good boy | ナノ
「お疲れ様で〜す」

いつもとは違い、愛想を振り撒く事もなく職員室を後にした彼女の鞄には、ムスッとしたストラップが未だついていて、それが意味するものは何なのだろうかと考える。

そもそも彼女の行動は正直、矛盾で満ち溢れているように思う。

確かに、冨岡先生の事を自分から好きだとは言っていなかった。
「アナタがそう言うなら」と前置きはしていたので、それが私の言葉に煽られた結果の行動と言えば、それは納得出来る。

冨岡先生には私に気に入られる術を訊ね、交渉の末手に入れたラバストを私に見せつけ揺さぶりを掛けてこようとする。
攻撃をする事で私の心に隙を作っても、私が元凶である彼女を受け入れようとはしないとは考えないのだろうか?

そして、宇髄先生には私達の"関係を壊したい"
そう言ったという。

行動に一貫性を全く感じないのが、私が彼女に対する恐れの正体なのだと、うたた寝した事で若干働くようになった頭で考え、気付いた。

正直今の時点では

掴み所がない。
何を考えているのかが、読めない。
だから今度は何をしでかすかわからない。

それしか頭に浮かばない。

私より彼女と比較的考え方が近い冨岡先生の話を聞くのが今は最善な策か、と考えながら鳴った電話を取った。


good boy


受話器を右耳に当てた瞬間
『すいませんあの!苗字先生はいらっしゃいますか!?』
早口で告げる声の主に小さく笑ってしまいそうになるのを堪える。
「苗字は私ですが、どちら様でしょうか?」
『おわ!すいませんっ!忘れてました!』
そうして名を告げる人物はとても焦っているらしい。
『すいません、先程送ったスケジュールに変更があって…!納品が』
それ以上の言葉は、受話口の反対側にぴたりと左耳を押し付けてくる存在のせいで脳に入ってこなくなった。
空いている左手でその肩を押し返そうにも全く動かない。
『…んですけど、ご都合をお伺いしたくて』
完全に聞き逃したと顔を擽ってくるツンとした髪を掌で押さえた。
「すみません、今一度納品の変更についてお訊きしてよろしいですか?」
『あ、はい!すいません説明が下手で!製造過程でちょっと不具合が出てしまって…1週間伸びてしまうんですが…』
その言葉に壁へ貼られたカレンダーを見つめる。
「…という事は31日という事ですね。確認を取ってみますが特に問題はないと思います。お時間についてのご変更はございますか?」
『ありがとうございます!時間はそのままでお願いします!』
「わかりました。ご連絡ありがとうございます。確認しましたらメールを送らせていただきます」
失礼いたしますとお互いに言い合ってから耳から受話器を離そうとした所で、漸くその存在も距離を広げた。

「何ですか?」
受話器を置きながら右横へ目を細めるしかない。
「先程の男だな」
「そうです。言っときますけど仕事で必要なので関わっているだけですからね」
「俺しか見ていないし俺の事しか考えていない、俺以外の男は近付けもさせないから要らぬ心配をするな、という事か。わかった」
「何がわかったのかこちらは全くわかっていませんが、とりあえず納得していただけたようで良かったです」
「そうか。俺のためにあの場面で飼い犬が居ると告げたのか」
また自分の世界に入るのは、もう今に始まった事じゃないのでもう放っておく事にする。
帰り支度を始める私にその群青色がこちらに戻ってきたらしい。
「帰るのか?」
「帰ります」
正直これ以上此処に留まっていても、仕事の精度は下がり続ける一方なので早々に切り替えて明日に備えたいと立ち上がった。
「これ、ありがとうございました。洗濯してお返ししたいので、冨岡先生が使っている洗剤と柔軟剤を教えてくれませんか?」
今この場で脱ぐ訳にいかないジャージの上に手を添えて示す。
「俺の匂いを知りたいのか?いじらしいな」
「いえ、そうではなくて。全く違うもので洗濯すると匂いが混ざるんですよ」
洗濯用洗剤はともかく、柔軟剤の匂いの差は顕著に現れてしまう。
生徒達の貸出用に用意している体操着等の備品をチェックしていると、色んな匂いが混ざってたまに気分が悪くなる時がある。

「お前の匂いと交れるのなら幸福でしかないためそれを嗅ぎたい。何ならそのまま返して貰って良い。寧ろその方が俺とお前の匂いだけじゃなく体え「わかりました。水洗いしてお返ししますね」」

