそれを食べるつもりで鍋一杯に作っておいたし、白米は冷凍のストックを確保するため、これまた多めに炊いていた。
丁度良いと言えば丁度良かったので、上がり込んでくるこの人を本気で制止はしなかったというのはある。

「どの位よそいます?」
そう訊ねる私を右手で制するとすぐに皿を持って立ち上がったのを目で追った。
「自分で入れる。お前は食べてて良い」
そう言うなり電気釜を開ける後ろ姿に大人しく食べかけのカレーを一口運ぶ。

よそい終えると席に着き、すぐに食べ始める姿を見ながら、切って焼いて煮て、ルーを入れただけのものをこんなに真剣に食べてくれるのは、まぁ、素直に嬉しいとも思う。

「…ごちそうさまでした」
手を合わせてから、シンクへそれを運ぶ。
空腹を満たした事でまた若干強くなる眠気に、小さく欠伸をした。
流石に今日は纏まった睡眠を取りたい。
さっさとシャワーを浴びて何もせず寝よう。
何一つ解決していないのは仕方がない。
…いや、冨岡先生との事は一応飼うという事で決着はついた…のか?

「次は何を考えている?」
ぬっと出てきた両腕にがっしりと抱き締められて、反射的に眉が寄る。
「そのいきなり武力出してくるのやめてくれませんか?結構ビックリするんですよ」
お陰でまた何を考えていたか忘れてしまった。
「今のはいきなりじゃない。皿を渡し名前を呼んだが何処かを見つめたまま反応がなかった」
「…それは、気が付きませんでした。すみません」
「相当疲れてるな。もう寝た方が良い」
「そうですね。じゃあ冨岡先生はお帰りいただいて…」
水道を止めると手を引こうとする動作が、寝室へ連れていこうとするものだと気が付いて引っ張られないよう体重を後ろへ掛ける。
「まだ寝ないんで大丈夫です。色々やらなきゃいけない事もありますし」
「明日やれば良い。今は休む事だけを考えろ」
「わかりましたわかりました!そうしますね!シャワーだけは浴びたいんで、それが終わったらさくっと寝ます。なのでご心配なく。離してくれませんか?というかもう帰ってください」
「そうか、寝る前の風呂は大事だな」
「そうなんですよ。ただでさえ花粉とか浴びてるのに学校の床に寝そべる羽目になったんでこのまま布団に入るのだけは絶対に嫌です」
想像しただけで身体がむず痒くなってしまう。
だから帰宅したらシャワーに直行したかったのに、この人のお陰で予定が狂ってしまった。

「…何してるんですか?」
手を放したかと思えば無言でジャージのチャックを下げようとする両手を掴む。
「風呂に行くのだろう?服を着たままでは入れない」
「いや、そうですけど…何で当たり前に脱がそうとするんですか」
「疲弊している中、風呂で眠ってしまっては危険だ。俺が介助する」
「大丈夫です。湯船に浸かる訳でもないので絶対に寝ませんし、明らかに危険なのはお風呂じゃなくて冨岡先生ですよ」
「この間も言ったが俺はお前が辛い時に自分の欲求を優先させたりしない」
「そうですか。でしたらすぐに帰っていただきたいです。此処でこうしてる時間を睡眠に充てたいので」
「……そうか。わかった」
突然解放したかと思えば椅子に戻っていくその行動が良くわからない。
「風呂に入ってきて良い。此処で待っている」
「…え?良いです待ってなくて。どうぞお帰りく「風呂場で倒れるという可能性もない訳じゃない。お前が出てくるまで此処で待つ」」
真剣な表情は冨岡先生なりに私を心配してくれているのだとわかるはわかるんだけども、これを許してしまって良いものかという葛藤がまた始まる訳で…。
「心配せずとも此処から一歩も動かない。お前が良いというまで"お座り"し続けよう」
「すごい犬っぽい台詞ですねそれ」
「犬っぽいじゃなく、従順な飼い犬だ」
従順か…。
確かに私が認めた事で、大人しくはなっている、かも知れない。多分。
でもそれって花粉のせいでもあるのでは…と思うけど、唯一ハッキリしているのは、この状態ではもう何を言っても効かないという事。
それだけは間違いなくて、つい溜め息が出てしまう。
「わかりました。絶対動かないでください。もし暴走したら段ボールに入れて棄てますからね」
念のためそう言ってから着替えを取りに一度寝室まで行って戻ってくると、まだ大人しくは座っている。
本当に大丈夫だろうか、と思いながら
「…コーヒー飲みます?」
手持無沙汰な姿に、このまま本当に待つつもりなら申し訳ないと出した提案も
「良い。その淹れる時間が無駄だ」
短く拒絶されて、これは本気で待つ気になっているんだろうと判断が出来た。
「…じゃあ、ちょっと行ってきます」
遠慮がちに声を掛けてから洗面所の扉を閉める。
扉1枚挟んでその存在が居るという事実に服を脱ぐのをかなり躊躇はしたが、このままグズグズ時間を掛けていると逆に危険だと判断してさっさと済ませる方に気持ちを切り替え、ジャージを脱いだ。

扉が開けられないか何回も確認しながら、出来るだけ短時間で全身を洗い終え、自分のジャージを纏う。
歯磨きをしながら、借りたジャージを先に洗ってしまおうと朝と今出た洗濯物を脱衣カゴに移してから、それだけを洗濯機に入れた。
本当ならこのまま髪を乾かす流れだけど、先に"お座り"を解除して帰っていただこうと洗面所を出る。
先程と同じように定位置に居る冨岡先生の表情は穏やかそのものだったが、音に気付くとこちらを驚いたように見た。

「もう出たのか。早いな」
「はい。無事に出ました。なのでもう"お座り"しないでお帰りいただいて大丈夫です」
「そうか。それなら俺も湯を浴びる事にする」
当たり前のようにそう言い放つと立ち上がりネクタイを弛めるものだから、どういう意味なのか考えるのが遅れてしまう。
どういう意味も何も帰るんだろうな、と。
「…あぁ、そうですね。見張っていただいてありがとうございました」
「髪は乾かさないのか?」
「あとで乾かします」
「そうか」
右手に紙袋を持つと洗面所へ向かおうとする背広を咄嗟に掴んでいた。
「向かう先をお間違えでは!?」
「言っただろう?風呂に入ると。…スーツは此処で脱いだ方が良いという事か」
「何でそんなキョトンとしてるんですか?何でそんな事が冷静に言えるんですか?そしてその袋は何ですか?さっきまでそんなの持ってなかったですよね?」
「着替えだ。お前が風呂に入っている間に取りに行ってきた」
「全然"お座り"してないじゃないですか。めちゃくちゃ自由じゃないですか」
「飼い主が見ていない所での犬は大体そうだ。心配せずとも鍵は閉めて出て行った。たった数分でも名前の身を危険に曝したりはしない」
「そうですか。それはありがとうございます。出来ればそのまま帰っていただければもっと有難かったです」
「あの鍵は俺に渡すつもりで置いておいたのか。そこまでは気が回らなかった」
「違います。もうホントに全然何にも違います」
つい目線を玄関へやれば靴箱の上にきちんと戻されていて、律儀というか何というか。
「で、何でわざわざ着替えを取りに戻ってまで人ん家のお風呂に入ろうとしてるんですか?」
「俺は従順な飼い犬だ。飼い主が寝付くまで傍で見守る義務がある」
「そんな義務聞いた事ないんですけど」
「知らないのか?犬界では有名な掟だ」
何かもう…頭痛くなってきたな…。
「それはもう…そうですか。でもお風呂に入る理由はないですよね?」
「このままの恰好ではお前は俺が寝室に入る事を許可しないだろう?」
「えぇ、それはまぁ…いや、お風呂入っても許可しませんけどね?」
「髪は乾かさないのか?」
「はい?」
「俺が風呂に入ったらお前は必然的に洗面所に入れなくなるが。それとも俺が入ってる間に乾かしに来るか?それはそれで鉢合わせするスリルが味わえるか」
…駄目だこの人、絶対に折れる気ない。
しかも正式に飼い犬になった事で全く遠慮がなくなったのが恐ろしい。
これまで放置し過ぎた報復かとさえ思えてくる。
もう何も返す言葉が見つからない。
「…ドライヤー取ってきます…」
「そうか」
うなだれながらドライヤーを片手にリビングへ戻る私と入れ違いに洗面所へ入ると
「髪の毛を乾かしたら布団に入ってろ」
それだけ言うと閉められた扉に遠い目をしてしまう。
「…そんな死しかないような事、絶対出来ないんですけど…」
呟いても聞こえてないんだろうけど、言わずにいられない。