この人と真面目に会話をするだけ無駄なのを忘れてた。
いや、忘れてはいなかったけども、今この時は気が緩んでいた。

鞄を持つと後ろで書類を作る不死川先生に声を掛けてから職員室を出る。
後ろを付いてくる足音に振り返ると同時
「名前と一緒に帰りたい」
そう訴えてくる表情は切々としていて、思索するより先より溜め息が出ていた。

* * *

2人で並んで歩く先、朝見た時にはまだ蕾だった桜が咲いているのに気付いて目を細めた。

「袖が下がってる」
その言葉と共に捲り上げると指を絡めてくる左手に逃げようとしても遅いと気付く。
「犬と飼い主は手を繋いで歩かないと思うんですが」
「名前は俺に首輪を着けたいのか?」
「そういう意味でもないです」
「お前の望みなら首輪と縄で繋いでも良い」
「そんな人と並んで歩く自分が恥ずかしいので大丈夫です」
「ならばこれが一番最適な散歩の仕方だ」
「最適でもないんですけどね」
もう何を言っても無駄だろうと早々に諦める。
手を繋いだ事で満足したのか、喋らなくなった横顔をチラリと眺める。
パリッとしたスーツに身を包んだその姿は素直にカッコイイと言える。
「そうか。腕を組むのも良いな。歩く度に胸の感触を味わえるのが腕組みの醍醐味と言える」
黙ってるからカッコイイとか思っても、考えてる事はふざけた事なんだよな。

「冨岡先生は、彼女の事どう思います?」

脈絡はないのは承知で会話を切り出せばその瞳がこちらを見つめてくる。
「まだ妬いてるのか?」
「違います。そういう意味合いではなく、彼女に対しての心証です」
「最初から変わりはない。誰にでも懐き、見境なくキャンキャンと吠える目障りな小型犬だ」
「吠えると目障りが追加されましたよ」
「あの小型犬は今日、俺の邪魔をした」
「コミュニティルームでの話ですか?」
「違う。体育館での話だ」
体育館という事は、卒業式の時か。
「同僚としてPTA会長から護るという大役を攫っていった」
「…あぁ、顔が怖かったのはそのせいだったんですね。でもその後私にも敵意を向けてきてますから」
苦笑いをしながら思い出すのはあの光景。
暫く考えても、正直冨岡先生が抱く心証は理解が出来なくて、口を開く。

「彼女も、誰かに自分の輪郭を求めているんでしょうか?」

だから誰にでも寄っていって誰にでも噛み付く。
そう考えれば腑に落ちなくもない。
…だけど

ぐっと強まった指の力に思考を止める。

「そうしてまた理解し難い事を受け入れるために身を削ろうとする。それがお前の自虐的な所だ」
「…一応今月一杯は、彼女の教育係という責任がありますから、解決出来る問題は解決したいですし、理解を示せるのなら示したいと考えるのは普通の事だと思いますよ?」
「普通の人間はそこまで他人に時間も気力も殺がない。まず自分以外の存在が生きようが死のうが気にも留めない」
「…それはちょっと流石に大袈裟では?そこまで世知辛い世の中でもないと思いますよ?優しい人間はこの世に沢山いらっしゃ「優しさだけを振り撒く人間ならな」」
吐き捨てたような言葉に表情を窺うけれど、特に機嫌が悪い訳でもないらしい。
「人間は往々にして無責任だ。気が向いた時にしか他人の荷物は背負わない。満足すれば、或いはその気がなくなれば、平気でその場に捨て置いて去っていく。それが世を生きる人間の処世術だ」

何となく、言いたい事はわかる気がする。
この人は、何度もそうして傷を作ってきたのだろう。
多分きっと、数え切れないくらい。

「だがお前は違う。一度背負うと決めたものを絶対に放棄などしない」
随分と信用されてるな、と苦笑いが零れてしまう。
いや、この場合は信頼、というべきか。
「そのためには自分の感情さえ殺す。そうして他人に与える事でお前は」
動きを止めた革靴に視線を落としたと同時だった。