とりあえずダイニングで髪の毛を乾かそうと椅子に座りドライヤーのスイッチを入れる。
適当に風を当てながらテーブルに置いたスマホを操作する。
動いてるのはキメツ学園のグループLINEだけで、安心している自分が居た。
てっきりまた会長からグチグチ嫌味ったらしい長文が来ているのではないかという若干の恐怖は感じていたからだ。
何故、会長が珍しく大人しいかはそのグループLINEに依って納得する。
話題は当たり前に、今日の卒業式についてのゴタゴタで、その中でも簡単な報告がてら宇髄先生の
"会長は俺の色香で黙らせといたからよ"
その一言。
これはお礼を送るべきなのか迷ってからスクロールしていけば、彼女の会長に対する言うなれば暴言が面白かったという話題になっていて、タイミングを逃したな、とそのまま画面を閉じようとした所
"でもお前、苗字を庇ってたみたいだけどな"
不死川先生の言葉に目を止める。
続く彼女の
"それ何て読むんですか〜?"
その返信につい小さく笑ってしまった。

そういえば、火曜の授業で追加しようとしていた内容を今日の内に伝えるつもりが忘れてしまっていた事に気付き、個人LINEの方を開く。
毎日とは言わずとも、指導案についてやりとりした履歴を何となく眺めてから
"お疲れ様です。指導案についてなのですが、生徒達と同じように、教師として好きな和歌をひとつ選んで話を広げるという内容を追加するのは如何でしょうか?"
送信してから、最後を無駄に漢字変換をしてしまった事に気付く。
まぁ、でも話の流れで言わんとしている事は理解出来るだろうと、とりあえずそのまま画面を閉じた。
正直直接会って話をするより、こうして文章にする方が彼女とは会話をしやすい。
"嫌です"とか"わかりました"とかそんな憮然な一言しか返ってこないけれど、指導案を始めとした仕事については真面目に聞き入れてはくれるので、そこは彼女の素直さに助けられている。

この提案に対しては何と返答が来るのかは正直予測が出来ない。
そう思いながら仕上げのドライヤーに集中しようとした所で、音声通話を告げる画面にそれを止めた。
「…お疲れ様です」
戸惑いながら耳に当てた先
『ひとつって1巻ごとにひとつですか〜?それとも20巻全部でひとつですか〜?』
間延びした声が響く。
「流石に1巻ごとにひとつは今からだと探す手間もありますし、今回は20巻の中からひとつとしたいと『私が選んだら苗字さんも同じように選んでくれます〜?』」
当たり前にその意図を考えてしまった。
ガチャッと音を立てて開けられた扉に、冨岡先生と目が合って何か言おうとする口の動きを制止しようと人差し指を自分の口唇へ当てる。
意味は理解したようで、黙ったまま椅子に座る姿から目を逸らした。
「私もですか?」
『そうです〜。20巻の中でひとつ選ぶってすっごい大変なんですよ〜。だから苗字さんも同じ事してください』
「…そうですね。わかりました。期日は火曜で良いですか?」
『良いですよ〜。じゃあ』
間髪入れずに切られた通話にスマホを下ろそうとした所で手首を掴まれる。
「…何ですか?」
「何故、気が付かなかった…?俺とした事が…とんだ失態だ…」
これ程になく酷く険しい顔をしていて、若干怯んでしまった。


今の何処に落胆する要素が


(どうしたんですか?怖いですよ)
(今程花粉症を憎いと思った事はない)
(漸く認めたんですね)


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