「自分を救おうとしているのだろう」

その言葉に、顔を上げられなくなってしまう。

「そうかも知れないですね。でもそれがわかるという事はやっぱり冨岡先生って「同じ穴の狢だ」」
言いたかった事を綺麗に被せられたものだからつい笑いが出てしまう。
「今までのお前は自分の限界と立ち位置を冷静に把握していた。しかし今回は、害悪に平等さを与えても更に助長させるだけだとわかっていて尚、その行動を取っている。何故そこまで自虐を繰り返す?俺はお前の全てを背負うと言った。飼い犬として認めたのなら…」
余りにも早口で言うものだから顔を上げた先、目が合った事で言葉を呑み込む姿はらしくない、と思った。
「…そうか、お前は…」
「私には良くわからないご自分の世界で納得をしてらっしゃるようですが、とりあえず帰りませんか?薬切れますよ?」
途端に聞こえるくしゃみと共に啜る鼻の音。
流石に辛いのか黙って歩き出した事で引っ張られる手に私も歩を進める。
「…そういえば冨岡先生、革靴変えました?」
ふと思った事を口にした。
「良くわかったな」
「この間見たばかりなんで流石にわかります。あれ結構年季入ってましたもんね。良いんじゃないですかそれ。似合ってますよ」
「俺が買った訳じゃない。不死川達が連名で誕生日プレゼントとして寄越したものだ」
「そうなんですね」
成程。だからセンスが良いというか、しっくり来ているのか。
そう考えた事で一度落ちた沈黙に
「お前に声を掛けなかったのは個人的に贈っていると考えたからだと言っていた」
まるでフォローをするように紡いだ言葉で小さく笑ってしまう。
「お気遣いいただいているようですが、本当に何とも思ってませんよ?」
疑うようにじっと見つめてくる群青色が徐々に安堵のものへと変わっていくのがわかった。

「心配せずとも名前の居場所は此処に在る」

握り締められた手に、その意図は簡単に窺い知れたけれど、それが余りにも強いものだから苦笑いをするしかない。
「痛いんですけど。加減をしてくれませんか?」
「最近良く考える」
「何をですか?」
「俺が名前になれたら良い、と」
「それはまぁ、どんなに頑張っても無理ですね」
「そうしたらお前に与えられる苦しみも悲しみも全部俺が請け負う事が出来る」
「そこまでして貰わなくても大丈夫なのでお気になさらないでください。冨岡先生こそ自虐が過ぎますよ。他人に対してそこまで想える事は称賛に値しますが…」

ふと、駆け巡る記憶に、咄嗟に左手で頭を押さえた。

「…どうした?」

彼女は

何故、掴めないのだろう。
自己主張はハッキリしているのに。
何故、誰にでも懐こうとするのだろう。
偉いと褒めて欲しいから?
何故、誰にでも噛み付いていこうとするのだろう。
自分の中で納得が出来ないから?

どうして冨岡先生と私の関係に目を付けたのだろう。
言葉の通り、壊したいから?
どうして、感情が高ぶると誰かに可哀想だと言うのだろう。
自分より惨めだと思いたいから?

一貫性も統一性もないのは何故?
矛盾しか感じないのは何故?

"輪郭"が見えないのは…

「…冨岡せん」

上げた視線の先、名前を呼び終わる前に重なった口唇。
完全に思考を別の方向に向けていたせいで指先ひとつ動かせなかった。
瞬きすらも忘れていたせいで離れていく伏し目がちの瞳が綺麗だとか考えてしまう。

「何だ?」
「何だじゃないですよ。…ちょっと…待ってください。考えてた事全部忘れたんですけど、どうしてくれるんですか…」
恐らく、この問題を解決に導くようなとても重要な"気付き"。
もう一度最初から考察しようとしているのに近付いてくる顔を押さえる事に意識が寄ってしまう。
「何で邪魔す「俺以外の事は考えなくて良い。何も考えないでくれ」」
そういう訳にもいかないんだけど、と口に出す前に強引に包む両腕に肩が竦んだ。
「お前は考察を重ねる程自虐的になろうとする。そして俺から離れていこうとする。ならば何も考えなくて良い。俺の事だけを考えてくれ」
「それは無理な話ですよ。仕事なんでこちらも」
「結婚したら仕事は辞めて良い。不自由はさせない」
「それも無理な話ですね。結婚して仕事を辞めなきゃいけないのなら最初から結婚という道は選びません」
「…そうか。教師はお前の幼い頃からの大事な夢だったな。俺の理想を押し付けようとしたのは悪かった。仕事は辞めなくて良い。やはりこうした話し合いは大事だ。入籍はいつにする?」
「そうですね。話し合いは大事ですね。冨岡先生の場合、話し合いにまで至らないのが問題だというのをそろそろ気が付いて欲しいです」
「何故だ。折衷案を示した筈だ」
「それはわかるんですけど、どうしてそこから入籍の話になるのかって話なんですよ」
「それは単純明快に俺がお前と結婚したいからだ」
「そうですか。私は単純明快に結婚する気はないです」
「冨岡名前…良いな」
「何一つとして良くないです」


それで何のだっけ?


(もしかして婿入りを希望か?)
(全くホントに微塵もそんな希望はありません)
(苗字義勇、それも悪くない)


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